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かつて英雄と呼ばれた男は、今はただ幼竜と生き延びたい  作者: 雪沢 凛
第九章:背中を預ける敵

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第92話 それでも、手を伸ばす

 色ガラスを透った光が、棚のあいだに浮かぶ埃を照らし、静かな光の輪をつくっていた。

 リゼリアは一番奥の長机に陣取り、分厚い書物をいくつも広げて、指先で次々とページを繰っていく。


 この図書館の蔵書は、想像していたよりもずっと充実していた。

 ――少なくとも、教国に残されている断片的な写本よりは、よほどマシだ。

 けれど、読み進めれば進めるほど、胸の奥に冷たいものが広がっていく。


 ――竜族についての記述は、やはりわずか。

 多くの章が、意図的に削ぎ落とされている。文章は途中で途切れ、意味のつながらない断片だけが残されている。


 東方の古い龍の遺跡について。

 符釘のルーツに繋がるような、なにかしらの手がかりを求めているのに――


 何時間も読みあさっても、掴めるものはひとつもなかった。

 日が傾き、館内には順々に燭が灯される。

 司書が近づき、小声で告げた。

「お嬢さん、本日の開館時間はそろそろ終わりです。」


 リゼリアはようやく我に返り、張り詰めていた背筋に、弓を引きっぱなしにしたような鈍い痛みを覚えた。

 ノートを閉じてまとめながらも、胸のうちにはどうしようもない徒労感が残る。


 外に出ると、黄昏の風が冷たさを帯びて頬を撫でていった。

 マントの前を合わせて歩き出そうとした、そのとき――


 視線を感じて、足が止まる。


 通りの向かい側に、セイフィナがひっそりと立っていた。

 金褐色の長い髪が夕闇にほどよく溶け、深い茶の瞳が、すべてを見透かすようにリゼリアを射抜く。胸の奥がひやりとした。

 リゼリアは無意識に腰の小刀に触れ、指先に力を込める。


「……何の用?」

 低い声で問う。


「落ち着いて。」

 セイフィナは歩み寄り、感情をほとんど感じさせない平板な口調で言った。

「聖下との約束よ。――少なくとも今は、休戦中。」


 リゼリアは片眉を上げ、冷たく皮肉る。

「その休戦って、いつから有効なの? 今から? それとも、その台詞を言い終わるまで?」


 セイフィナは特に怒りも見せず、ただ一瞥をくれてから静かに告げた。

「本気でやる気なら、とっくに倒している。」

 ひと呼吸おいて、わずかに声音を落とす。

「あなたに用があるんじゃない。ノアディス王子が、少し厄介なことになっている。」


 リゼリアの動きが止まり、思わず一歩踏み出す。

「……どういう意味?」


「もともとあの手配書は、ずっと消えずに残っていたの。」

 セイフィナの視線が通りを横切り、周囲を警戒するように低く続ける。

「ただ、最近は誰も気にしていなかった。でも――今、リュミエラにいるって情報が流れた。闇市がまた騒ぎ始めたのよ。」


「……誰かが、わざと。」

 リゼリアは息を呑み、胸の底がじわりと冷えるのを感じた。

「……それで、あなたは、どうして彼を探すの?」


 セイフィナは唇を引き結び、ほんの少しだけ柔らいだ声で答える。

「今朝、彼のほうから大聖堂に来た。――聖下は、彼に協力するよう、私に命じられたわ。あなたを含めて。」

 そう言うと、彼女は右手を胸に当て、厳粛に十字を切った。

「それと、この件が片付くまでは、あなたに手出ししないと、聖下はご自身で約束された。……神の名にかけて誓う。」


 リゼリアはじっと彼女を見つめ、しばし沈黙する。

 やがて、ゆっくり息を吐き出した。

「……分かったわ。」

 教国の信仰を知る彼女には、その誓いが軽いものではないと理解できる。


「多分、彼は昨日の倉庫に行ったはず。」

 リゼリアは落ちていく空の色を見上げる。

「身元に気づかれたなら……まだ近くに潜んでるかも。」


 振り返り、セイフィナの目を見る。

「あなたが探しに行くなら、私も行く。一緒に。」


 セイフィナはうなずき、冷ややかに釘を刺した。

「案内して。――ただし、余計なことはしないで。足を引っ張らないこと。」


 リゼリアは鼻で笑ってマントを翻す。

 けれど、その足取りはさっきよりずっと速かった。


 暮色は深まり、二人の影は街の奥へと吸いこまれていく。

 向かう先は、倉庫街。




 薄闇が路地を呑み込み始め、一つまた一つと街灯に火が入る。

 リゼリアはマントをぐっと締め、いつもより速い歩幅で進む。


 ――きっと、あの倉庫に戻った。

 ――また連中に見つかっていたら……


 考えた瞬間、指先に無意識に力が籠もる。

 背後からついてくる足音は、重く、乱れなく、鎧の重量をそのまま伝えてきた。

 セイフィナは多くを語らない。それでも、その存在感は、背中にのしかかる重みのようだった。


