第11話 灰燼の名
アッシュが林道を踏み出すと、足元の霧がゆらりと流れた。
崖の縁では風が長草と薄霧を巻き上げ、淡い紫の長髪を持つ少女が背を向けて立っていた。
彼女の歌声は、空気の中に絹のように溶けて消えていく。
アッシュは魔導銃を構え、銃口に刻まれた蒼金の符文が霧に揺らめいた。
狙いは、彼女の背中。
「……魔女。」
歌声が止まり、少女がゆっくりと振り向く。
琥珀色の瞳が霧の中で光り、唇に笑みのような影が浮かぶ。
「恩人に対して、その仕打ちか?」
アッシュは返事をせず、引き金を引いた。
符弾が空を裂いて飛ぶ——だが、少女の前で炸裂し、光の粒となって消えた。
霧の中、ヴァルフロストが音もなく降り立ち、翼の風圧で銃弾の力を完全に打ち消した。
「くっ……」
アッシュは低く悪態をつく。震える手首が、負傷の影響を物語っている。
魔導銃の符文はすでに光を失っていた。
腰の傷が魔力の流れを阻害し、連日の使用で魔導器そのものも限界に近い。
彼女は、もう手の届く距離にいるというのに——
それでも、復讐の一撃は叶わない。
苛立ちが胸を締め付け、呼吸が乱れた。腰の傷が熱を帯び、鋭く痛んだ。
【アッシュ!】
リメアが駆け寄り、彼の銃を持つ腕に爪を立て、
必死に止めようとするその動きに、アッシュは思わず振り払おうとする——
だが、その瞬間。
淡銀に青の暈が差す竜の瞳が、彼を映していた。
それは、これまで見たことのないほどの不安に満ちていた。
少女の唇が微かに動き、低く、深い旋律が口からこぼれる。
まるで海の底から響く潮のような歌声が、アッシュの意識を優しく包む。
その旋律が、怒りと殺意を一層一層、沈めていく。
呼吸が次第に落ち着き、目の赤みが次第に冷たい色へと戻っていく。
アッシュはゆっくりと息を吐き、魔導銃を下ろした——
だが、その口調にはまだ鋭さが残っていた。
「……魔女、何を企んでいる?」
少女はすぐに答えず、霧の上を歩くような軽やかな足取りで近づいてくる。
「何をしてるか、ですって?」
彼女は問い返すように呟き、口元に微笑を浮かべる。
「私は、ずっと同じことをしてるわ。歌で魔獣たちを、人間の罠や鎖から解き放ってるの。」
彼女はヴァルフロストの首筋に手を伸ばし、低く語る。
「彼は人間の言葉を話さない。でも、私の歌なら通じる。」
「……じゃあ、あの戦争も、お前の歌だったのか?」
アッシュの声が冷たく響く。目は剣のように少女を貫いていた。
少女が言葉を発する前に、アッシュは一歩踏み出し、彼女に飛びかかった。
二人は湿った草の上に倒れ込む。
アッシュは彼女の額に銃口を押し当て、半身を起こす。
少し離れた場所ではヴァルフロストが霧を吐き出しながら静かに立っていた。
……しかし、止めに入ることはしなかった。
【ア、アッシュ! ダメだってば!】
リメアが必死に背後から押し返し、爪で彼の背中を引っかくようにして止めようとする。
【このひと……このひと、龍語がわかるのよっ!】
「龍語だと?」
アッシュは鼻で笑った。視線は一切彼女に向けず。
「アエクセリオンは、こいつの歌で死んだんだぞ。……お前はそれ、わかってるのか?」
銃口が額に深く押し付けられ、金属の冷たさが彼女の肌に沁みる。
それでも、少女の呼吸は乱れず、落ち着いていた。
「そのことは——」
その声は、小さくても耳元ではっきりと響いた。
「……私も、悔いている。」
アッシュの指が引き金にかかる。
力が入りすぎて、関節が白く浮かび上がる。
「もし私を殺すことで、あなたの怒りが収まるなら——」
少女は静かに言った。
「……撃てばいい。」
痛みと怒りが交錯し、アッシュの視界は一点に狭まっていく。
額、そしてその瞳。
あまりにも穏やかで、挑発のようですらある。
引き金にかけた指が、わずかに動いた——
——バン。
だが、銃声は思ったよりも虚ろだった。
弾は額を外れ、少女の横の地面に刺さった。
土と草が散り、静寂が戻る。
アッシュは銃を下ろし、低く呟いた。
「……魔女。」
そのまま立ち上がり、風に揺れる背を向ける。
「……懺悔したいなら、俺を手伝え。」
少女は身体を起こし、黙って彼を見つめていた。
半年前、戦場で初めて出会ったとき——
彼は竜王の背に立ち、銀の鎧を纏い、日差しを浴びて輝く剣を掲げた王国の英雄だった。
だが今、彼の眉間には深い皺が刻まれ、
灰の瞳には癒えることのない悲しみが浮かんでいた。
彼の黒銀の短髪が風に揺れ、陽の光が髪をほとんど白く染めていた。
その光は、かつての栄光ではなく、運命の嘲笑のように映った。
少女はゆっくりと立ち上がり、はっきりと告げる。
「私はリゼリア。あなたじゃなく——リメアのために手を貸すわ。」
アッシュの眉がわずかに動いた。「……名前を知っているのか?」
リゼリアは自信たっぷりに微笑む。
「あなたより、いろいろと知ってるわよ?」
アッシュはそれ以上問い詰めず、ただ冷たく言った。
「……魔女、妙な真似はするな。今後の道のりは、生易しいものじゃない。」
「そっちこそ。」
リゼリアは挑むように言い返す。
そんな二人の間で、リメアがキョロキョロと見比べる。
尻尾を左右にぱたぱた揺らしながら、困ったように言った。
【ねえ、なに話してるの? まったく……あたしにも分かるように話してくれなきゃ、置いていくよ!】
アッシュは無言で歩き出す。
「待って。」
背後からリゼリアの声が追ってくる。
彼は立ち止まった。
「いま、あなたの名前は?」
アッシュは半身だけ振り返り、無表情に答える。
「アッシュ。」
「灰燼、ね……」
リゼリアはくすりと笑った。目はどこか、彼の奥を見ているようだった。
「ふふ、似合ってる。」
崖の風が二人の間を吹き抜け、霧を巻き上げる。
その一言も、風に乗り、蒼茫の彼方へと消えていった。




