第7話:さようならの前に
八月の終わり、蝉の鳴き声が少しだけ弱くなった。夕暮れは早くなり、空気の中に秋の匂いが混じる。
夏休みの宿題はなんとか終わった。自由研究には「田主丸のカッパ伝説」を選んだ。最初は絵や伝承をまとめただけだったけど、今では、そこに僕だけの物語が加わっている。
「……トオル、もうすぐ二学期だね」
川辺でミナミがつぶやいた。彼女は最近、ほぼ毎日ここに来てくれていた。スケッチブックにはケンザブロウの姿が何枚も描かれていて、どれも生きているみたいに優しい。
「うん。そろそろ……会えなくなるかもしれない」
僕がそう言った瞬間、背後の水面がぴちゃりと跳ねた。
「誰が会えなくなるって?」
ケンザブロウだった。今日は肌の色が少しだけ明るく、皿の水も澄んでいるように見えた。元気そうで、僕はほっとする。
「わしはな、川におる限り姿を消すことはない。じゃが……人間の心の中から消えたら、それがほんまの“お別れ”じゃ」
ミナミが言った。
「そんなの、いやだ。私、ケンザブロウを……ずっと描いていたい。何年たっても、この川を思い出して、あなたのことを思い出すよ」
ケンザブロウは目を細めて笑った。
「それで十分じゃ。カッパというのは、誰かの“信じる心”に棲んでおる。わしらが生き続けられるかどうかは、その一念にかかっておるんじゃ」
「じゃあ……ずっと、思い出していい?」
僕がそう聞くと、ケンザブロウは静かに頷いた。
「ええとも。トオル、おぬしはもう一人じゃない。もう“友達なんかいらない”なんて言うなよ」
言葉が胸に刺さる。でも、それはもう痛くなかった。
「……うん。ありがとう、ケンザブロウ。僕、きっと……忘れない。いや、絶対に、忘れないよ」
「わしの方こそ、感謝しとる。トオルと出会えて、ほんとうに、よかった」
そのときだった。川の水が一瞬、きらりと光った。風が吹いて、葦がざわりと揺れる。
ケンザブロウの体が、うっすらと透けていく。
「……ケンザブロウ……?」
「ふふ……どうやら、わしの役目も終わりのようじゃ。皿の水は満ちた。信じてくれる者がおる。わしはこれで……安心して眠れる」
「だめだよ……もっと話したいことがあるんだ。僕、やっと誰かを信じられるようになったのに!」
ミナミが手を握ってくれた。その温かさに、僕は泣きそうになる。
「……わしは、ずっとこの川におる。姿が見えんでも、声が聞こえんでも、信じてくれるなら、それでええ」
ケンザブロウの声が、少しずつ風の音に溶けていく。
「ありがとう、トオル。ありがとう、ミナミ。――わしは、しあわせじゃ」
そして、その姿は夕暮れの空へ、静かに、やさしく消えていった。
僕たちはしばらく川辺に座っていた。何も言えなかった。ただ、風が吹いていた。水が流れていた。
「……行っちゃったね」
「でも……ほんとうに、生きてたよね」
「うん。私たちが信じてたもん」
ミナミがそっとスケッチブックを開いた。そのページには、川と、岩と、ケンザブロウの笑顔が描かれていた。
「この絵、ずっと大切にする。誰に笑われても、いいよ」
僕も頷いた。
「僕も描くよ。次は、僕だけのケンザブロウを。……信じる気持ちを、絵にする」
夕暮れの光の中で、僕たちは立ち上がった。
もう、友達なんかいらないなんて、思わない。
――きっと、いつかまた会える。