夕餉と、小さな口ばし
水族館の午後は、どこか夢の終わりのような静けさに包まれていた。
昼間、見学に来た子供たちの笑い声が遠くに残響のように消えていく。飼育スペースの奥では、フェアリーペンギンたちがそれぞれの巣穴に戻り、ひんやりとした砂と藻の匂いの中で目を閉じていた。
その一角。小さな影が、丸くなって眠っている。
ナナだった。胸のあたりをふわりふわりと上下させながら、時おり夢の中で小さく足を動かしている。
水の夢を見ているのか、それとも仲間たちと遊んでいるのか。その表情は穏やかで、子どものように無防備だった。
千代子は、巣穴の入口にそっと腰を下ろした。
手にした小さなランタンの光が、暗がりの中でやわらかく揺れる。その光を受けて、黒髪のお団子の輪郭がほのかに金色に縁取られる。
「よく眠っているのね……昼は苦手かしら」
小さく笑って呟く声は、波に溶けるように静かだった。
フェアリーペンギンは夜行性。
それを知っていても、初めて迎える昼寝姿には特別なものがあった。
生き物というのは、安心できる場所でしか眠らない。
だからその小さな寝顔を見るだけで、千代子の胸はあたたかく満たされていく。
やがて夕暮れが近づくころ、空の色が深い群青に染まり始めた。
館内の照明がほんの少しずつ落とされ、夜の展示モードへと切り替わる。そのせいで海水の青が濃くなり、波音のBGMが静かに流れる。
その頃、千代子は調理室で魚を細かく刻み、ブレンドを整えた。いわし、アジ、そして栄養補助の粉をひとさじ。冷たい匂いと潮の香りが混ざる中で、心の中に不思議な懐かしさが広がる。
この手の中に、小さな命を守る重み。
それは若い頃から、何度も何度も繰り返してきた感覚だった。
桶を抱え、飼育スペースに戻る。
すでに起きたペンギンたちが、足音を聞きつけてざわざわと集まってくる。
短い足で跳ねながら、鳴き声を上げる姿はまるで小学生の行列のようで、千代子の頬が自然とほころぶ。
「はいはい、順番ですよ。焦らないの」
桶の中から魚を掬うと、みんなが一斉に首を伸ばしてきた。くちばしが次々とスプーンに当たって、パチン、と小さな音を立てる。
それはまるで、楽器が鳴り始める前のオーケストラのようだった。
だが…
その後ろで、少し離れた場所にひとり、ナナが、ぽつんと立っていた。
目をぱちぱちと瞬かせながら、他の子たちの動きに圧倒されている。何度か近づこうとするけれど、すぐに立ち止まり、また下がる。
そして、別の子に押されて尻もちをついて、こてん…。
「あらあら…」
千代子の口元に小さな笑みがこぼれた。それは心配と愛しさの入り混じった笑顔だった。
「みんな、ちょっと待ってね」
バケツを脇に置き、千代子はナナの方へ歩いていった。小さな影はまだ床の上でうずくまり、困ったように羽根を動かしている。
「怖かったのね。みんな元気が良すぎて」
そっと両手を伸ばして抱き上げる。ナナの体は相変わらず軽くて、けれど温かい。
「さぁ、今度は二人きりでね」
餌のスプーンを手に取り、魚のペーストを少しだけすくう。
ナナは興味津々にくちばしを近づけるけれど、周りが気になって首をすぐに逸らしてしまう。
「ふふ、落ち着いて。ほら、見て」
千代子は自分の指先にほんの少し魚の汁をつけ、ナナの目の前で指をゆらした。
匂いに反応して、ナナが「ぴゅ?」と鳴く。
そして…ちょん、と指先をくちばしでついばむ。
「そう、それでいいの。ほら、もう一口」
今度はスプーンを差し出す。
最初は警戒していたが、一口、二口と食べるうちにリズムを覚えていった。
やがて、ちょこんとした足で床を踏みしめ、口を開けて催促するように鳴いた。
「上手ね。食べるの、楽しいでしょう?」
千代子の声は、子守唄のように穏やかだった。
他のペンギンたちはすでに食事を終え、仲良く羽繕いをしている。その中で、ナナだけが千代子の手から餌をもらっていた。
まるで、特別な時間がそこだけ流れているようだった。
「あなたは焦らなくていいのよ。ゆっくりでいいの。世界は逃げないから」
そう言って微笑むと、ナナが見上げた。その瞳の中に、ランタンの光と千代子の顔が映る。
光が揺れ、二つの命がまるで鏡のように重なった。
「……ねぇ、ナナちゃん」
千代子はふと囁く。
「あなたを見てるとね、昔の私を思い出すの。群れに馴染めなくて、いつも誰かの後ろを歩いていた頃の私」
ナナは何も言わない。
ただ、ゆっくりと千代子の指をついばんだ。
その仕草がまるで「今は、ここにいるよ」と言っているようで、胸がじんわりと熱くなる。
やがて空が完全に夜に沈み、照明が青く落ちた。千代子はナナを巣穴まで送り、柔らかい藻の上にそっと寝かせる。小さな体が丸まって、羽根の中でくちばしを隠した。
「また明日ね、ナナちゃん」
その声に反応してか、巣穴の奥から「ぴゅ……」と微かな鳴き声が返ってくる。
それはまるで、ありがとう、のようだった。
千代子はしばらくその場に佇み、海の音を聞いていた。水面の反射が壁に揺れ、彼女の横顔を淡く照らす。
あぁ、なんて優しい夜だろう。
人も、鳥も、波も、全部が少しずつ寄り添って、生きている。
「明日も、いい日になりますように」
小さく呟いて、千代子はランタンの灯を落とした。
その瞬間、静寂の中で、また小さな鳴き声が響いた。
それは、愛の証のように澄んでいて、千代子の胸の奥を温かく包み込む。
その鳴き声に、千代子は足を止めた。けれど、気づかないふりをした。
だが、千代子は知らない。
ナナが巣穴の奥で、彼女の去った方向を、ずっと見つめていたことを。




