港町に来た小さな姫
港町・御影の朝は、潮と魚の匂いから始まる。その海沿いに佇む「御影海星アクアリウム」は、開館から五十年以上経つ古き良き水族館だ。観光客には少しレトロすぎると言われるが、地元民にとっては海そのもののような存在だった。まだ開館前の館内は静謐そのもの。濡れた床に天井灯の光が揺れ、波紋のような模様を作っている。遠くの大水槽からは、ぽこぽこと水泡の音。冷ややかな空気が頬を撫で、背後には海風が忍び込む気配があった。
「今日は、特別な日」
そう小さく呟いたのは、黒髪を高く結い上げた女性だった。潮風にも負けない艶やかな髪、長いまつ毛の奥に湛えられた深海のような光。桐生千代子、六十五歳。
ペンギン・海獣の飼育歴三十年を超えるベテランで、「水族館の顔」として裏でも表でも知られた存在だ。飼育服の上からでも隠しきれないしなやかな肢体と扇子で口元を隠す古風な仕草。若いアルバイトたちはよく「着物姿が似合いそう」と冗談を言うが、彼女はただ意味深に笑うだけだった。
今朝、搬入口に届くのは『新しい命』。木箱のような運搬用クレートが台車に乗せられ、ゆっくりと運ばれてくる。近づくにつれ、かすかな鳴き声が聞こえた。
「ピ…ピィ…」
蓋が開くと、中からふわふわとした灰色の産毛が覗いた。全長三十センチほどの小さなフェアリーペンギンの雛。まだ世界を知らない瞳がきょろきょろと揺れ、足を一歩出しては引っ込める。まるで、海から引き揚げられたばかりの小さな船乗りのように怯えていた。
「…ナナちゃん、ね」
名を呼ぶと、雛はぴくりと動いた。その目は宝石のような薄紫色に濡れ、光を反射して千代子の心を射抜く。
しばし見つめ合い、やがて小さな体は、ためらいを振り切るように一歩、二歩と近づいてきた。
ぺた、ぺた…足音が床に染み込むように響く。
しゃがみ込んだ千代子は、ゆっくりと手を差し出す。
「大丈夫。怖くないわ、ここはあなたの家になる場所…」
ナナちゃんは手の匂いをくんくんと嗅ぎ、次の瞬間、胸元に飛び込んだ。羽毛はひんやりしていて、その奥からじんわりと温もりが広がっていく。それは、長年潮風に晒された千代子の心の奥まで染みわたるようだった。
「ふふ…おどおどしてても、可愛いこと」
安心したのか、ナナちゃんは目を細め、胸元に顔をうずめる。
水槽の奥から先輩ペンギンたちが鳴き声を上げた。まるで新しい仲間を歓迎するかのように。
千代子は小さな命を抱いたまま静かに歩き出す。この子の瞳に、これから見せる海や空や仲間たちすべてが、幸せに映りますように。そんな祈りを胸に潮の香りに包まれながら。