表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第九章:背中を預ける敵

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

102/137

第94話 夜更けの工房で

 夜はすっかり更け、リュミエラの大通りは静まり返っていた。


 セイフィナが先に出て周囲の様子を確認し、安全を確かめてから振り返る。

 その合図を受けて、アッシュはリゼリアを連れ、狭い路地を足早に抜けていく。工房の前にたどり着いたところで、ようやく肩の力をわずかに抜いた。


「二日後に、また合流しましょう。」

 セイフィナはそう簡潔に告げると、冷静な眼差しでアッシュの表情を一瞥し、そのまま背を向け、闇の中へと消えていった。


 工房の重い扉が開き、メリッサが自ら姿を見せる。彼女は二人を素早く中へと招き入れた。


「街中、あなたを探して走り回ってるわよ。」

 歩きながら、いつもの気怠げな調子にわずかな心配をにじませる。

「無事に戻ってきたのは運がいいわね。ここにいる連中は研究しか興味ないし、当分出歩かずにおとなしくしてるなら、安全よ。」


 奥の作業場には、薬草と金属の匂いが混じった、どこか落ち着く空気が漂っていた。

 そこで初めて、アッシュの肩が本当の意味で緩んだ。


「リメアは?」

 アッシュが口を開く。


「中で寝ちゃったわ。」

 メリッサはひらりと手を上げ、カーテンの向こうの部屋を指さす。

「さっきまでずっとあなたたちを待っててね、眠いのに意地張って起きてるから、そのうち船漕いでひっくり返って……そこでやっと素直に寝床に転がってったの。笑えるわよ、ほんと。」


 アッシュがそちらを見ると、白い小さな背中が丸くなって眠っているのが、かすかに見えた。規則正しい寝息に胸をなでおろし、それから自分が頼んでおいた件を確かめる。


「全部、手配しておいたわ。」

 メリッサはくるりと振り返り、意味ありげな笑みをアッシュに向ける。

「だからちゃんと、報酬は払ってもらうからね。」


 リゼリアの肩が無意識にこわばり、眉間に皺が寄る。


「心配しなくていいわよ。」

 メリッサはその反応を見逃さず、軽く両手を広げた。

「もし殿下を売る気なら、とっくに音楽会の夜にあなたたちを縛り上げて引き渡してるわよ。あの時のほうが、今よりずっと無防備だったしね。」


 リゼリアは一瞬きょとんとし、あの夜のことを思い返す。

 確かに、と認めざるを得ず、結局何も言わずに小さく頷いた。


 その時――

 場違いな音が、静けさの中に鳴り響いた。


 ぐうう、と。


 リゼリアは目を瞬き、みるみるうちに耳まで赤くなる。

 さっきまで走り回っていた緊張がゆるんだ途端、空腹が一気に押し寄せてきた。思えば昼からまともに食べていない。


 アッシュがちらりと彼女を見て、口の端をわずかに上げると、メリッサへ向き直った。

「腹が減った。」


「……まったく。研究に没頭してる私より、自分の世話が下手なんじゃない?」

 メリッサは額を押さえて、大きくため息をつく。

「ちょっと待ってなさい。何か食べられるものを用意してくる。」


 アッシュは忘れずに、ひと言付け加えた。

「リゼリアの分も。」


「はいはい。」

 彼女は片手をひらひら振りながら厨房へ向かい、歩きざまに振り返る。

「その間に、さっさと傷の手当てして服も替えときなさい。工房中を血生臭くされたら敵わないからね。」


 部屋の中は、ふたたび静まり返った。揺れる燭火だけが、壁に影を作る。


 アッシュは長椅子に腰を下ろし、低い声で切り出した。

「お前が魔女だから狙われてるわけじゃないんだろう? 何か罪を犯したから、教国に連れ戻されて裁かれる……そういう話か?」


 リゼリアは一瞬きょとんとし、唇をきゅっと引き結ぶ。

「……もう、知ってるのね。」


 アッシュは静かに頷き、視線を逸らさない。

「そう聞いた。――けど、俺はお前の口から聞きたい。」


 短い沈黙。

 リゼリアは目をそらし、膝の上の布をぎゅっとつかんだ。

「……話したくない。」


 アッシュは追及しない。ただ淡々と告げる。

「好きにしろ。」


 そのあっさりとした反応に、逆にリゼリアは顔を上げた。

 その瞳には、言葉にしづらい色が揺れている。


「……私たち、似てるよね。」

 やがて、空気に溶けてしまいそうなほど小さな声で言う。

「どっちも、国に捨てられた人間だから。」


 アッシュは、はっとして言葉を飲み込む。

 ちょうどその時、カーテンが勢いよくめくれた。


「服と薬箱。」

 メリッサがきれいに畳まれた服と木箱をテーブルに置く。

「さっさと着替えて、傷を処置しなさい。ご飯はもうすぐできる。」


 それだけ言うと、またすぐに厨房へ戻っていく。

 静けさが戻る。


 アッシュは衣服を受け取り、唇を引き結んだまま立ち上がると、奥の部屋へと入っていった。

 垂れ下がった布越しに、水を盆へ注ぐ音、布をこするざらついた音、時おり漏れる小さなうめき声が運ばれてくる。


 リゼリアはじっと座ったまま、耳が勝手にそれらの音を拾ってしまう。

 布一枚隔てているだけなのに、彼が痛みをこらえながら一人で包帯を巻いている姿が目に浮かぶ。


 ――昔の彼は、何もかも「自分とは関係ない」と切り捨てていた。

 それが今は、自分のために危険の中へ飛び込んでくる。


 ……それとも、リメアのため、だろうか?

