第100話 目覚めの鐘
……鐘の音がした。
最初にアッシュが聞いたのは、それだった。
低く、遠く、まるで水の底から響くように、耳の奥でゆっくりと反響する。
彼はゆっくりと目を開けた。
視界は、白光に包まれていた。あまりの眩しさに、焦点が合わず、周囲がぼやける。
(……ここは……どこだ?)
鼻先に漂うのは、かすかな香り。薬草と、焚香を混ぜたような澄んだ匂い。
耳に届くのは、どこかで唱えられる祈りの声。静かで、律動的で、まるで空気を撫でるように響いていた。
アッシュは身を起こそうとした。痛みは、なかった。
肩の裂傷も、肋の打撲も、すべて……跡形もなく癒えている。
(……これは……)
身体を見下ろして、一瞬、息を呑んだ。
まるで最初から傷など存在しなかったかのように――完全な癒し。
治癒魔法でも到底及ばぬ、異常なほどの回復力。
だが、身体の奥に残る空虚感は消えていなかった。
失血と魔力消耗による重苦しい疲労が、鉛のように四肢を沈める。
彼はベッドの縁に手をつき、ようやく立ち上がった。
身につけているのは、大聖堂が用意した療養用の衣――
白いシャツと濃紺のズボンは薬草の匂いを纏い、帯もしっかりと結ばれていた。
彼は無意識に胸元に手をやる。
そこにはまだ、銀の紐に通された二枚の鱗があった。
氷のように冷たい、アエクセリオンの鱗――その感触に、少しだけ息が整った。
「目が覚めたのですね」
そのとき、部屋に響いたのは穏やかな女の声だった。
振り向けば、扉の前に立っていたのはエルセリア。
朝の光を受けた翠の瞳は、感情を表すことなく静かに揺れている。
その背後には、セイフィナが腕を組んで壁にもたれていた。
「ここは大聖堂の療養室です」
エルセリアは静かに歩み寄り、淡々と告げた。
「あなたは重傷を負っていました。治療がなければ、もう……この世にはいなかったでしょう」
アッシュは視線を伏せ、自らの手のひらを見つめる。
(……やはり、ここに連れてこられたか)
思い浮かぶのは、リゼリアのこと。今、彼女は無事なのか。
そしてリメアは……大聖堂の者に、拘束されてはいないだろうか。
最後に思い至ったのは、あの箱。
アッシュの指先が静かに震える。眉間には、深く陰が落ちていた。
「安心してください」
思考を断ち切るように、エルセリアが言う。
翠の瞳が、彼の内心を見透かすように揺れる。
「あなたの仲間は、皆無事です」
少し言葉を切ってから、彼女は付け加えた。
「……教皇使節が、あなたに会いたがっています。セイフィナが案内します。
他のことは、それからにしましょう」
扉が開かれたとき、アッシュはシャツの最後の紐を締め終えたところだった。
セイフィナが無言で立っている。表情は硬く、わずかに緊張の色が見える。
「教皇使節殿は、側堂におられます」
アッシュは黙ってうなずき、胸元の鱗を指でなぞりながら衣の下にしまい込む。
そして、彼女の後を追い、療養室をあとにした。
側堂は療養室よりも広く、天井は高く、壁には古代の聖紋がびっしりと刻まれていた。
その正面、木製の高座に腰掛ける男――教皇使節は静かに待ち構えていた。
その周囲には銀の鎧に身を包んだ騎士たちが数名、無言で立ち並んでいる。
だが、アッシュの目はすぐに別のものに奪われた。
使節の傍らに、あの箱があった。
「ノアディス殿下」
使節の声は静かだったが、鐘のように耳に響いた。
「あなたが聖遺物を携えていた件、すでに承知しているはずです」
アッシュの眉がわずかに寄る。
「……あれは聖遺物なんかじゃない」
その返答に、使節は軽く眉を上げ、無知な子供を見るような目でうなずいた。
そして手で合図すると、騎士が箱をアッシュの前へと押し出す。
「開けなさい。自分の目で確かめるのです」
アッシュは動かない。
使節は焦らなかった。静かに立ち上がり、高座の上から彼を見下ろす。
「千年前の霊火災戦争――人と竜が七年戦い、世界が崩れかけた時代を知らぬとは言わせません」
アッシュの瞳がわずかに揺れた。
その歴史を、知らぬはずがない。
「そのとき、人類の始祖と初代聖女は、竜王と契約を結びました。
両者の力を共律の封印に閉じ込め、世界の均衡を保ったのです」
「その封印を永劫維持するには、聖女の血と、聖遺物が必要不可欠……」
使節の声が堂内に低く響く。
「その箱に封じられているのは、その封印の中核。すなわち、この世界の平衡そのものです」
アッシュは箱から目を離さない。
指先に力がこもり、手がわずかに震えている。
「……それでも、あれは……アエクセリオンのものだ」
「彼は既に死んだ」
使節は淡々と告げる。そこに一片の情すらない。
「死者の遺物は、神のもとに戻るべきだ」
アッシュは一拍の間、黙し――
そして静かに踵を返した。
「……仲間に会わせろ」
即座に二人の騎士が前に出て、槍を横に構え、彼の進路を遮る。
「どけ」
低く絞った声には、怒りが滲んでいた。
次の瞬間、冷たい光が横薙ぎに閃く――
鋭い金属音。アッシュは回避しきれず、槍の柄が肩を強打した。
体がよろめき、背後の石柱に激突する。
激しい痛みに息が詰まり、口の中に血の味が広がった。
追い討ちのように、別の騎士が膝蹴りを放つ。
腹部に直撃し、アッシュは呻き声を漏らしながら膝を折った。
視界がぐらつき、闇がにじむ。
「やめなさい」
使節の声は鋭く、そして冷ややかだった。
「ここを街の裏路地と勘違いしないように」
騎士たちは即座に下がったが、アッシュはすでに片膝をつき、震える腕で床を支えていた。
使節がゆっくりと歩み寄り、彼の前で立ち止まる。
「無理をするな」
「協力するか、担ぎ出されるか――選べ。結果は変わらん」
アッシュは奥歯を食いしばり、滲む汗が頬を伝う。
そのとき、背後から再び槍が飛んできた。
「……ッ!」
その一撃で視界は真っ白に染まり――
アッシュの意識は、ぷつりと途切れた。
「連れて行け」
使節の声は冷酷なほど、静かだった。
騎士たちは無言で彼を担ぎ上げ、もののように抱えて側堂をあとにする。
ただ、箱だけが高台に残され、白い光の中で鈍く冷たく輝いていた。




