第94話 夜更けの工房で
夜はすっかり更け、リュミエラの大通りは静まり返っていた。
セイフィナが先に出て周囲の様子を確認し、安全を確かめてから振り返る。
その合図を受けて、アッシュはリゼリアを連れ、狭い路地を足早に抜けていく。工房の前にたどり着いたところで、ようやく肩の力をわずかに抜いた。
「二日後に、また合流しましょう。」
セイフィナはそう簡潔に告げると、冷静な眼差しでアッシュの表情を一瞥し、そのまま背を向け、闇の中へと消えていった。
工房の重い扉が開き、メリッサが自ら姿を見せる。彼女は二人を素早く中へと招き入れた。
「街中、あなたを探して走り回ってるわよ。」
歩きながら、いつもの気怠げな調子にわずかな心配をにじませる。
「無事に戻ってきたのは運がいいわね。ここにいる連中は研究しか興味ないし、当分出歩かずにおとなしくしてるなら、安全よ。」
奥の作業場には、薬草と金属の匂いが混じった、どこか落ち着く空気が漂っていた。
そこで初めて、アッシュの肩が本当の意味で緩んだ。
「リメアは?」
アッシュが口を開く。
「中で寝ちゃったわ。」
メリッサはひらりと手を上げ、カーテンの向こうの部屋を指さす。
「さっきまでずっとあなたたちを待っててね、眠いのに意地張って起きてるから、そのうち船漕いでひっくり返って……そこでやっと素直に寝床に転がってったの。笑えるわよ、ほんと。」
アッシュがそちらを見ると、白い小さな背中が丸くなって眠っているのが、かすかに見えた。規則正しい寝息に胸をなでおろし、それから自分が頼んでおいた件を確かめる。
「全部、手配しておいたわ。」
メリッサはくるりと振り返り、意味ありげな笑みをアッシュに向ける。
「だからちゃんと、報酬は払ってもらうからね。」
リゼリアの肩が無意識にこわばり、眉間に皺が寄る。
「心配しなくていいわよ。」
メリッサはその反応を見逃さず、軽く両手を広げた。
「もし殿下を売る気なら、とっくに音楽会の夜にあなたたちを縛り上げて引き渡してるわよ。あの時のほうが、今よりずっと無防備だったしね。」
リゼリアは一瞬きょとんとし、あの夜のことを思い返す。
確かに、と認めざるを得ず、結局何も言わずに小さく頷いた。
その時――
場違いな音が、静けさの中に鳴り響いた。
ぐうう、と。
リゼリアは目を瞬き、みるみるうちに耳まで赤くなる。
さっきまで走り回っていた緊張がゆるんだ途端、空腹が一気に押し寄せてきた。思えば昼からまともに食べていない。
アッシュがちらりと彼女を見て、口の端をわずかに上げると、メリッサへ向き直った。
「腹が減った。」
「……まったく。研究に没頭してる私より、自分の世話が下手なんじゃない?」
メリッサは額を押さえて、大きくため息をつく。
「ちょっと待ってなさい。何か食べられるものを用意してくる。」
アッシュは忘れずに、ひと言付け加えた。
「リゼリアの分も。」
「はいはい。」
彼女は片手をひらひら振りながら厨房へ向かい、歩きざまに振り返る。
「その間に、さっさと傷の手当てして服も替えときなさい。工房中を血生臭くされたら敵わないからね。」
部屋の中は、ふたたび静まり返った。揺れる燭火だけが、壁に影を作る。
アッシュは長椅子に腰を下ろし、低い声で切り出した。
「お前が魔女だから狙われてるわけじゃないんだろう? 何か罪を犯したから、教国に連れ戻されて裁かれる……そういう話か?」
リゼリアは一瞬きょとんとし、唇をきゅっと引き結ぶ。
「……もう、知ってるのね。」
アッシュは静かに頷き、視線を逸らさない。
「そう聞いた。――けど、俺はお前の口から聞きたい。」
短い沈黙。
リゼリアは目をそらし、膝の上の布をぎゅっとつかんだ。
「……話したくない。」
アッシュは追及しない。ただ淡々と告げる。
「好きにしろ。」
そのあっさりとした反応に、逆にリゼリアは顔を上げた。
その瞳には、言葉にしづらい色が揺れている。
「……私たち、似てるよね。」
やがて、空気に溶けてしまいそうなほど小さな声で言う。
「どっちも、国に捨てられた人間だから。」
アッシュは、はっとして言葉を飲み込む。
ちょうどその時、カーテンが勢いよくめくれた。
「服と薬箱。」
メリッサがきれいに畳まれた服と木箱をテーブルに置く。
「さっさと着替えて、傷を処置しなさい。ご飯はもうすぐできる。」
それだけ言うと、またすぐに厨房へ戻っていく。
静けさが戻る。
アッシュは衣服を受け取り、唇を引き結んだまま立ち上がると、奥の部屋へと入っていった。
垂れ下がった布越しに、水を盆へ注ぐ音、布をこするざらついた音、時おり漏れる小さなうめき声が運ばれてくる。
リゼリアはじっと座ったまま、耳が勝手にそれらの音を拾ってしまう。
布一枚隔てているだけなのに、彼が痛みをこらえながら一人で包帯を巻いている姿が目に浮かぶ。
――昔の彼は、何もかも「自分とは関係ない」と切り捨てていた。
それが今は、自分のために危険の中へ飛び込んでくる。
……それとも、リメアのため、だろうか?
