第4話:友達なんか、いらないと思ってた
あの日の相撲から、僕の中で何かが少し変わった。
毎朝、川へ行くのが楽しみになった。きゅうりを2本リュックに入れて、靴ひもをぎゅっと結んで出かける。
「おお、来たかトオル! 今日はわし、技を磨いてきたぞ!」
「えっ、昨日のあれで本気じゃなかったの?」
「ふっふっふ、人間をなめたらあかんと思ってな。今朝、岩でひとりで100回転んできたわ!」
「それは稽古って言わないよ……」
笑い合うこの時間が、本当に好きだった。
ケンザブロウは、時々昔の話をしてくれた。
近くの神社に子どもたちが集まってカッパ絵巻を描いたこと。川沿いに小さな“カッパ地蔵”を作った子がいたこと。
僕が生まれるずっと前、田主丸の川には笑い声が満ちていたらしい。
「トオル、今日は土曜じゃろ? おぬしのクラス、誰かと遊んだりせんのか」
その言葉に、僕の動きが少し止まった。
「……ううん、いいんだ。僕、友達なんか、いらないから」
「ほぉ?」
「だって、前は信じてたのに、みんな裏切ったんだ。僕の話、変だって、笑った。僕の描いた絵を破いたり、机を蹴ったり……それで、『冗談だったよ』って言ってくる。わかんないよ、あんなの」
ケンザブロウは、黙ってきゅうりをかじっていた。
「そうか。そりゃ、つらかったな」
そう言ったケンザブロウの声が、やけに静かだった。
「でもな、トオル。“信じられる誰か”を一人でも見つけたら、世界はちょっとだけ変わるもんじゃ」
「それ、前も言ってたね」
「うむ。わしらカッパは、同じことを何度でも言うんじゃ。忘れんようにな」
川の水音が、少しだけ強くなった気がした。
どこかで風が吹いたのか、ケンザブロウの皿の水がちらっと揺れた。
「……じゃあ、今日、図書館に行ってみようかな」
自分でそう言って、びっくりした。
ケンザブロウは目を細めてにっこり笑った。
「おう、行ってこい。本の中にも、友達はおるけんな」
「うん。じゃあ……夕方、また来てもいい?」
「わしはいつでもおる。トオルが来るのを、楽しみにしとるよ」
図書館に着くと、夏休みの自由研究をしている子どもたちがたくさんいた。
僕は、静かに郷土資料の棚に向かって歩いた。
手に取ったのは『田主丸のカッパ伝説』という古い本。ページをめくると、そこに“ケンザブロウ”の名前が載っていた。
《大正時代、この川にはケンザブロウという名のカッパが現れたと伝えられる。子どもたちに人気があり、相撲をとったり、野菜を分け与えたりしたという。最後に姿を見たという記録は、昭和三十年。》
「最後って……そんな昔……」
僕だけじゃない。
ケンザブロウは、ほんとうに、誰かと“友達”だったことがある。
そのページをそっと閉じたとき、後ろから声がした。
「それ、読んでるの? カッパ、好きなの?」
振り向くと、クラスメイトのミナミが立っていた。
普段は話さない子だったけど、驚いたように笑っていた。
「私もカッパ好きなんだよ。なんか、笑えるよね。伝説とか」
「……笑える、だけ?」
「ううん、なんか、信じたいって思ってる。だって、見えないものを信じられる方が楽しくない?」
その言葉に、僕は少しだけ肩の力を抜いた。
夕方、僕はケンザブロウのもとに走った。
「聞いて、ケンザブロウ! 今日ね……話しかけられたんだ。カッパ、好きって」
ケンザブロウは、ふんと鼻を鳴らした。
「言うたろ? 一人、味方がいれば、変わるって」