気が付けば婚約破棄カウントダウンだった……何故だ?
出オチネタ。気の毒な王子様のコメディです。
懐かしい香りがした。
大きく吸い込み胸腔を満たすと、ゆっくりと頭の中が明瞭になっていく気がする。
王子レオポルトは数度瞬いた。そして愕然とした。
彼の意識での現在地は王宮の一角、庭園を見渡す部屋のはずだったのに、周囲は明らかに違っていたのだ。
――何だ? ここは……?
彼は素早く視線を走らせた。
――聖ミルテの天井画……ということは学友協会ホールか。これだけ飾り立てられているのは公式行事……。
窓の外に目を向け、レオポルトは更に驚くこととなった。窓枠に積もっているのは雪だ。
――まさか新年舞踏会か?
それならば周囲の人々の盛装も納得できる。だが、自分には秋の花に彩られた庭園の記憶が最後だ。何が起こっているのか全く見当がつかない。
「……殿下?」
背後から不審げな声がかけられた。レオポルトは振り向き、彼の側近ヘルマンと気付いた。いつも行動を共にしていたカレルやクルトもいる。
だが、異質な者も混じっていた。
彼は自分の腕が重いのを遅まきながら感じた。そこには小柄な少女がしがみついていたのだ。
――誰だ?
ふわふわした金髪と青い瞳の、愛くるしい顔立ちの少女だがレオポルトには全く覚えがなかった。それが婚約者でもなければありえない立ち位置にいる理由がさっぱり分からない。
少女は不満そうに王子を見上げて催促した。
「ねえ、レオ様、どうしたの? 早く婚約破棄宣言しましょうよ」
――……は?
とんでもない台詞が彼に正面の人物を認識させた。
ベアトリクス・デ・ケンベナール。王子の婚約者であるケンベナール侯爵令嬢だ。それが自分の隣でなく敵対するかのような真正面に立っている。自分は彼女に指を突きつけた姿勢だ。見知らぬ少女の言によれば婚約破棄直前らしい。
――一体、何がどうなっている!?
今の彼には理解できない状況だった。王子に糾弾されようとするベアトリクスの唇が動く。彼の名を呼んでいることが直感で分かった。
レオポルトは高速で情報整理した。経緯は不明だが、自分は意識がないまま季節一つ経過し、厄介な状況に陥った挙げ句に側近たちと正体不明の少女を率いて、あろうことか婚約破棄を告げようとしている。ベアトリクスは青ざめながらも健気に彼の言葉を待っている。青紫色の瞳が哀しげに揺れているのを視認した瞬間、彼の思考は方向性を決定した。
真相究明は後回しにしてでも、ここを乗り切らねばならない。愛する婚約者の目を涙で曇らせるなど論外だ。
レオポルトの脳裏に教育係の言葉が甦った。
『よろしいですか、殿下。公の場における王族は、国民が望む姿という役を与えられた俳優のようなもの。舞台に立つと思って『王子』となるのです』
――考えるな、演じろ!
レオポルトは覚悟を決めた。
まず、指を突きつけた形から手のひらを上に向けてベアトリクスへと差し出す。瞳と同じ青紫色のドレスを着た侯爵令嬢は目を瞠った。彼は微笑んだ。
「ベアトリクス、君の盛装はいつも素敵だ。ただ、お茶会には大げさな気もするが」
「殿下……」
顔を輝かせる彼女に安堵し、レオポルトは不思議そうに周囲を見回した。
「ここは……? 僕はさっきまで城の庭園で君とお茶を楽しんでいたはずなのに……」
片手を額に当て黒髪を掻き上げ、「ここはどこ?」とばかりに信じられないという身振りをする。思わず駆け寄るベアトリクスを阻んだ者がいた。さっきから王子に婚約破棄をけしかける謎の少女だ。
「どうしたんですか、レオ様。早くこの人に言って…」
密着されるとレオポルトの目眩が本物になった。この少女は危険だと脳内に警報が鳴り響く。
「誰だ、君は?」
不機嫌そうにレオポルトは彼女を振り払った。ゆっくりと婚約者に歩み寄り、その手を取りキスをする。背後で側近たちがざわめいた。
「殿下、どうなさったのですか?」
たまらず口を挟んだヘルマンに王子は憮然とした顔を向けた。
「どうして面識のない者を近づけた? 護衛は何をしている?」
「殿下、マリエッテ嬢ですよ!」
「知らないな」
「冗談でしょう?」
