正義を絶対化する危険性
ショーペンハウアーの哲学においては、悪と善は同じ実体から現れてきている。それは「意志」であり、意志とは欲望の概念を広義にしたものと考えてもらえればとりあえずいいと思う。
悪と善がどうして同じものの派生体にすぎないのか。悪とは己の欲望が拡大し、他人の欲望を侵害するようになった状態である。他者の欲望の可能性を犠牲にして、自分の欲望を実現しようとする。ここに悪の本質がある。
それでは善とは何か。善とは、悪を打ち消す行為である。クッパがピーチ姫をさらう。ピーチ姫の意志に反している限り、これは悪だ。ピーチ姫を取り返すのがマリオで、これが善の行為にあたる。ピーチ姫が、実はクッパに惚れていて、クッパに自分を攫うよう仕向けていない限りは、マリオの行為は善になる。(あまりにもしょっちゅうピーチ姫が攫われるので、何か裏があるんじゃないかと勘ぐりたくなるが…まあ、それはいい)
悪と善はこのようにして、同じ欲望から現れているというのがショーペンハウアーの見立てだった。悪は他者を侵害し、自分の欲望を満たそうとする。それに対して、各々は自分の欲望の充足を守る権利がある。もちろん、他者の欲望を侵害しない限りにおいて。ここに、他者との欲望の均衡関係が存在する。
だから実際には平和で安全な社会というのは、みなが善人であるのではなく、欲望が均衡している状態だと言った方がいいだろう。というより、仮に万人が悪人であると想定した所で、実際に悪を成さない限りは平和な社会を構成するのは可能だ。頭の中ではあらゆる悪を成すのも辞さない、と誰しもが考えているとする。例えそうだとしても、彼らが、悪を成した所で結局自分の得にはならない、と冷徹に計算して、悪を成さないなら、それは十分平和な社会であるだろう。
こうした考察は、ショーペンハウアー自身が徹底的にやっているので、これ以上、私が下手にやっても仕方ない。私が「意志と表象としての世界」を読みながら思い浮かべたのは、現代に蔓延している通俗な物の考え方、通俗小説、通俗映画の類についてだった。
現代は通俗バンザイの世界となっている。なぜなら、それは大衆の嗜好に合うからだ。それでは通俗的なものの考え方とは何か。この文章の文脈で考えるなら、善と悪はまるっきり違う存在だと考えるのは通俗的と言える。実例は出せばキリがない。子供が好きな仮面ライダーとか、勧善懲悪型のストーリーの様々なゲーム、映画。要するに、エンタメ系のほとんどのものにこうした考え方は染み渡っている。
この考え方はフィクションのみに限らず、現実にも応用されている。犯罪者は健常で正しい一般市民とは違う異常者だ。この異常者をみんなで叩く事、また日常会話で「あの人は頭がおかしかったらしいよ」などと言う事。そうした事は、それを叩いている「我々」は正常だという自信を持たせてくれる。そういう自己肯定が背後には滲んでいる。
ここでは善と悪、白と黒ははっきり区別されている。ここで特徴的な事は、その二つは『全然違うもの』だと思われている事だ。我々は、異常な殺人者を我が事と考えてみたりはしない。異常者というのは、自分達は違う次元の存在だ。この『次元が違う』という事に重要性がある。段階的な差異ではなく、全く、違う世界の存在だと我々は考えたがっている。
公平を期す為に、私自身について振り返ってみると、私は小学校低学年の頃は、善悪どちらかに分けるのが大好きだった。私は、映画などを見ていて新しいキャラクターが出てくる度に母親に向かって「いいもん? わるもん?」と聞いたものだった。母親がどんな風に答えていたかは覚えていないが、当時の世界観では、世界はきっぱり白と黒に分かれるものだと私は考えていた。現れる人は「いいもん」か「わるもん」のどちらかしか考えられなかった。この区別が崩れてくる事から、大人の認識が始まってくる。
そういう私の思い出からも、世界のあらゆるものを「良い」か「悪いか」に区別するのは、子供の世界観、子供の認識だという気もする。だが、こうした考え方は危険である。自分は「いいもん」だと思っていたら、ある時、急に「わるもん」に変わっている。そういう変転に落ち込む可能性がある。そしてその変化を防ぐ思考法は通俗的な物の考え方の中には存在しない。今から述べたいのはその事だ。
