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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第九章:背中を預ける敵

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第96話 東への決意

 翌朝の工房は、どこか張り詰めた空気に包まれていた。


 「昨夜、誰かが近くを探ってたわ」

 メリッサが窓を開けて外の空気を入れながらも、眉間の皺は消えない。

 「今夜まで持ちこたえたとしても、その後どう動くかは決めておかないと。街の中はもう安全じゃない」


 アッシュはテーブルの縁に背を預け、低く尋ねた。

 「フィリシアは?」


 「頼まれたことは、できるだけやったわ」

 メリッサは肩をすくめ、両手を広げてみせた。

 「あとは、返事を待つしかない」


 リゼリアが顔を上げ、アッシュを見つめる。

 「それで、あなたは? これからどうするの? フィリシアは何を?」


 アッシュは指を組み、わずかに俯いて答えた。

 「彼女には人手を借りたいと頼んだ。セラウィンから来るとしても、最短で二日はかかる……今夜までに間に合えばいいが」


 リゼリアは一瞬黙り込んでから、ふと思い出したように問いかけた。

 「そのあと、どうするつもり? 王国に戻るの?」


 アッシュはしばし黙り、それから問い返した。

 「……お前、前に言ってただろ。俺とリメアと、東へ旅をするって」


 リゼリアは唇を引き結び、視線を逸らす。

 「……本当に東じゃなきゃだめなの?」


 「アエクセリオンの遺言だ」

 アッシュの声は低く、否定を受け入れない何かを宿していた。


 「変ね」

 リゼリアがじっと彼を見据える。

 「あなた、アエクセリオンと言葉を交わせないって言ってたわよね? それでどうやって遺言を知ったの?」


 その一言に、アッシュはぴたりと動きを止めた。

 胸の奥深くにしまっていたものを突かれたように、わずかに目を見開く。


 「……竜王、殿下に話しかけてないの?」

 メリッサも驚いたように口を挟む。

 「心声ってものがあるんじゃなかったの?」


 アッシュは目を閉じ、しばらく沈黙した。

 記憶の中にある、あの声。

 昨夜のことのように鮮やかに、今も脳裏に焼きついている。


『お前が王である必要はない。

 ただ――

 彼女が飛び立つ時、振り返る必要がないようにしてやれ』


 彼は目を開き、少し迷いの混じった声で言った。

「……言葉じゃなかった。心声でもなかったかもしれない。

 でも——あの時、確かに聞こえたんだ」


 そこで一瞬、アッシュの視線が揺れる。

「竜と人は、本来互いの『想い』の形を完全には読めない。

 死の間際ならなおさらだ。

 あれが本当にアエクセリオンの意思だったのか、

 それとも……俺が勝手に形にした『残響』だったのか、今でも分からない」


 握った手に力がこもる。

「それでも——あの瞬間、あれが俺に向けられた言葉だと、

 どうしても思えてしまったんだ」


「リメアを、争いのない場所へ連れていきたい。

 それが俺の出した答えだ。

 アエクセリオンは東を見ていた。

 ……あれは、あいつが望んだ場所だ。リメアが、自由に飛べる場所」


「でも、もし——あなたが勘違いしてるとしたら?」

 リゼリアの声は静かだったが、冷静な響きを帯びていた。

「本当は、あの子を縛ってるのは、あなた自身で。

 ……解き放ってほしかったのかもしれないって、思わないの?」


 アッシュの呼吸が一瞬止まる。

 その言葉は、彼の心にある最も触れてはならない部分を突き刺した。


 自分は間違っているのかもしれない。

 あの言葉は、自分の願望を勝手に重ねたものだったのではないか。

 ——何度もそう疑った。

 それでも、信じるしかなかった。


 胸の奥に裂け目が走る。

 怒り、羞恥、戸惑い。いっぺんに吹き出しそうになる。


 彼は鋭くリゼリアを睨みつけ、言葉を投げつけた。

「……あたかも知ってるような口ぶりだな。

 その『遺言』とやら、お前にも見えるのか? それが魔女の力か?」


「……」

 リゼリアは唇を引き結び、何も返さなかった。

 アッシュが「魔女」と呼ぶ時、それはいつだって怒りと傷の裏返しだった。


 室内には、ぱちぱちと焚き火の音だけが残った。

 リメアが首をかしげ、ふたりの間を見上げる。

 尾が床に触れる音も、どこか寂しげだった。

 小さな声で「キュッ」と鳴いた。


 アッシュは息を吸い、視線を逸らして額を押さえる。

 湧き上がる怒りを喉奥に押し込むように。


 「……もういい」

 低く漏れた声には、ようやく平静さが戻っていた。

 「お前と喧嘩したいわけじゃない」


 リゼリアは俯いて、そっと頷くだけだった。

 その時、外から慌ただしいノックの音が響いた。

 メリッサが扉を開け、届けられた文を開封する。

 「セイフィナからよ」


 彼女が手紙をアッシュに手渡すと、アッシュは素早く目を通し、内容を声に出した。

 「……付近での輸送情報を掴んだらしい。今夜の合流地点も決めてあるそうだ」

 メリッサは片眉を上げて、口元に冷えた笑みを浮かべた。

 「教国、やけに積極的ね。私の情報網より早いとは」


 アッシュは手紙を閉じ、息を深く吸い込んだ。

 「……予定通り、動くぞ」


 ◆ ◆ ◆


 夜が深まり、城外の風には湿り気が混じっていた。

 アッシュ、リゼリア、リメアが合流地点に到着した時、セイフィナはすでにそこにいた。

 彼女はふたりを一瞥して、眉をひそめる。

 「……言ったはずよ。今回は、彼女たちを連れてこないようにって」


 アッシュは肩をすくめるだけで、言い訳もしなかった。

 「……止められなかった」


 【また置いてかれるなんて、ぜったいヤダ!】

 リメアがぴょんとアッシュの横に跳ね寄る。尾をぱしんと振って抗議する。

 【前だって、あたし待ってたのに!】


 セイフィナは目を細め、少し睨むようにリメアを見つめる。

 「……竜まで連れてくるつもり?」


 「本人の意志だ」

 アッシュは低く返し、リゼリアに視線を向ける。

 「今は、どっちも俺の手に負えない」


 リゼリアはそれに何も返さず、ただ静かに見つめ返すだけだった。

 アッシュはしばし黙った後、膝を折ってリメアの頭を撫でる。

 「……よく聞け。今夜の最優先は、リゼリアの護衛だ。戦うかどうかは、状況次第——いいな?」


 【うん、わかった!】

 リメアは誇らしげに顔を上げ、瞳をきらきらと輝かせた。


 セイフィナはその様子を見て、何か言いたげに口を開きかけたが、結局はため息まじりに言った。

 「……好きにしなさい」

 そしてくるりと背を向けて、手で合図を送る。

 「ついてきて。少し距離があるわ。倉庫ではもう人員交代が始まってる。交渉前に、先に潜んでおくわよ」


 アッシュは立ち上がり、最後にもう一度だけリゼリアを見て、

 短く言った。

 「——ついてこい」


 風が吹き抜け、松明の灯が揺れる。

 その光に照らされ、三つの影と一つの小さな翼が、闇に包まれた路地へと消えていった。

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