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フェアリーペンギンは恋をする  作者: 白鴉雪絵


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3/5

小さな海と、転んでしまう勇気

  検査室を出てから、ナナちゃんは一度も千代子の腕から離れようとしなかった。

飼育スペースの扉が、静かに開くと、朝の光が水面に反射し、壁一面に揺れる青い模様を描き出す。

水槽の中では、他のフェアリーペンギンたちがすでに泳ぎながら鳴いていた。その小さな鳴き声が、まるで潮風の合唱のように響く。

千代子は、両手で抱えていた白いタオルをそっと開いた。

その中で、ナナちゃんが小さく首を動かす。ふわふわの羽毛が光を受けてきらりと輝き、瞳には広がる世界のすべてが映っていた。

「ここがあなたのおうちよ、ナナちゃん」

千代子の声は、波間に落ちる陽光のように柔らかかった。

けれどナナちゃんは、ただその場で、きょとんと立ちすくんでいた。

目の前の水槽は、自分の身長より何倍も大きい。床のタイルの冷たさが足の裏に伝わり、思わずよちよちと後ずさる。

「ぴゅ?」というような鳴き声を出して、首を傾げる姿がなんともいじらしい。

「大丈夫よ。怖くないの」

千代子はしゃがみ込み、手のひらを床に差し出した。

まるで、初めて歩く子どもを励ますように。

ナナちゃんは、その手を見つめる。

 そして、意を決したように、一歩。

しかし、足元のタイルに滑って「ぴゃっ!」と情けない声をあげて転んでしまった。

「まあ!」

 千代子は思わず吹き出してしまう。

「もう、あなた……そんなところまで可愛いのね」

 ナナちゃんはというと、少しだけ恥ずかしそうに羽根をぱたぱた。床をよじ登るように立ち上がるけれど、またツルン。そして今度は尻もちをついて、こてん。

「ふふ……天然さんね。焦らなくていいのよ」

 千代子は手を差し伸べて、そっとその小さな体を抱き上げた。

 ナナちゃんの胸の鼓動が、またあの時のようにトクトクと震えている。


まだ世界を知らない音。

けれど、確かに生きている音。


「この水の中はね、あなたの海。みんな、ちゃんと仲間になってくれるわ」

 そう囁きながら、千代子は足元のプールに身をかがめた。水は穏やかに波打ち、透明な世界が広がっている。

ナナちゃんの瞳にその水面が映る。自分の小さな姿がそこに揺れて、興味深そうに首を傾げた。

「ほら、行ってごらんなさい」

 千代子が手を放すと、ナナちゃんはそっと水に近づく。

けれど、すぐに立ち止まって後ろを振り返る。

千代子が微笑んでうなずくと、少しだけ勇気を出したように足を一歩前へ。


 ……ぽちゃん。


 小さな波紋が広がる。

最初は驚いたように羽根を広げ、バシャバシャと水をはねさせた。でも、すぐに感触を覚えたのか、羽根をたたんで静かに浮かんだ。

「そうよ、それでいいの」

 千代子は水槽の縁に手を置いて見守る。

ナナちゃんは、水面を漂いながら小さな声で鳴いた。

「ぴゅぴゅ……」

 その音が、嬉しさと不安が混ざったような響きで、千代子の胸をやさしく締めつける。

「初めての海は、少し怖いものなのよ」

 千代子の声は、昔を思い出すように少し掠れていた。

「私もね、若い頃……初めて深い海に潜った時、息が止まりそうなくらい怖かった。でも、次の瞬間、世界が青くて広くて、泣きそうになるほど美しかったの」

 ナナちゃんは、ゆっくりと泳ぎ始めた。短い足で必死に水をかきながら、何度も方向を間違える。

壁にぶつかりそうになっては慌てて羽根をばたつかせ、また転びそうになる。

でも、そのたびに立ち上がる。水中で、何度も、何度も。

「そう、それでいいのよ」

 千代子は微笑む。

「転んでも、立ち上がるたびに強くなる。人も、ペンギンも、みんな同じ」

 やがて、ナナちゃんが他のペンギンたちの近くへ泳ぎ着いた。

先輩たちが不思議そうに彼女を見つめ、くちばしを寄せる。

一瞬、ナナちゃんが身をすくめるが――次の瞬間、仲間の一羽がそっと体を寄せた。

「ぴゅ……」

 その声は、明らかに嬉しそうだった。

だが、その様子を、水槽の縁から見ていた千代子が、ほんの一瞬だけ視線を逸らす。

するとナナちゃんは、不安そうに鳴き声を上げ、慌ててこちらを探した。

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