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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第九章:背中を預ける敵

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第95話 拒絶できない帰還の箱

 朝の光が工房の窓の隙間から、そっと差し込んでいた。

 だが部屋の中にはまだ、夜の気配がわずかに残っている。


 リゼリアが目を覚ましたとき、隣はすでに空だった。

 リメアの姿も、部屋のどこにも見当たらない。


 彼女はマントを羽織り、静かに部屋を出る。

 廊下の端、長椅子に腰かけるアッシュの姿が見えた。

 その膝元にはリメアがしゃがみこみ、尾をぷいぷいと不満げに揺らしていた。


 心の声は届かずとも、動きや声音だけで分かる。

 リメアはどうやら、何かをぷんぷんと訴えているらしい——


 アッシュは黙ってその頭を撫でていた。

 慰めるような、あるいはなだめるような手つきで。


 リゼリアの足音に気づいたリメアが、きゅっと首をひねり、低く鳴いた。

 〈昨日、また置いていった!〉

 〈眠いの我慢したのに、ずっと待ってたのに!〉

 リメアの龍語がぶつけられる。


 アッシュはちらとリゼリアを見て、淡々とした声で言った。

「朝からずっと、そればっかり言ってる」


 リゼリアは思わず笑みをこぼし、しゃがんでリメアの頭を撫でた。

「ごめんね、心配かけちゃったね」

 リメアは鼻を鳴らしてそっぽを向きながらも、そっと彼女に身を寄せた。


 アッシュがリゼリアを見つめる。先ほどより、ほんの少しだけ柔らかい声。

「……ちゃんと休めたか?」

 「休むべきなのは、あなたのほうでしょ?」

 リゼリアは眉をひそめた。


 顔色は悪くないが、疲れが残っているのは見て取れた。

 そこへ、メリッサがパンとスープを盆に載せてやってくる。

 「まずは何か食べて。私は他の準備があるから」

 木の盆をテーブルに置く。


 「今回のスープは、俺が作った」

 アッシュが淡々と付け足した。


 リゼリアは一瞬ぽかんとして、それから昨夜のしょっぱいスープを思い出し、口元を緩めた。

「……昨日より美味しければ、合格かな」


 その時、奥の方からゴトリと機材を動かす音がした。

 メリッサが魔導通信器を押してくると、手についた灰を払いながら言った。

 「魔力の充填は済んでる。周波数も合わせておいたわ。通信要求も出したし、あとは返答を待つだけよ」


 リゼリアは通信器に目を向ける。

 「……誰に連絡するつもり?」


 アッシュは通信器を自分の方へ向け、表情を引き締めた。

「——セドリックだ」


 リゼリアは一瞬だけ息を止めたが、それ以上は何も言わず、そっと腰を下ろして彼を見守った。



 沈黙の中、通信器の水晶がふっと光を灯し、低く唸るような音を響かせた。

 「……おや?」

 井戸の底から響くような、深く乾いた声が聞こえてくる。

 声の尾には、皮肉っぽい笑みがにじんでいた。

 「これは珍しい。未来の王が自ら俺を呼ぶとはね?」


 アッシュの眉がぴくりと跳ねる。

 「……何のつもりだ」


 「怒るなよ。褒めてるんだ」

 セドリックの声は蛇のように絡みついてくる。

 「その呼び名、案外似合ってると思うけど? いつまで皆で見て見ぬふりをするつもりなんだろうね」


 「真面目な話に戻れ、殿下はあなたの冗談を聞きに来たんじゃない」

 メリッサが横から皮肉交じりに割り込む。


 「おやおや、メリッサもいたのか。これはこれは」

 セドリックの声にほんの少し愉快さが混ざる。

 「君の溜息が聞けるだけで、この通信器を通す価値があるというものだよ」

 メリッサはふん、と鼻で笑って黙り込んだ。


 アッシュの息がやや荒くなる。怒りを無理に抑えている気配が伝わる。

 「……答えろ。箱の中身は何だ」


 「前にも言ったろう? 竜王の血を染み込ませた符釘だよ」

 セドリックが軽く笑うが、感情の色は読み取れない。


 「ごまかすな」

 アッシュの声が低く唸るように落ちる。

 「その符釘は、アエクセリオンの遺骨で作られてる……それは俺にもわかる。だがこの箱に入っていたのは違う。答えろ、本当は何だ」


