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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第九章:背中を預ける敵

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第93話 守るものがあるから

 みすぼらしい木の扉を押し開けると、古びた埃が風と一緒に舞い上がり、三人はひとまず身を隠せる廃屋を見つけた。


 リゼリアはアッシュの腕を支えながら中へと入り、壁際の床にそっと座らせる。

 アッシュは片膝を立てて腰をおろし、荒い息を吐いた。腕には布切れがきつく巻き付けられ、その上から暗い赤がじわりと滲んでいる。


 セイフィナは扉の裏に立ち、外をうかがえるだけの隙間を残して警戒にあたる。

 冷たい声音が室内に落ちた。

「――で、何があった?」


「倉庫に人影はなかった。だが荷はまだ運び出されていなかった。」

 アッシュは低く答え、巻いた布にそっと指先を触れる。声をさらに落とす。

「調べているところを、セイラに見つかった。あいつの金属の爪付き鞭でやられた。傷は浅いが、血がひどくてな……魔力が戻るまで、止血する余裕もなかった。」


 リゼリアは息を詰めて彼を見つめ、その瞳に心配の色を浮かべる。

「……ずっと、この辺りにいたの?」


 アッシュは小さくうなずき、苦笑にも似た息を漏らした。

「ああ。何人もがしつこく追い回してきた。迎撃しながら下がるしかなくてな、ここら一帯から離れられなかった。」


 リゼリアの胸がきゅっと締め付けられる。噛んだ唇から、抑えた声がこぼれた。

「じゃあ……セイラは、ちゃんとあなたを認識したってことね。」


 セイフィナが振り向き、二人を見る。

「認識しただけじゃない。」


 その瞳は鋭く、声はさらに冷たくなる。

「もう完全に身元が割れた。闇市は、その情報をありったけの耳に売りつける。賞金目当てで動く者は、これからどんどん増えるわ。」


 その声音は静かだが、そこに潜む緊張は隠せない。

「王国が出している金額は、傭兵団ひとつを丸ごと養えるくらいよ。」


 アッシュは短く笑い、リゼリアに目を向けた。

 疲れの滲む口調で言う。

「ひとまず工房に戻って隠れていろ。俺のそばにいるのは危険だ。」


 リゼリアは一瞬きょとんとしたあと、彼の腕の血を見つめ、スカートの裾を握りしめたまま何も言わない。


 アッシュは視線をセイフィナへと移し、低く告げる。

「……それからお前とも、これ以上は組めない。」


 セイフィナの目がすっと細くなり、その声は先ほどよりも刺々しくなる。

「さっき手を出すなって言ったのは、私を見下しているから? あの男たちと同じで、女騎士なんて足手まといだと思ってる?」


 アッシュはその視線を正面から受け止め、かえって落ち着いた声で返した。

「違う。

 むしろ――お前は強いと思っている。そうでなければ、協力を頼むこともなかった。」

 そこで言葉を切り、指先にわずかな力を込める。感情を押しとどめるように。

「だが今の俺の状況じゃ、お前を巻き込みたくない。この件は……関わった者を、誰であれ奈落に引きずり込む。」


 二人の視線がぶつかり合い、空気がぴんと張り詰める。


 しばしの沈黙のあと――

 リゼリアが不意に口を開いた。

「じゃあ、その誰であれを、まとめてぶっ飛ばせばいいんじゃない?」

 淡々とした声音の奥で、負けん気の炎がちらりと揺れる。


 セイフィナは一瞬きょとんとし、それからふっと唇の端を吊り上げた。

 まるで、自分と同じ種類の人間を見つけたかのように。

「魔女の意見に同意するなんて癪だけど――今の台詞は、実にいいわね。」


 アッシュは言葉に詰まり、左右に立つ二人を見やる。

 一人は頑なな瞳。一人は冷えた表情。

 なのに、揃って挑発するような目でこちらを見返してくる。


「……教国の女は、みんなこんなに強情なのか。」

 思わず低く漏らす。


 セイフィナは鼻を鳴らした。


「ここにいる女はたまたま、守るべきものを持っているだけ。」

 握った剣の柄に、さらに力が込められる。

「その覚悟が、人を強くする。――騎士って、そういう存在でしょう?」


 アッシュは一瞬、息を呑んだ。

 胸の奥で、何かがかすかに鳴った気がする。


 ゆっくりと立ち上がる。

 さっきまで感じていた体の重さが、ほんの少しだけ軽くなっていた。


 目の前の二人を見渡し、静かに、しかしはっきりと告げる。

「……分かった。」


 深く息を吸い込む。

「お前たちの言うとおりだ。」

 もう声は押し殺していない。

「――次の手を考えよう。」


 ◆


 夜の帳が降り始めるころ、三人は再び倉庫街へ戻ってきた。


 倉庫の扉は半ば開き、中からゆらゆらと灯りが漏れている。

 アッシュは息を潜め、二人に合図して影の中に身を滑り込ませた。


