胸に抱いた誓い
胸元に飛び込んできた温もりが、まだ指先に残っているまま、千代子は検査室にやってきた。
検査室の空気は、ひんやりとしている。
壁には温度と湿度を示すモニターが並び、軽い機械音が一定のリズムで響いていた。
千代子は、白衣の袖口を整えながら、目の前のファイルを開く。
フェアリーペンギン「ナナ」 雌。推定年齢、二か月半。体重七百六グラム。体表の羽根、やや柔らかく保温力は十分。 生息地:オーストラリア南岸沿い。夜行性が強く、昼間は巣穴で休む傾向あり。
「なるほどね……」
ページを指でなぞりながら、千代子は小さく呟いた。
ファイルの紙面には、前の飼育施設での記録も細かく記されている。 餌の種類、摂食量、鳴き声の特徴、そして最後の欄には、やや震えた筆跡でこう書かれていた。
『とてもおとなしく、少し臆病。でも、安心すると急に甘えるようになります』
「……あぁ、やっぱり」
千代子は目を細め、検査台の上で丸くなっている小さな影に視線を向けた。
ナナちゃんは、まだおどおどとあたりを見回している。銀色の金属台の冷たさにびくりと体をすくめ、羽根の隙間から心臓の鼓動が小さく伝わってきた。
「怖いのね。でも大丈夫。千代子がいるわよ」
優しく声をかけながら、千代子はゴム手袋をはめた。体温計をそっと差し入れ、羽毛の下のぬくもりを感じ取る。ピッという電子音が響く。
「うん、体温は正常。……えらいわね、じっとしてて」
次は羽根の状態を確認する。一本一本、光の角度を変えながら観察し、健康な艶を確かめる。
ときおりナナちゃんが小さく鳴くと、そのたびに千代子の指先が止まり、微笑みがこぼれた。
「鳴き声もいい。肺も強いわ」
そう呟きながら、千代子は胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。
命というのは、不思議だ。たった七百グラムしかない体なのに、そこには確かな存在感があって、触れるたびにこちらの心が整っていく。
検査が終わるころには、ナナちゃんの表情が少し柔らかくなっていた。 最初の怯えた瞳の奥に、ほんのわずかな安心の色が差している。それを見て、千代子の胸がふっと緩む。
「あなた、もう分かったのね。ここは、怖い場所じゃないって」
ファイルを閉じてから、千代子は筆を取った。
文字をゆっくりと書き入れていく。
『第二日目:搬入直後の健康状態、良好。警戒心あり。しかし、呼びかけに対して目を合わせる反応を確認。人の声を恐れない傾向あり。』
ペン先が紙を滑るたび、過去の自分の手元が重なって見えた。
三十年前、最初にペンギンの雛を抱いた日のこと。
あの頃の自分は、若く、夢中で、そして不安だった。でも、今はそのすべてを懐かしく思える。
その時、検査台の上で、ナナちゃんがあくびをした。小さなくちばしが開いて、微かな鳴き声が漏れる。 その無防備さが愛おしくて、千代子は思わず笑ってしまう。
「ふふ……お腹、すいたの?」
千代子は小瓶を取り出し、ミキサーにかけた魚のペーストをスプーンにすくう。ナナちゃんは匂いに気づいて、少し首を傾げた。そして、恐る恐る、ちょん、と舌を出す。
「そうそう、上手ね。ゆっくりでいいのよ」
千代子の声は、まるで子守唄のようだった。ナナちゃんは少しずつ食べ始め、やがて満足そうに目を細めた。
「可愛い子……。あなたのその鼓動が、私の明日の理由になるわ」
やがて、検査室のドアが静かに開く。飼育スペースへと続く通路。そこから、わずかに潮と餌の匂いが漂ってきた。
千代子は立ち上がり、両手で小さな体を包む。
その掌の中には、羽根の柔らかさと、命の重さが確かにあった。
「さぁ、行きましょう。あなたのお部屋を見せてあげる」
ナナちゃんは、まるで返事をするように一声鳴いた。 その音が、静かな廊下に優しく響き、千代子の胸を温かく満たしていった。




