第92話 それでも、手を伸ばす
色ガラスを透った光が、棚のあいだに浮かぶ埃を照らし、静かな光の輪をつくっていた。
リゼリアは一番奥の長机に陣取り、分厚い書物をいくつも広げて、指先で次々とページを繰っていく。
この図書館の蔵書は、想像していたよりもずっと充実していた。
――少なくとも、教国に残されている断片的な写本よりは、よほどマシだ。
けれど、読み進めれば進めるほど、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
――竜族についての記述は、やはりわずか。
多くの章が、意図的に削ぎ落とされている。文章は途中で途切れ、意味のつながらない断片だけが残されている。
東方の古い龍の遺跡について。
符釘のルーツに繋がるような、なにかしらの手がかりを求めているのに――
何時間も読みあさっても、掴めるものはひとつもなかった。
日が傾き、館内には順々に燭が灯される。
司書が近づき、小声で告げた。
「お嬢さん、本日の開館時間はそろそろ終わりです。」
リゼリアはようやく我に返り、張り詰めていた背筋に、弓を引きっぱなしにしたような鈍い痛みを覚えた。
ノートを閉じてまとめながらも、胸のうちにはどうしようもない徒労感が残る。
外に出ると、黄昏の風が冷たさを帯びて頬を撫でていった。
マントの前を合わせて歩き出そうとした、そのとき――
視線を感じて、足が止まる。
通りの向かい側に、セイフィナがひっそりと立っていた。
金褐色の長い髪が夕闇にほどよく溶け、深い茶の瞳が、すべてを見透かすようにリゼリアを射抜く。胸の奥がひやりとした。
リゼリアは無意識に腰の小刀に触れ、指先に力を込める。
「……何の用?」
低い声で問う。
「落ち着いて。」
セイフィナは歩み寄り、感情をほとんど感じさせない平板な口調で言った。
「聖下との約束よ。――少なくとも今は、休戦中。」
リゼリアは片眉を上げ、冷たく皮肉る。
「その休戦って、いつから有効なの? 今から? それとも、その台詞を言い終わるまで?」
セイフィナは特に怒りも見せず、ただ一瞥をくれてから静かに告げた。
「本気でやる気なら、とっくに倒している。」
ひと呼吸おいて、わずかに声音を落とす。
「あなたに用があるんじゃない。ノアディス王子が、少し厄介なことになっている。」
リゼリアの動きが止まり、思わず一歩踏み出す。
「……どういう意味?」
「もともとあの手配書は、ずっと消えずに残っていたの。」
セイフィナの視線が通りを横切り、周囲を警戒するように低く続ける。
「ただ、最近は誰も気にしていなかった。でも――今、リュミエラにいるって情報が流れた。闇市がまた騒ぎ始めたのよ。」
「……誰かが、わざと。」
リゼリアは息を呑み、胸の底がじわりと冷えるのを感じた。
「……それで、あなたは、どうして彼を探すの?」
セイフィナは唇を引き結び、ほんの少しだけ柔らいだ声で答える。
「今朝、彼のほうから大聖堂に来た。――聖下は、彼に協力するよう、私に命じられたわ。あなたを含めて。」
そう言うと、彼女は右手を胸に当て、厳粛に十字を切った。
「それと、この件が片付くまでは、あなたに手出ししないと、聖下はご自身で約束された。……神の名にかけて誓う。」
リゼリアはじっと彼女を見つめ、しばし沈黙する。
やがて、ゆっくり息を吐き出した。
「……分かったわ。」
教国の信仰を知る彼女には、その誓いが軽いものではないと理解できる。
「多分、彼は昨日の倉庫に行ったはず。」
リゼリアは落ちていく空の色を見上げる。
「身元に気づかれたなら……まだ近くに潜んでるかも。」
振り返り、セイフィナの目を見る。
「あなたが探しに行くなら、私も行く。一緒に。」
セイフィナはうなずき、冷ややかに釘を刺した。
「案内して。――ただし、余計なことはしないで。足を引っ張らないこと。」
リゼリアは鼻で笑ってマントを翻す。
けれど、その足取りはさっきよりずっと速かった。
暮色は深まり、二人の影は街の奥へと吸いこまれていく。
向かう先は、倉庫街。
薄闇が路地を呑み込み始め、一つまた一つと街灯に火が入る。
リゼリアはマントをぐっと締め、いつもより速い歩幅で進む。
――きっと、あの倉庫に戻った。
――また連中に見つかっていたら……
考えた瞬間、指先に無意識に力が籠もる。
背後からついてくる足音は、重く、乱れなく、鎧の重量をそのまま伝えてきた。
セイフィナは多くを語らない。それでも、その存在感は、背中にのしかかる重みのようだった。
「歩きすぎ。」
