第96話 東への決意
翌朝の工房は、どこか張り詰めた空気に包まれていた。
「昨夜、誰かが近くを探ってたわ」
メリッサが窓を開けて外の空気を入れながらも、眉間の皺は消えない。
「今夜まで持ちこたえたとしても、その後どう動くかは決めておかないと。街の中はもう安全じゃない」
アッシュはテーブルの縁に背を預け、低く尋ねた。
「フィリシアは?」
「頼まれたことは、できるだけやったわ」
メリッサは肩をすくめ、両手を広げてみせた。
「あとは、返事を待つしかない」
リゼリアが顔を上げ、アッシュを見つめる。
「それで、あなたは? これからどうするの? フィリシアは何を?」
アッシュは指を組み、わずかに俯いて答えた。
「彼女には人手を借りたいと頼んだ。セラウィンから来るとしても、最短で二日はかかる……今夜までに間に合えばいいが」
リゼリアは一瞬黙り込んでから、ふと思い出したように問いかけた。
「そのあと、どうするつもり? 王国に戻るの?」
アッシュはしばし黙り、それから問い返した。
「……お前、前に言ってただろ。俺とリメアと、東へ旅をするって」
リゼリアは唇を引き結び、視線を逸らす。
「……本当に東じゃなきゃだめなの?」
「アエクセリオンの遺言だ」
アッシュの声は低く、否定を受け入れない何かを宿していた。
「変ね」
リゼリアがじっと彼を見据える。
「あなた、アエクセリオンと言葉を交わせないって言ってたわよね? それでどうやって遺言を知ったの?」
その一言に、アッシュはぴたりと動きを止めた。
胸の奥深くにしまっていたものを突かれたように、わずかに目を見開く。
「……竜王、殿下に話しかけてないの?」
メリッサも驚いたように口を挟む。
「心声ってものがあるんじゃなかったの?」
アッシュは目を閉じ、しばらく沈黙した。
記憶の中にある、あの声。
昨夜のことのように鮮やかに、今も脳裏に焼きついている。
『お前が王である必要はない。
ただ――
彼女が飛び立つ時、振り返る必要がないようにしてやれ』
彼は目を開き、少し迷いの混じった声で言った。
「……言葉じゃなかった。心声でもなかったかもしれない。
でも——あの時、確かに聞こえたんだ」
そこで一瞬、アッシュの視線が揺れる。
「竜と人は、本来互いの『想い』の形を完全には読めない。
死の間際ならなおさらだ。
あれが本当にアエクセリオンの意思だったのか、
それとも……俺が勝手に形にした『残響』だったのか、今でも分からない」
握った手に力がこもる。
「それでも——あの瞬間、あれが俺に向けられた言葉だと、
どうしても思えてしまったんだ」
「リメアを、争いのない場所へ連れていきたい。
それが俺の出した答えだ。
アエクセリオンは東を見ていた。
……あれは、あいつが望んだ場所だ。リメアが、自由に飛べる場所」
「でも、もし——あなたが勘違いしてるとしたら?」
リゼリアの声は静かだったが、冷静な響きを帯びていた。
「本当は、あの子を縛ってるのは、あなた自身で。
……解き放ってほしかったのかもしれないって、思わないの?」
アッシュの呼吸が一瞬止まる。
その言葉は、彼の心にある最も触れてはならない部分を突き刺した。
自分は間違っているのかもしれない。
あの言葉は、自分の願望を勝手に重ねたものだったのではないか。
——何度もそう疑った。
それでも、信じるしかなかった。
胸の奥に裂け目が走る。
怒り、羞恥、戸惑い。いっぺんに吹き出しそうになる。
彼は鋭くリゼリアを睨みつけ、言葉を投げつけた。
「……あたかも知ってるような口ぶりだな。
その『遺言』とやら、お前にも見えるのか? それが魔女の力か?」
「……」
リゼリアは唇を引き結び、何も返さなかった。
アッシュが「魔女」と呼ぶ時、それはいつだって怒りと傷の裏返しだった。
室内には、ぱちぱちと焚き火の音だけが残った。
リメアが首をかしげ、ふたりの間を見上げる。
尾が床に触れる音も、どこか寂しげだった。
小さな声で「キュッ」と鳴いた。
アッシュは息を吸い、視線を逸らして額を押さえる。
湧き上がる怒りを喉奥に押し込むように。
「……もういい」
低く漏れた声には、ようやく平静さが戻っていた。
「お前と喧嘩したいわけじゃない」
リゼリアは俯いて、そっと頷くだけだった。
その時、外から慌ただしいノックの音が響いた。
メリッサが扉を開け、届けられた文を開封する。
「セイフィナからよ」
彼女が手紙をアッシュに手渡すと、アッシュは素早く目を通し、内容を声に出した。
「……付近での輸送情報を掴んだらしい。今夜の合流地点も決めてあるそうだ」
メリッサは片眉を上げて、口元に冷えた笑みを浮かべた。
「教国、やけに積極的ね。私の情報網より早いとは」
アッシュは手紙を閉じ、息を深く吸い込んだ。
「……予定通り、動くぞ」
◆ ◆ ◆
夜が深まり、城外の風には湿り気が混じっていた。
アッシュ、リゼリア、リメアが合流地点に到着した時、セイフィナはすでにそこにいた。
彼女はふたりを一瞥して、眉をひそめる。
「……言ったはずよ。今回は、彼女たちを連れてこないようにって」
アッシュは肩をすくめるだけで、言い訳もしなかった。
「……止められなかった」
【また置いてかれるなんて、ぜったいヤダ!】
リメアがぴょんとアッシュの横に跳ね寄る。尾をぱしんと振って抗議する。
【前だって、あたし待ってたのに!】
セイフィナは目を細め、少し睨むようにリメアを見つめる。
「……竜まで連れてくるつもり?」
「本人の意志だ」
アッシュは低く返し、リゼリアに視線を向ける。
「今は、どっちも俺の手に負えない」
リゼリアはそれに何も返さず、ただ静かに見つめ返すだけだった。
アッシュはしばし黙った後、膝を折ってリメアの頭を撫でる。
「……よく聞け。今夜の最優先は、リゼリアの護衛だ。戦うかどうかは、状況次第——いいな?」
【うん、わかった!】
リメアは誇らしげに顔を上げ、瞳をきらきらと輝かせた。
セイフィナはその様子を見て、何か言いたげに口を開きかけたが、結局はため息まじりに言った。
「……好きにしなさい」
そしてくるりと背を向けて、手で合図を送る。
「ついてきて。少し距離があるわ。倉庫ではもう人員交代が始まってる。交渉前に、先に潜んでおくわよ」
アッシュは立ち上がり、最後にもう一度だけリゼリアを見て、
短く言った。
「——ついてこい」
風が吹き抜け、松明の灯が揺れる。
その光に照らされ、三つの影と一つの小さな翼が、闇に包まれた路地へと消えていった。




