ペンギンに嫉妬する夜
館内放送の柔らかなチャイムが鳴った。
「本日の昼番はこれで交代となります。遅番の方は点呼をお願いします」
その音が響いた瞬間、千代子はゆっくりと腕時計を見下ろした。もうそんな時間。気づけば夕餉の片付けも終わり、飼育スペースの奥ではペンギンたちが夜の活動に備えて羽繕いをしている。
「ふふ……本当に、時間が過ぎるのは早いわね」
呟きながら、千代子はナナの巣穴の方へ視線を向けた。
昼間のあの食事のあと、すぐに眠りについてしまった小さな体。今はもう、起きているだろうか。巣穴の中では、微かな気配が動く。もぞもぞと藻が揺れ、丸い頭がひょこっと覗いた。
ナナが、眠そうに羽根を膨らませながら顔を出していた。
「……起きたの? かわいい子ね」
千代子はそっと近づいて、指先で軽く挨拶するようにタッチする。
ナナは、くちばしを少し開いて「ぴゅ……」と鳴いた。声はまだ寝ぼけているようで、柔らかく、どこか甘い。
「あなたが動く時間、私はもう帰らなきゃいけないのよ」
千代子は苦笑を浮かべた。飼育員の交代は夜の七時。フェアリーペンギンは夜行性。
つまり、これからが本当の彼らの時間。
「いいなぁ……あなたたちはこれからが一番輝く時間なのね」
背後から、若い遅番の飼育員が声をかけてきた。
「千代子さん、お疲れさまです。あとは任せてください!」
彼はまだ二十代の青年で、明るくて素直な笑顔をしている。その笑顔を見て、千代子は自然と頷いた。 「ありがとう。でも……少しだけ、見ていってもいいかしら?」
「もちろんですよ」
青年が笑顔で答えるのを聞きながら、千代子はもう一度水槽の方へ足を運んだ。
照明が夜の演出モードに切り替わっていた。青い光が深くなり、まるで水の底にいるような世界。その中で、ペンギンたちは静かに泳ぎ始めている。白い腹が淡く光り、羽根が水を切るたびに、泡の軌跡が星のように瞬く。
「……こんなに綺麗な時間、私のシフトじゃ見られないなんて」
思わず本音が漏れた。千代子は水槽のガラスに指先を当てた。ひんやりとした感触が伝わってくる。 その向こうで、ナナが泳いでいた。
他のペンギンたちよりも少し不器用に、でも確かに、水の中を進んでいた。その姿に、胸がふっと締めつけられる。
きっと、これから少しずつ夜に馴染んでいく。そして、他の飼育員たちにも可愛がられていく。
それは嬉しいことのはずなのに、なぜだか心の奥がざわついた。誰かの手から餌をもらう姿。自分以外の声に反応して鳴く姿。想像するだけで、胸のどこかがくすぐったく痛い。
「嫉妬なんて、馬鹿ね……相手はペンギンなのに」
苦笑しながら呟いて、千代子は肩をすくめた。でも、確かにそこにあるのは嫉妬だった。
自分だけが見ていたい、触れていたい。この小さな命の『特別』でありたいという気持ち。
ふと、水槽の中のナナが動きを止めた。
そして、ガラスの向こうからまっすぐに千代子を見つめた。
あの、青い瞳。
昼間よりもずっと深く、光を湛えている。まるで、海の底で何かを知ったような眼差しだった。
「……あら。気づいたの?」
千代子は思わず微笑んだ。
「私、もう帰る時間なの」
ガラス越しに、指先を軽くトントンと叩く。
ナナが、その音に反応して近づいてきた。ガラス越しにくちばしを当てるようにして、コツン。
音が響いた。その音が、胸の奥にまっすぐ届いた。
まるで「行かないで」と言われたように感じて、千代子の喉が少しだけ詰まる。
「……ばかね。そんな顔されたら、帰れなくなっちゃうじゃないの」
声が震える。
遅番の青年が背後で呼ぶ声がした。
「千代子さん、そろそろ門の施錠時間ですよ!」
「ええ、すぐ行くわ」
千代子は一度だけ深呼吸をして、笑顔を作った。
「また明日ね、ナナちゃん。いい夜を過ごすのよ」
そして、ゆっくりと踵を返した。水槽の青い光が背中を照らす。歩くたび、ガラスに反射した自分の影が遠ざかっていく。
そのとき、背後から、かすかな鳴き声が聞こえた。
「ぴゅ……ぴゅ……」
まるで、名前を呼ばれているような響き。思わず立ち止まる。でも、振り返らない。
もし今振り返ったら、きっと帰れなくなる。そんな予感があった。
館の出口を抜けると、夜風が頬を撫でた。
街の灯りが水面に映って揺れている。
その光景の中で、千代子の胸はまだざわついていた。
「……今夜のあの子を見たかったな」
ぽつりと呟く声が、冷たい夜に溶けていく。 千代子の心の中で、ひとつの想いが芽を出していた。
だが、それはまだ誰母性という名で、そっと覆い隠した。
けれど確かに、恋に近い何か。
それはまだ誰にも見せられないほど小さくて、けれど確かに、あたたかく灯っていた。
そしてその夜、ナナは仲間の鳴き声に一度も応えなかった。
さっき見た夢の中で、自分を見守る黒髪の女性が微笑んでいたから。その笑顔は、海よりも深く、月よりも優しかった。