「歩きすぎ。」

 セイフィナが淡々と注意する。


「探すんでしょう? なら急ぐべきよ。」

 リゼリアは振り返らずに返す。その声には、抑えきれない焦りが滲んでいた。


 セイフィナはそれ以上口を挟まず、腰の剣に手を添えたまま歩調だけを合わせる。

 なにかあれば即座に抜けるよう、全身が戦闘のために組まれているのが分かる。


 最後の路地を抜けると、倉庫街の輪郭が視界に浮かび上がった。

 周囲は不自然なほど静かで、ただ風が木箱の隙間を抜ける音だけが響く。


 ――静かすぎる。

 リゼリアが口を開こうとした、その時。

 耳を裂くような金属音が、夕闇を震わせた。


 金属同士がぶつかる、鋭い音。

 彼女は息を呑み、セイフィナと一瞬、視線を交わす。

 セイフィナの瞳が冷たく細められ、そのまま駆け足に切り替わる。音のした方角へ、ほとんど走るような速度で。


 近づくほどに、音は激しくなっていく。

 鉄器の打ち合う音。木箱が倒れる鈍い衝撃音。

 誰かの押し殺したうめき声――。


 リゼリアの胸が詰まり、ほとんど小走りでその背を追う。

 石畳に響く足音が、空っぽの倉庫街に不自然に反響した。


 最後の角を曲がったとき――彼女は見た。

 埃の立ちこめる細い路地で、アッシュが幾人もの武装した男たちを剣で追い払っている。

 肩口の袖は赤黒く染まり、動きは鋭いものの、その呼吸には明らかに無理が滲んでいた。


「逃がすな!」

 男の一人が怒鳴り声を上げ、先頭に躍り出る。


 アッシュは身をひるがえして刃をかわし、

 返す剣で相手の武器を弾き飛ばす。

 だが、失血のせいか、一瞬、足取りが揺らいだ。


 その瞬間、鋭い風切り音が割り込む。

 銀光が一閃し、アッシュへ迫っていた男が反射的に飛び退く。手から離れた長剣が、カラン、と乾いた音を立てて地に転がった。


「……っ!」

 アッシュは眉を寄せて目を上げる。


 隣に並び立ったセイフィナが、既に剣を抜いている。その茶の双眸が、地面に散らばる男たちを冷ややかに見下ろした。


「下がりなさい。」

 鉄のように冷たい声。反論を許さぬ調子だった。


 男たちは、彼女の身なりで正体を悟ったのか、一瞬たじろぐ。

 それでも、すぐに粗野な笑い声があちこちからあがる。


「女騎士様だとよ?」

「はは、教国のお嬢ちゃんが、こんなところで何を気取ってんだ?」

「ありがたい説教なら、聖堂に戻ってやってろよ!」


 アッシュは眉間に皺を刻み、低く言う。

「……手を出すな。」

 剣を構え、再び前に出ようとする。


 だが、セイフィナは一歩も退かなかった。

 むしろ半歩踏み出し、冷徹な眼差しで男たちを射抜く。


 次の瞬間――

 金属が空を切る音がもう一度、鋭く走る。


 彼女の剣が、半月を描くように横薙ぎに振るわれ、最も近くにいた男の手首を正確に狙って叩きつけた。

 手の中の武器はあっさり弾き飛ばされ、刃は地面に突き刺さってびりびりと震える。

 一瞬で、空気が凍りつく。


「……次。」

 セイフィナの声は低く、鉄そのものの冷たさを帯びていた。


 男たちの笑いは喉の奥で止まり、誰もが顔を引きつらせる。

 まだ数人は引かぬ眼をしているが、一歩目を踏み出す者はいない。


 アッシュは横目でちらりとセイフィナを見やり、短い沈黙ののち、そっと剣先を下ろした。


「退け。」

 セイフィナがもう一度繰り返す。

 今度の声には、騎士としての威圧がはっきりと滲んでいた。


 ついに、一人が後ずさる。

 それを皮切りに、他の者たちも悔しそうに唇を噛みながら、次々と道の奥へと退いていく。

 誰一人として、これ以上挑発しようとはしなかった。


 アッシュは心の底で息を吐き、剣を鞘に納めた。

「……危険を冒す必要はなかった。」


「ここであんたを捕まえられたら、聖下にどう顔向けするの。」

 セイフィナはなおも剣を下ろさず、最後の一人が角を曲がって姿を消すのを見届けてから、ようやく刃を収めた。

 そして、鋭い目でアッシュを見据える。


「本当に手のかかる人。」

 抑え込んだ怒気をにじませながら、淡々と続ける。

「怪我は?」


 アッシュは唇を引き結び、すぐには答えなかった。

 空いているほうの手で頬の血を拭い取り、周囲の様子を確認する。


 そこへ、息を切らしてリゼリアが追いついてきた。

 マントが風にふくらみ、汗に濡れた睫毛が夕闇の中で震えている。


 三人の視線が、淡い薄闇の中で交差した。


「まずは、ここを離れる。」

 セイフィナは武器を収めたまま、一歩前に出て言う。

「援軍がいつ来てもおかしくない。」


 アッシュは反論もせず、低くうなずいた。

 リゼリアは慌てて彼の腕を支える。彼はわずかに目を見張ったが、振り払うことはなかった。

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