第1話 竜と男と、山の焼き飯
夜明け前、炎の揺らめきが夢の名残のように、静かに漂っていた。
山の斜面に設けた仮の野営地には、男と竜の二つの影だけ。
稜線から吹き下ろす風が、煙と灰をさらい、宙に舞わせる。
男は焚き火のそばにしゃがみ込み、片手に鉄鍋の柄を握り、もう一方の手で飯を混ぜていた。
鍋の中には、昨晩の残りの麦と干し肉。そこに数本の野葱とひとつまみの塩を加えている。
彼の名は――アッシュ(Ash)。
少なくとも、今はそう名乗っている。
多くを語る男ではないが、飯を作る腕前はそれなり。
特に、隣にいる偏食気味の竜が相手となれば、尚のこと。
【……ねぇ、またおにく、じぶんのにいっぱい入れたでしょ〜?】
背後から届いたその声は、口を動かすことなく、直接アッシュの脳に響いた。
アッシュは振り返らず、口元を歪めたまま、鍋をかき混ぜ続けた。
「寝ながら匂いだけで分かるようになったのか?」
【においなんかじゃないよ! アッシュの手、くるくると動いてたの、いつもよりいっぱいだったもん!】
目を輝かせ、鼻をぴくぴくと動かした。
【おいしいときだけ、そうなるんだよね!】
そう言ったのは、まだ成竜にもなりきっていない幼竜だった。
だがすでに、その体高はアッシュの腰ほどまで成長している。
銀青色の鱗は朝の微光を浴びて、まるで水晶のように煌めき、
背中にはまだ広がっていない翼膜が見え、その縁には柔らかな羽毛が残る。
しなやかな体躯に、澄んだ湖を思わせる瞳、額の中心には未成熟な冠角が小さく突き出ていた。
そして、声の響きにはどこか誇らしげな響きがあった。
彼女の名は――リメア。
アッシュは火から鍋を下ろし、飯を二つの木碗に分けた。
自然な手つきで、厚めの肉片をより分けて、リメアの碗へと移す。
「お前が機嫌悪くなると、魔物と戦う前に体力が削られるんだ。
そうならないように、俺も節約してるんだよ。」
【べ、べつに怒ってないもんっ。
つめたくてカチカチのごはんが、やなの〜。】
リメアは鼻を鳴らし、前脚で木碗を抱えるようにして、満足げに腰を下ろした。
こうして前脚で食器を持つ仕草は、彼女自身のお気に入りらしい。
ふたりは焚き火の前に並んで座り、卵炒めの飯を口に運ぶ。
頭上には澄みきった空。残る月が静かに浮かび、
山道はまだ人の気配もなく、霜の降りた草むらには鳥の声すらない。
そんな朝に、ふたりは慣れきっていた。
【きょうはどこ行くの〜?】
「山の麓に村がある。そこで補給をする。
……お前は来れない。」
【え〜、なんでだめなの〜?】
「お前の姿を見た村人が騎士団に通報でもしたら、面倒だろう。」
【じゃあ、かくれてるから、ちかくにいてもいいでしょ〜?】
「ダメだ。村から離れた東の斜面に行け。
密林は避けろ、魔物が出る。」
【わかってるもんっ。
こないだも、あたし、アッシュをまもったでしょ〜?】
「……あれは、お前が火を吐いて俺を燃やしかけた後、
泣きながら突進して魔物をぶっ飛ばしただけだろうが。」
リメアは、もし竜に可能であればという感じで目をぐるりと回し、口の端を吊り上げた。
【こまかいことは、いいの!だいじなのは〜
……あたしが勝ったってことっ!】
アッシュはため息交じりに頭を垂れ、最後の一口をかき込んだ。
◇
太陽が顔を出すころには、装備を整え、剣と荷袋を背負い、アッシュは山を下っていた。
途中、崩れかけた橋と苔むした石碑が目に入る。それはかつての辺境戦争の痕跡だ。
彼は足を止め、石碑に刻まれた文字を見つめた。
「第七軍団・繫名者駐陣記」――
繫名者。
人と竜が契りを交わす者。
王の候補たる存在であり、王国と竜族の共治を象徴する継承の鎖の一環。
彼も本来、その鎖に連なる者だった。
だが今は、錆びた剣と干からびた食料袋で、ただ日々を繋ぐだけの身。
村は、すぐ下に見える場所にあった。
彼の足取りは遅く、まるで何か壊れやすい記憶を踏まぬようにしているかのようだった。
◇
山の斜面。リメアはアッシュの背が小さくなるのを見届けると、すぐには東の斜面に向かわず、
森の縁でうろうろと歩き始めた。
〈ん〜……きょうはどこであそぼっかな〜?〉