「あれほど寵愛なさっていたのに」
「信じられない」
口々に同じような台詞を言う側近たちに王子は違和感を覚えた。様々な個性を持つはずの彼らなのに、判で押したように正体不明の少女を庇う様子は不気味ですらある。
あっさりと切り捨てられ、マリエッテという名前らしい少女は目を見開いた。
「嘘……」
小さな唇がわなわなと震え、大きな目から盛大に涙がこぼれる。それを拭いもせずに、マリエッテはベアトリクスを睨んだ。
「酷いわ、ベアトリクス様。レオ様を取られそうだからって、何か細工をしたのね!」
八つ当たり気味な非難に憤ったのは本人ではなく王子の方だった。
「聞き捨てならないな。僕が婚約者以外の女性を選ぶとでも?」
「騙されないで、レオ様!」
マリエッテが縋ってこようとした時、覚えのある香りがした。意識を侵食し搦め捕るようなそれに、本能的に危険回避行動を取る。
王子は咄嗟に婚約者と共に後ずさった。苛立った少女は尚も距離を詰めようとする。
途端に空気が重苦しく感じられた。呼吸すら奪い取るような香りにレオポルトは意識が遠のきそうになった。
その時、横からハンカチがすっと差し出された。反射的にそれを手に取り、彼は大きく息を吸い込んだ。ハンカチからは、あの懐かしい香りがした。
「……ベアトリクス、君だったのか。僕を正気に戻してくれたのは」
香りは彼の婚約者が常に身にまとっているものだった。ハンカチを差し出した侯爵令嬢は嬉しそうに頷いた。
「やっと戻ってきてくれたのですね…」
見つめ合う二人を前に、マリエッテは信じられないと言いたげな顔をした。
「どうなってるの!? マリエッテの王子様なのに!」
叫ぶ彼女に側近たちですら引き気味だった。掴みかからんばかりの勢いで突進してくる少女を王子は制止した。
「近寄るな。……臭いんだ」
あまりの言葉にマリエッテは固まった。周囲の者も同様だったが、ベアトリクスだけは真剣な顔で王子の様子を見守っていた。
「……そんな……、ひどい~~~~~!!」
本格的に泣き出した少女を前にして、レオポルトは詳細に怒りだした。
「この臭いは天然由来のものだけではないだろう。原料はオピウム系か? それにペヨーテ、ツキヨフクロダケ、ケタミウムの合成物質……、全部違法薬物ではないか! 警備兵!」
異様な状況を察知して周囲を固めていた警備兵がすぐさまマリエッテを取り囲み、側近たち共々担ぐようにして連行していった。
急転直下の出来事に、周囲から困惑のざわめきが起きた。
――まずいな、ここは……。
レオポルトは「あ、持病の癪が」の要領でよろめいた。慌てて手を差し伸べるベアトリクスが支えられる程度に体重をかけ、彼女特有の清澄な泉のほとりに咲く白い花のような香りにほっと息をつく。
侯爵令嬢は周囲の列席者に向けて説明した。
「皆様、ご安心を。殿下は国内を騒がせていた危険な薬物を根絶するための捜査に協力されていたのです」
昨今の奇妙な行動はそのためかと、人々は囁き合い納得した雰囲気が広がっていった。
婚約者と侍従に付き添われながら、レオポルトは学友協会ホールから宮殿へと移動した。
宮殿の一角、警備兵の詰所へとレオポルトとベアトリクスは赴いた。
そこには連行されたマリエッテと側近たちが拘束されていた。兵たちが敬礼する中、王子は入室した。
「殿下、まずはお詫びします」
警護隊長と宮廷侍医が王子に深々と頭を下げた。彼らは経緯を説明した。
「秋のお茶会で殿下が急に倒れられてから人が変わってしまわれた時、我々は薬物の影響を疑いました。しかし、その日に供された飲食物に異常がないため、摂取ルートを割り出すのに時間を要し、更に関係者のあぶり出しに手間取ってしまいました。幸い殿下のお命に関わることではなかった故、国王陛下の許可を得て恐れながら首謀者を特定するためにこの状況を利用した次第であります」
言われてレオポルトはあの日を思い出そうとした。いつもどおりお茶と他愛ない話を楽しんでいた時、急に目眩を覚え意識が遠のいたのが最後の記憶だ。
――当日のお茶会そのものに異変はなかった。参加者はベアトリクスとヘルマンたちと関係者のみ。ならばその前か?