 彼の真意など、分かるはずもない。

 そして、自分にはそれを問いただす資格もないのだと、リゼリアは思う。


 やがてカーテンが上がり、アッシュが姿を見せた。

 清潔なシャツに着替え、袖口からはほのかに薬草の匂いが漂う。


 彼は何事もなかったように薬箱をテーブルへ戻し、淡々と告げた。

「飯を食ったら、今後のことを話そう。」


 間もなく、メリッサが湯気の立つ野菜スープを運んでくる。

「今夜はさっぱりしたもので我慢しなさい。安心しなさい、肉は入ってないわよ。」


 視線が二人の間を行き来し、眉をやや上げると、わざとらしいあくびをひとつ。

「私は先に寝るから。食べ終わったらさっさと休みなさい。後片づけは明日やる。」


 二人が揃って礼を言うと、メリッサはひらひらと手を振って奥へ消えていった。

 再び、部屋には静寂が落ちる。


 アッシュはスープ椀をリゼリアの前へ押し出した。

「腹、減ってるだろ。食え。」


 リゼリアは椀を受け取り、一口すすって――舌を震わせ、眉を寄せた。

「……ちょっと、しょっぱい。」


 アッシュもひと口含んで、思わず顔をしかめる。

 二人の目が合い、ほんの一瞬の沈黙のあと、ふっと笑いがこぼれた。


「……やっぱり、あなたが作ったほうがおいしいね。」

 リゼリアがぽつりと言う。


 アッシュは片眉を上げ、口元に薄い笑みを浮かべた。

「俺は、魚を焼くほうが得意だからな。」


「知ってる。」

 リゼリアはこくりと頷き、その眼差しに一瞬やわらかな色を宿す。

「魚が食べられて良かったよ。あなたの焼いた魚……今まで食べた中で、一番おいしかった。」


 アッシュの手が止まり、スプーンが宙で固まる。

「……あの時の子ども、やっぱりお前だったのか。」


 リゼリアが瞬きをする。

「え……?」


「川辺で歌っていた子だ。」

 アッシュの声は低いが、そこには確信にも似た響きがあった。

「本当は、お前だったんだろ?」


 リゼリアの胸がきゅっと鳴り、指先が無意識に強く握りしめられる。

 ――覚えて、いたんだ。


 アッシュは彼女の顔をじっと見つめ、わずかに眉をひそめた。


「だとしたら、なおさら分からない。」

「何が……?」


「どうしてエルセリアは、あれが自分だなんて言った?」

 アッシュの声が、さらに低く落ちる。

「お前とあいつ、一体何があった?」


 スプーンが小さく震え、スープの面に波紋が広がる。

 リゼリアは唇を噛み、結局何も答えなかった。


 アッシュは少し身を乗り出し、さらに声を落とす。

「否定は、しないんだな。」

 それでも沈黙が続くのを見て、長く息を吐き、背もたれに体を預ける。


「……いい。話したくなったら、その時に聞かせろ。」

 そう言ってスープを飲み干すと、長椅子に移って横になり、マントを体に引き寄せる。背を向けたまま、短く告げた。

「食べ終わったら寝ろ。明日は、今日より厄介になる。」


 揺れる炎が、長く伸びた影を床に落とす。

 リゼリアは静かにスープを飲み干し、椀をテーブルに戻すと立ち上がった。

 長椅子に横たわるアッシュの背中を見つめ、胸が締め付けられる。


「……ノアディス。」

 かすかな声で名を呼び、それからようやく、一言だけ搾り出した。

「ごめん。まだ、話せない。」


 長椅子の男は振り返らない。

 ただ、ほんの一瞬だけ動きを止め――そのまま小さくうなずいた。


「……ああ。」

 それは、責めも拒みもしない、黙った許しのようだった。


 リゼリアはそれ以上何も言わず、内側の部屋へ向かう。


 部屋の中は薄暗く、リメアは丸くなってぐっすりと眠っていた。

 小さな身体が、規則正しく上下している。


 リゼリアはできるだけ音を立てないように、そっとその隣に横たわる。

 天井の暗がりを見つめながら、さきほどの会話が頭の中で何度も反芻される。


 疲れているはずなのに、まぶたは重くならない。

 ――夜が深まっても、眠気は訪れなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