 短い沈黙が落ちる。


 「——君は、もう気づいているんじゃないか?」

 セドリックの声が一転して柔らかくなる。

 まるでどうでもいいことを話すような口ぶりで、

 「君はその末裔を連れている。心臓まで持って。完璧な物語じゃないか。帰れよ、王国に。……それさえあれば、言葉なんていらない。王座は、君のものさ」


 アッシュの指が通信器の縁に喰い込み、白くなっていく。

 「……ふざけてるのか」


 「ふざけちゃいないよ」

 セドリックの声は低く、耳元に貼りつくようだった。

 「君は王であることを否定しているが、その行動はまるで——王国の未来を守っているかのようだ。いつまで誤魔化し続ける気だ」


 アッシュは言葉を失った。胸が鈍く痛む。

 「俺を弄んでるつもりか……?」

 声は低く、ひとつひとつの言葉が噛み砕かれるようだった。

 「王都から俺を逃がし、その後でこの箱を渡す。……楽しいか?」


 「楽しいかどうかは問題じゃない」

 セドリックの声がさらに静かに落ちる。

 「問題は——この心臓を次に誰が使うか、だよ」


 通信器の向こうから、軽く指で机を叩くような音が響く。


 「殿下。君はこれを、誰に託すつもりなんだ? 王国か? 教国か? ……それとも、自分で食らうのか?」


 アッシュは長く沈黙した。

 その沈黙を切り裂くように、リメアが不安げに小さく鳴いた。

 アッシュはその声に反応して手を引き、通信を切断した。


 工房に、ぴたりと静寂が張りつめる。


 「……本当に、あの男は最悪ね」

 メリッサが息を吐く。

 「話すたびに胃が痛くなる」


 アッシュは何も答えず、俯いたまま。

 前髪が表情を隠していた。


 リゼリアはその背を見つめ、テーブルクロスをぎゅっと握った。

 長い沈黙のあと、通信器の光が完全に消えると、アッシュはようやく顔を上げた。

 「……明日の夜、あの符釘の輸送を襲う」

 彼の声は低く、硬かった。

 「エルセリアとの約束は、事件が解決するまで。それが終われば、彼女はいつでもお前を連れていける。俺が保証できるのは、そこまでだ」


 リゼリアはすぐには何も言えなかった。


 「だから、もし逃げるなら……今しかない」

 アッシュは事実を淡々と突きつけるように言った。


 少しの沈黙。

 だがリゼリアはふっと微笑んだ。

 「逃げるべきなのは、今一番追われてるあなたじゃない?」


 アッシュは鼻で笑った。

 「王国にいた頃は、ずっと逃げ通しだった。慣れてる」

 彼は少し言い淀んでから、はっきりと言葉を続けた。

 「お前が言ってた通りだ。あの符釘は、アエクセリオンの遺骨で作られてる。……俺は許せない。死んだ竜まで、そんなふうに利用されるのは。ましてや——」


 彼の目が、足元にいるリメアに向けられる。

 声が、少し優しくなる。

 「……いつか、お前のような竜に使われるなんてこと、絶対にあってはならない」


 【もちろんだよ!】

 リメアが顔を上げて、尾をぶんっと振った。

 【あたしも手伝う!】


 アッシュはようやく、わずかに笑みを浮かべて彼女の頭を撫でた。

 リゼリアはその光景を見て、ひとつ息をつく。

 「……それでも、やっぱりわからない。どうして、あなたは急に変わったの?」


 アッシュはすぐには答えず、ただ窓の外をじっと見ていた。

 遥かな、見えない何かを探すように。


 「でも、あの符釘のことは、私が最初に追ってたこと。途中で投げ出すわけにはいかない」

 リゼリアはそう言って、静かに息をついた。

 「教国のことは……その後、考えればいい」


 彼女はリメアの方を向いて、優しく語りかけた。

 「一緒に旅をするって、約束したでしょ? 今さら一人で行けるわけないよ」


 〈うん!〉

 リメアは目をぱちくりと瞬かせ、ぴょんと彼女に飛びついた。


 そしてリゼリアはアッシュに視線を戻し、彼の口調を真似して、いたずらっぽく笑った。

 「それに——私も、あなたと同じ。逃げてきた身なのよ?」


 アッシュは驚いたように一瞬目を見開き、それから小さく、声を漏らして笑った。

 その笑いは、まるで彼女の言葉をそのまま認めるように、柔らかく続いていた。

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