小さな海と、転んでしまう勇気
検査室を出てから、ナナちゃんは一度も千代子の腕から離れようとしなかった。
飼育スペースの扉が、静かに開くと、朝の光が水面に反射し、壁一面に揺れる青い模様を描き出す。
水槽の中では、他のフェアリーペンギンたちがすでに泳ぎながら鳴いていた。その小さな鳴き声が、まるで潮風の合唱のように響く。
千代子は、両手で抱えていた白いタオルをそっと開いた。
その中で、ナナちゃんが小さく首を動かす。ふわふわの羽毛が光を受けてきらりと輝き、瞳には広がる世界のすべてが映っていた。
「ここがあなたのおうちよ、ナナちゃん」
千代子の声は、波間に落ちる陽光のように柔らかかった。
けれどナナちゃんは、ただその場で、きょとんと立ちすくんでいた。
目の前の水槽は、自分の身長より何倍も大きい。床のタイルの冷たさが足の裏に伝わり、思わずよちよちと後ずさる。
「ぴゅ?」というような鳴き声を出して、首を傾げる姿がなんともいじらしい。
「大丈夫よ。怖くないの」
千代子はしゃがみ込み、手のひらを床に差し出した。
まるで、初めて歩く子どもを励ますように。
ナナちゃんは、その手を見つめる。
そして、意を決したように、一歩。
しかし、足元のタイルに滑って「ぴゃっ!」と情けない声をあげて転んでしまった。
「まあ!」
千代子は思わず吹き出してしまう。
「もう、あなた……そんなところまで可愛いのね」
ナナちゃんはというと、少しだけ恥ずかしそうに羽根をぱたぱた。床をよじ登るように立ち上がるけれど、またツルン。そして今度は尻もちをついて、こてん。
「ふふ……天然さんね。焦らなくていいのよ」
千代子は手を差し伸べて、そっとその小さな体を抱き上げた。
ナナちゃんの胸の鼓動が、またあの時のようにトクトクと震えている。
まだ世界を知らない音。
けれど、確かに生きている音。
「この水の中はね、あなたの海。みんな、ちゃんと仲間になってくれるわ」
そう囁きながら、千代子は足元のプールに身をかがめた。水は穏やかに波打ち、透明な世界が広がっている。
ナナちゃんの瞳にその水面が映る。自分の小さな姿がそこに揺れて、興味深そうに首を傾げた。
「ほら、行ってごらんなさい」
千代子が手を放すと、ナナちゃんはそっと水に近づく。
けれど、すぐに立ち止まって後ろを振り返る。
千代子が微笑んでうなずくと、少しだけ勇気を出したように足を一歩前へ。
……ぽちゃん。
小さな波紋が広がる。
最初は驚いたように羽根を広げ、バシャバシャと水をはねさせた。でも、すぐに感触を覚えたのか、羽根をたたんで静かに浮かんだ。
「そうよ、それでいいの」
千代子は水槽の縁に手を置いて見守る。
ナナちゃんは、水面を漂いながら小さな声で鳴いた。
「ぴゅぴゅ……」
その音が、嬉しさと不安が混ざったような響きで、千代子の胸をやさしく締めつける。
「初めての海は、少し怖いものなのよ」
千代子の声は、昔を思い出すように少し掠れていた。
「私もね、若い頃……初めて深い海に潜った時、息が止まりそうなくらい怖かった。でも、次の瞬間、世界が青くて広くて、泣きそうになるほど美しかったの」
ナナちゃんは、ゆっくりと泳ぎ始めた。短い足で必死に水をかきながら、何度も方向を間違える。
壁にぶつかりそうになっては慌てて羽根をばたつかせ、また転びそうになる。
でも、そのたびに立ち上がる。水中で、何度も、何度も。
「そう、それでいいのよ」
千代子は微笑む。
「転んでも、立ち上がるたびに強くなる。人も、ペンギンも、みんな同じ」
やがて、ナナちゃんが他のペンギンたちの近くへ泳ぎ着いた。
先輩たちが不思議そうに彼女を見つめ、くちばしを寄せる。
一瞬、ナナちゃんが身をすくめるが――次の瞬間、仲間の一羽がそっと体を寄せた。
「ぴゅ……」
その声は、明らかに嬉しそうだった。
だが、その様子を、水槽の縁から見ていた千代子が、ほんの一瞬だけ視線を逸らす。
するとナナちゃんは、不安そうに鳴き声を上げ、慌ててこちらを探した。