彼の真意など、分かるはずもない。
そして、自分にはそれを問いただす資格もないのだと、リゼリアは思う。
やがてカーテンが上がり、アッシュが姿を見せた。
清潔なシャツに着替え、袖口からはほのかに薬草の匂いが漂う。
彼は何事もなかったように薬箱をテーブルへ戻し、淡々と告げた。
「飯を食ったら、今後のことを話そう。」
間もなく、メリッサが湯気の立つ野菜スープを運んでくる。
「今夜はさっぱりしたもので我慢しなさい。安心しなさい、肉は入ってないわよ。」
視線が二人の間を行き来し、眉をやや上げると、わざとらしいあくびをひとつ。
「私は先に寝るから。食べ終わったらさっさと休みなさい。後片づけは明日やる。」
二人が揃って礼を言うと、メリッサはひらひらと手を振って奥へ消えていった。
再び、部屋には静寂が落ちる。
アッシュはスープ椀をリゼリアの前へ押し出した。
「腹、減ってるだろ。食え。」
リゼリアは椀を受け取り、一口すすって――舌を震わせ、眉を寄せた。
「……ちょっと、しょっぱい。」
アッシュもひと口含んで、思わず顔をしかめる。
二人の目が合い、ほんの一瞬の沈黙のあと、ふっと笑いがこぼれた。
「……やっぱり、あなたが作ったほうがおいしいね。」
リゼリアがぽつりと言う。
アッシュは片眉を上げ、口元に薄い笑みを浮かべた。
「俺は、魚を焼くほうが得意だからな。」
「知ってる。」
リゼリアはこくりと頷き、その眼差しに一瞬やわらかな色を宿す。
「魚が食べられて良かったよ。あなたの焼いた魚……今まで食べた中で、一番おいしかった。」
アッシュの手が止まり、スプーンが宙で固まる。
「……あの時の子ども、やっぱりお前だったのか。」
リゼリアが瞬きをする。
「え……?」
「川辺で歌っていた子だ。」
アッシュの声は低いが、そこには確信にも似た響きがあった。
「本当は、お前だったんだろ?」
リゼリアの胸がきゅっと鳴り、指先が無意識に強く握りしめられる。
――覚えて、いたんだ。
アッシュは彼女の顔をじっと見つめ、わずかに眉をひそめた。
「だとしたら、なおさら分からない。」
「何が……?」
「どうしてエルセリアは、あれが自分だなんて言った?」
アッシュの声が、さらに低く落ちる。
「お前とあいつ、一体何があった?」
スプーンが小さく震え、スープの面に波紋が広がる。
リゼリアは唇を噛み、結局何も答えなかった。
アッシュは少し身を乗り出し、さらに声を落とす。
「否定は、しないんだな。」
それでも沈黙が続くのを見て、長く息を吐き、背もたれに体を預ける。
「……いい。話したくなったら、その時に聞かせろ。」
そう言ってスープを飲み干すと、長椅子に移って横になり、マントを体に引き寄せる。背を向けたまま、短く告げた。
「食べ終わったら寝ろ。明日は、今日より厄介になる。」
揺れる炎が、長く伸びた影を床に落とす。
リゼリアは静かにスープを飲み干し、椀をテーブルに戻すと立ち上がった。
長椅子に横たわるアッシュの背中を見つめ、胸が締め付けられる。
「……ノアディス。」
かすかな声で名を呼び、それからようやく、一言だけ搾り出した。
「ごめん。まだ、話せない。」
長椅子の男は振り返らない。
ただ、ほんの一瞬だけ動きを止め――そのまま小さくうなずいた。
「……ああ。」
それは、責めも拒みもしない、黙った許しのようだった。
リゼリアはそれ以上何も言わず、内側の部屋へ向かう。
部屋の中は薄暗く、リメアは丸くなってぐっすりと眠っていた。
小さな身体が、規則正しく上下している。
リゼリアはできるだけ音を立てないように、そっとその隣に横たわる。
天井の暗がりを見つめながら、さきほどの会話が頭の中で何度も反芻される。
疲れているはずなのに、まぶたは重くならない。
――夜が深まっても、眠気は訪れなかった。