拘束されたマリエッテがふわふわのブロンドを激しく揺らすのを見るうち、お茶会直前の出来事が浮かび上がった。
――そうだ、庭園回廊に迷い込んだ者がいたな。身元は確かな者だったから警告して解放したが……。
その闖入者の姿が眼前の少女と重なった。王子は呟いた。
「庭園回廊で警備に誰何されていたな。驚いて花束を落とし、僕の前にも散らばって泣きながら拾い上げた……、あの時の接触か? 花束に薬物を?」
侍医が首肯した。
「左様でございます。殿下は非常に嗅覚の鋭いお方ゆえ、真っ先に影響を受けたものと思われます。倒れられた時の騒動に紛れて今度は殿下の宮に潜り込んだのは共犯者の手引きがあったと思料されます。今、この日以降に辞めていった女官侍従を追跡しております」
警護隊長が侍医の説明を引き継いだ。
「意識を取り戻された殿下のお側にこの者がおり、殿下は自分を救ってくれた恩人と主張されました。最初は不審がっていた側近方も次々と同じ事を言い出し、それから本日に至るまでこの者の言いなり状態でした」
実にふた月以上も醜態をさらし続けたのかと思うと頭痛がしそうだが、レオポルトは堪えた。まだ解明されていないことがある。
「それで、このマリエッテとやらが婚約者であるかのように振る舞っていたのか。だが、僕はどうやって薬物の影響から脱却できたのだ?」
「それは殿下の婚約者であられるケンベナール侯爵令嬢にご協力を仰ぎました。侯爵領には幻覚作用を中和させる効力のある植物が自生していますので」
レオポルトが隣を見ると、ベアトリクスが頷いた。
「私が使う香水にもその成分が入っております。ですから、殿下の私室を中心とした宮に、それを塗布した調度品を増やしていきました」
「その間にもこの者の背後関係を調査し、違法薬物の密輸組織と繋がった財務官僚の一派と判明しました。さきほど殿下御自身で違法薬物を摘発したことで一斉逮捕に移りました」
彼らの言葉でかなり際どいタイミングだったことが判明した。レオポルトは背中に冷や汗が流れるのを感じた。そして目の前の少女の役割が気になった。王子を薬物で操るという大それたことをしでかした割に、どうにも言動が幼稚に思えたからだ。
「この、マリエッテは密輸組織の一員なのか?」
途端に人々の顔に苦笑が浮かんだ。
「それが……」
怪訝そうな顔をした後、レオポルトは命じた。
「本人に話してもらおう」
口の拘束具を外された少女は、涙目で訴えた。
「ひどいです、レオ様!」
「正直に答えるんだ、君は密輸組織の関係者なのか?」
「マリエッテは王子様と結婚するの!」
会話が全く噛み合わず、王子はたじろいだ。そこに興奮したマリエッテからの濃密な薬物臭が忍び寄った。
――彼女も中毒者? 操られているのか?
レオポルトは後退した。心配そうなベアトリクスを抱きしめ、彼女の栗色の髪に顔を埋める。マリエッテがきーきーと騒ぐのも聞こえない状態で、彼は清涼感を求めて息を吸い込んだ。
ようやく影響を振り払った王子の耳に、マリエッテの叫びが届くようになった。
「何で? マリエッテの王子様なのに! 世界で一番素敵な王子様なのに!」
彼女の前にベアトリクスが進み出た。
「あなたの王子様? それはどんな方なの?」
問われた少女は目をキラキラさせながら語った。
「勿論、見目麗しくて文武両道、マナーも何もかも完璧なの!」
誰のことかと遠い目をするレオポルトをよそに、侯爵令嬢は気の毒そうに溜め息をついた。
「そうなの、ご存じないのね。殿下はとても香りに敏感で、臭いが独特な香草類は食べられませんの。他の野菜も少しでも香りがきつい物は鼻をつまんでようやく飲み込めるほどで」
「……え?」
「それに動物好きなのに獣臭が苦手で国王陛下の愛犬を撫でる時は必死で息を止めていらっしゃるわ。夜会でムスク系の香水をふりかけているご婦人と挨拶する時は限界になるたびに私がハンカチを差し出していますの」
「……ベ、ベアトリクス……」
さすがに止めようとレオポルトは歩み寄った。しかし途端に見えざる薬物攻撃にさらされ、婚約者の首筋に顔を埋めると必死でスーハーした。
限りなく変質者に近い行動を目の当たりにして、顔を引きつらせたマリエッテは叫んだ。
「こんなの、マリエッテの王子様じゃないっっっ!!!!」
その後詰所は阿鼻叫喚の場と化し、王子と婚約者は早々に王子宮に撤退した。