 扉の前では、セイラが体格のいい男たちと何か言葉を交わしている。

 その声には、露骨な苛立ちが混じっていた。


「元の話じゃ、次の荷は一週間後って話じゃなかったか?」

 アッシュは低くつぶやき、セイラの動きを目で追う。

「なのに、あんなふうに倉庫に張り付いている……。ただ荷を待っているだけには見えない。」


 そう言った矢先、倉庫の中から痩せた男が現れた。

 男はひとつ包みを持って出てくると、仲間の一人にそれを渡し、周囲を一巡り見渡してから散っていく。


 セイフィナの眉間に皺が寄る。

「女のほうを捕まえる?」


 アッシュは小さく首を振った。

「いや、まずはあいつらが何を受け取ったのかを確かめる。――追うぞ。」


 三人は無言のまま尾行を開始した。

 入り組んだ路地を抜けながら、一定の距離をきっちり保つ。

 やがて、相手が振り返ってくる気配も、逆に尾け返してくる気配もないと確信したところで、アッシュは胸の奥で短く息を吐く。


「ここから先は、私に任せて。」

 リゼリアがささやいた。


 アッシュは途端に顔をしかめる。

「危険すぎる。」


 しかし、彼女はまっすぐに視線を返した。

 その瞳の奥には、一歩も引かぬ色が灯っている。

「あなたたちが揃ってついていったら、余計に目立つだけ。こういうのは、私のほうが得意なの。」


 アッシュはしばらく押し黙り、やがて小さくうなずいた。

「……分かった。ただし、少しでもおかしいと思ったらすぐ引け。俺とセイフィナは、すぐ近くにいる。」


 リゼリアは小さく微笑み、軽く頷くと、マントの裾をつまんで足早に近づいていった。


 男たちの少し先で足を止め、何でもない様子で振り返る。

 そして、計算され尽くした笑みを浮かべて声をかけた。

「次の荷の受け渡しよね? ――カルロスからの応援ってことで。」


 男たちは顔を見合わせ、一気に警戒を強める。

 だが、その名を口にした途端、表情にわずかな変化が走った。どこかで聞き覚えのある名なのだろう。硬さが少しだけ解ける。


「カルロスだと?」

 一人が鼻を鳴らす。

「なんであいつが、急に人をよこす?」


「そっちが急ぎで荷を欲しがってるから、でしょう?」

 リゼリアは穏やかな声ながら、否定を許さぬ調子で続ける。

「こっちは魔獣も連れていける。打刻済みの魔獣を買うより、選別から任せてもらったほうが、手っ取り早くて確実じゃない?」


 男たちは再び目配せを交わす。まだ疑いの色は完全には消えない。

 だが、彼女が告げた情報の一つ一つが、彼らだけが知る内容と噛み合っている。

「……だが、噂じゃこの釘は相当使えるって話だ。」

 別の男が、言葉を継ぐ。

「竜ですら従わせられるってよ。最初の荷は数も少なくて、すぐ奪い合いになった。こっちに回ってきたのは一本だけだ……まだ試しちゃいねぇがな。」


 リゼリアの瞳に、かすかな光が浮かぶ。

 表情には出さず、静かに問いを重ねる。

「二回目の搬入は?」


「二日後の明け方だ。」

 男は声を潜める。

「場所は、今と同じ倉庫。だが今回は数が多い。そのぶん値も跳ね上がる。早めに手を打たねぇと、全部かっさらわれるぞ。」


 リゼリアは落ち着いた微笑みを見せた。

「一本きりなら、先に品物を見せてもらえる? 後で不良品だなんだって揉められても困るから。」


 男たちはまだ疑い深そうではあるが、彼女の言葉に一定の理があるのも事実らしい。

 しばらくして、一人がうなずいた。


「……いいだろう。ただし、触るな。見るだけだ。」

 そう言って、男のひとりが胸元から小さな包みを取り出した。

 慎重に封を解き、一片の短い釘を月明かりにかざす。


 蠟で封じられた頭部には、見慣れぬ紋が刻まれている。

 釘そのものは骨のように白く、奥底に、血のような暗い色が淀んでいるようにも見えた。


 ――やっぱり、符釘だ。

 リゼリアは息を詰め、視線だけをすべらせると、何でもなさげにうなずいた。

「問題なさそうね。じゃあ二日後、また同じ場所で。」

 男たちは満足げに符釘をしまい込み、その場を立ち去った。


 リゼリアが暗がりまで戻ると、アッシュがすぐに近寄ってくる。

 抑えた声音で尋ねた。

「どうだった?」


 リゼリアはまだ少し荒い呼吸を整えながらも、ほっとしたように口元を緩める。

「本物の符釘だったわ。もう一部は流通してる。あいつらの手元には一本だけ。」

「二日後の明け方、大量の荷が入る。」


 セイフィナがわずかに眉を上げる。

「じゃあ二日後、その輸送を丸ごと叩ける。」


 アッシュはしばし沈黙し、静かに口を開いた。

「……なら、これ以上余計な刺激は与えないほうがいい。一度戻って、手順を固める。」


 その声音には、先ほどまでの迷いはなかった。

 三人は互いに短くうなずき合い、夜の倉庫街を後にした。

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