セイフィナが淡々と注意する。
「探すんでしょう? なら急ぐべきよ。」
リゼリアは振り返らずに返す。その声には、抑えきれない焦りが滲んでいた。
セイフィナはそれ以上口を挟まず、腰の剣に手を添えたまま歩調だけを合わせる。
なにかあれば即座に抜けるよう、全身が戦闘のために組まれているのが分かる。
最後の路地を抜けると、倉庫街の輪郭が視界に浮かび上がった。
周囲は不自然なほど静かで、ただ風が木箱の隙間を抜ける音だけが響く。
――静かすぎる。
リゼリアが口を開こうとした、その時。
耳を裂くような金属音が、夕闇を震わせた。
金属同士がぶつかる、鋭い音。
彼女は息を呑み、セイフィナと一瞬、視線を交わす。
セイフィナの瞳が冷たく細められ、そのまま駆け足に切り替わる。音のした方角へ、ほとんど走るような速度で。
近づくほどに、音は激しくなっていく。
鉄器の打ち合う音。木箱が倒れる鈍い衝撃音。
誰かの押し殺したうめき声――。
リゼリアの胸が詰まり、ほとんど小走りでその背を追う。
石畳に響く足音が、空っぽの倉庫街に不自然に反響した。
最後の角を曲がったとき――彼女は見た。
埃の立ちこめる細い路地で、アッシュが幾人もの武装した男たちを剣で追い払っている。
肩口の袖は赤黒く染まり、動きは鋭いものの、その呼吸には明らかに無理が滲んでいた。
「逃がすな!」
男の一人が怒鳴り声を上げ、先頭に躍り出る。
アッシュは身をひるがえして刃をかわし、
返す剣で相手の武器を弾き飛ばす。
だが、失血のせいか、一瞬、足取りが揺らいだ。
その瞬間、鋭い風切り音が割り込む。
銀光が一閃し、アッシュへ迫っていた男が反射的に飛び退く。手から離れた長剣が、カラン、と乾いた音を立てて地に転がった。
「……っ!」
アッシュは眉を寄せて目を上げる。
隣に並び立ったセイフィナが、既に剣を抜いている。その茶の双眸が、地面に散らばる男たちを冷ややかに見下ろした。
「下がりなさい。」
鉄のように冷たい声。反論を許さぬ調子だった。
男たちは、彼女の身なりで正体を悟ったのか、一瞬たじろぐ。
それでも、すぐに粗野な笑い声があちこちからあがる。
「女騎士様だとよ?」
「はは、教国のお嬢ちゃんが、こんなところで何を気取ってんだ?」
「ありがたい説教なら、聖堂に戻ってやってろよ!」
アッシュは眉間に皺を刻み、低く言う。
「……手を出すな。」
剣を構え、再び前に出ようとする。
だが、セイフィナは一歩も退かなかった。
むしろ半歩踏み出し、冷徹な眼差しで男たちを射抜く。
次の瞬間――
金属が空を切る音がもう一度、鋭く走る。
彼女の剣が、半月を描くように横薙ぎに振るわれ、最も近くにいた男の手首を正確に狙って叩きつけた。
手の中の武器はあっさり弾き飛ばされ、刃は地面に突き刺さってびりびりと震える。
一瞬で、空気が凍りつく。
「……次。」
セイフィナの声は低く、鉄そのものの冷たさを帯びていた。
男たちの笑いは喉の奥で止まり、誰もが顔を引きつらせる。
まだ数人は引かぬ眼をしているが、一歩目を踏み出す者はいない。
アッシュは横目でちらりとセイフィナを見やり、短い沈黙ののち、そっと剣先を下ろした。
「退け。」
セイフィナがもう一度繰り返す。
今度の声には、騎士としての威圧がはっきりと滲んでいた。
ついに、一人が後ずさる。
それを皮切りに、他の者たちも悔しそうに唇を噛みながら、次々と道の奥へと退いていく。
誰一人として、これ以上挑発しようとはしなかった。
アッシュは心の底で息を吐き、剣を鞘に納めた。
「……危険を冒す必要はなかった。」
「ここであんたを捕まえられたら、聖下にどう顔向けするの。」
セイフィナはなおも剣を下ろさず、最後の一人が角を曲がって姿を消すのを見届けてから、ようやく刃を収めた。
そして、鋭い目でアッシュを見据える。
「本当に手のかかる人。」
抑え込んだ怒気をにじませながら、淡々と続ける。
「怪我は?」
アッシュは唇を引き結び、すぐには答えなかった。
空いているほうの手で頬の血を拭い取り、周囲の様子を確認する。
そこへ、息を切らしてリゼリアが追いついてきた。
マントが風にふくらみ、汗に濡れた睫毛が夕闇の中で震えている。
三人の視線が、淡い薄闇の中で交差した。
「まずは、ここを離れる。」
セイフィナは武器を収めたまま、一歩前に出て言う。
「援軍がいつ来てもおかしくない。」
アッシュは反論もせず、低くうなずいた。
リゼリアは慌てて彼の腕を支える。彼はわずかに目を見張ったが、振り払うことはなかった。