「つまり、あのマリエッテは密輸組織関係者の家族で、『王子様』へのただならぬ憬れを利用されて薬物攻撃役にされたと……」
私室で報告書をめくり、レオポルトは溜め息をついた。
「あの性格がどこまで薬物の影響なのか不明だが、問えるのは不敬罪くらいか」
彼の判断に婚約者のベアトリクスも賛同した。
「病院で治療を受けさせてから親戚の者に預けるか施設に収容するのがよろしいのでは?」
「そうだな、ヘルマンたちも元はと言えば真っ先に薬物の影響を受けた僕の巻き添えを食らったようなものだ。謹慎ではなく治療期間をおいて復帰させよう」
幸い、今なら捜査協力という名目で大抵のことは片付けられる。身辺の被害は最小限にとどめたいと王子は考えた。
同じ長椅子に腰掛けた婚約者に、レオポルトは改まった口調で言った。
「ベアトリクス、頼むから教えてくれ。僕は何度君を傷つけた?」
マリエッテの王子様人形と化していた間に婚約者に冷たく当たり悲しませたかもしれない。
彼にはそれだけが恐ろしかった。何よりも恐ろしかった。
だが、侯爵令嬢は微笑んで首を振った。
「ご心配なさらないで。マリエッテ嬢が連れ歩いていた『王子様』は殿下の繊細さなど何一つ備えておらず、私には姿形を借りただけの気持ち悪い生き物にしか思えませんでしたから」
「……そうか、気持ち悪かったのか……」
何気に傷つくレオポルトだった。ベアトリクスは大きく頷いた。
「何しろ、マリエッテ嬢や側近の方とご一緒に庭園のオオブタクサで花冠を作る、ドライアの木から実をもぎ取って食べる、ミンテの群生に寝転がるということをされていましたから」
どれもが香りがきつく避けていた植物だらけだ。レオポルトにしてみれば汚物入れに顔を突っ込むのに等しい行動だった。
よろめく彼にベアトリクスがハンカチを差し出した。
「大丈夫ですか、殿下。はい、スーハー」
心から安心できる香りを全身に行き渡らせ、ようやく王子は精神の均衡を取り戻した。
微笑んでいた侯爵令嬢が何かを言いかけたが口をつぐんだ。それを察知し、レオポルトは尋ねた。
「何か?」
「……あ、いえ。ただ、マリエッテ嬢が殿下を親しげに『レオ様』と呼んでいたのを思い出して、……その、少し羨ましいと……」
視線を泳がせ目元を赤く染めて言い募る婚約者の姿に、レオポルトの口元が綻んだ。彼は愛しい者の頬に手を添え囁いた。
「好きに呼んでくれて構わないよ、君の特権だ」
「…レオポルト…様……」
小さな声に誘われるように顔を寄せる二人だったが、非常に申し訳なさそうな侍従が来客を告げた。
「申し訳ございません、殿下。実は、警務大臣閣下が謁見を求められています。火急の用件であると」
国内の治安を預かる要人の急用だ。無視することもできず、王子は部屋に通した。
警務大臣は丁寧な謝罪をした。
「非礼をお詫びします、殿下」
「いや、重要事項なのだろう?」
「実は……」
振り向き部下を促した警務大臣は何かを運び込ませた。同じ形、大きさの小さな容器の山が出来るのを横目に、彼は苦悩を滲ませながら語った。
「殿下が見事に違法薬物を摘発していただき、捜査は一気に進みました。ただ、薬物密輸の関与を決定づける証拠物件に問題が……」
「これは押収した証拠ではないのか?」
封印された金属製の容器はどう見ても件の証拠に思える。警務大臣は途方に暮れた顔をした。
「その、押収したまではよかったのですが、一時保管用の棚が崩れて証拠が大散乱し、どれがどの現場のものか分からない有様でして……」
「…災難だったな」
既に嫌な予感に駆られているレオポルトは硬い笑顔を貼り付けた。警務大臣は大汗をかきながら頷いた。
「全て同型の保管容器を使っていた上にラベル貼りの直前で、このままでは裁判で使えなくなる恐れがありまして、残る手段は殿下の優れた嗅覚にお縋りするしかなく……。あ、こちらがサンプルです」
つまりサンプルと同じ薬物を嗅ぎ分け分別しろと言うことだ。その間にも様々な薬物の容器が続々とテーブルに置かれていく。蓋を閉じていても違法薬物の禍々しい異臭が立ちのぼってくるようだ。
卒倒寸前状態の王子に優しい婚約者がすぐさまハンカチを差し出した。そしてそっと囁くのだった。
「お気を確かに、レオポルト様。はい、スーハー」
〈END〉
読んでくださって有難うございます。
この国は可及的速やかに警察犬の育成と運用のノウハウを導入するべきだと思う。