ショーペンハウアーに戻って考えてみよう。悪は、他人の欲望を害して、自分の欲望を実現する事だ、と彼は定義していた。一方、善とは、悪を打ち消して、各々の権利を守る事だ。各々の権利もまた欲望から生まれている。それはそれぞれに社会的に許された欲望充足である。
善と悪はそのように、同じ欲望から派生している。それでは通俗的な考え方というのはどうなっているだろうか。通俗的な考え方は自分達を「善」として、相手方を「悪」とする。ここで善と悪は次元の違うものとみなされる。敵と自分達は全く違う存在とされる。
この時、相手が自分達の権利を侵害しようとして、それを守る限りは「善」である。逆に、こちらが相手の権利を侵害しようとするならそれはこちらが「悪」となる。だがこの線引きは普通考えられている以上に、難しい。正当防衛はどの程度なら成り立つのか、という問題とも関わってくる。強盗犯を撲殺するのは善か悪か、となると話は難しい。
ところが、通俗的な考え方で行くならば、自分達は相手と違う存在であるし、相手が犯した悪に対しては徹底的な復讐は許される、そういう考え方が現れてくるだろう。万引き犯を撲殺したとしても、それを正当化する理論はいくらでも出てくる。その根源には相手と自分は決定的に違う存在だ、と最初に引かれた一本の線がある。
通俗的な作品においては、悪と善は同じ暴力を行使しているのに、それらは全く異質なものとして描かれる。善というのは、悪を打ち消す行為に過ぎないので、使っている暴力は悪と同じである。実際の戦争でも、最初に大義名分を掲げて戦闘行為に挑んでも、知らず知らず、敵ではない民間人を殺してしまったりする。
この事も、人は、指揮官のミスのせいだとか、ミサイルの性能のせいだとか言うのであろうが、根底的には悪と善は同じ暴力という力を使っているので、悪を打ち消そうとする行為がやりすぎて、かえって悪になるというのはあり得る事としか言えない。
通俗作品では、悪を懲らしめる描写は抽象的に描かれる。悪人を拷問したり、悪人の首を絞めて殺すシーンをリアルに描いたら、観客に嫌な気持ちを起こさせてしまう。だから、悪を懲らしめるシーンは、観客にそれとわかるような描き方をするだけで、リアルな暴力を描いたりしない。リアルに描いてしまえば、善も悪と同じ暴力という力を使っているのが観客に知れてしまうので、そんな描写は適当に省いてしまう。
一方で、通俗映画とは反対の作品もある。例えばレフンの「ドライヴ」だ。主人公は、襲ってくる刺客を返り討ちにするが、刺客を殺す際に、何度も執拗に顔を踏みつけ、相手の顔面をグシャグシャにしてしまう。これに一緒にいたヒロインは心中引いてしまって、それ以来、二人の心が一つになる事はない。この映画は通俗作品とは違い、善であろうとする人間も暴力の渦に巻き込まれ、自分自身も暴力に倒れる、という人間の宿命を描いている。
善と悪は同じ暴力という力を使っている。善人が、全く正しい動機で、悪人を打ち倒すとしても、悪人の内蔵が飛び散った様を見せられたり、悪人の家族が嘆き悲しんでいる様を見せさられたりしたら、我々は嫌な気持ちになる。エンタメ作品は、我々に嫌な気持ちを起こさせない為にそうした真実には目を瞑る。そして世界は丸く、平らにできているような印象をもたらそうとする。
繰り返し言うが、悪と善は同じものから現れてきている。自分達は善であり、相手は悪であり、それは全く違う存在だと考えた時、果たしてどの程度が自分達にとって正当なのか? その線をどうして決めるのか? それに関しては、明確な線引はほとんどない。過去の集団的犯罪は、その内部においては絶対的な正義として流通していた。
加害者意識は被害者意識と共に現れてくる。「自分達は割を食っている」 この思考は相手に対する加害を許してしまう。自分達が損をしている、損なわれている、と考える事は相手に対する加害を正当化する。しかし、自分達がはたして本当に損なわれているかどうかを俯瞰的に見る視点は、自分達を絶対化する視野の中には存在しない。どこからが正義でどこまでが悪なのか、誰にもかわらない。だが、自分達は正義だ、善だという符牒だけが通用する。
この関係を哲学的に考えてみよう。善と悪の対立軸を立てて、自分達を善と規定するとする。この時、善と悪、自分達と敵との関係を第三者の視点から見る視点は存在しない。両者を俯瞰で眺める視点がない。つまらない人物に限って、自分のつまらない話をさも面白いかのように語るわけだが、彼にとってはそれは「面白い話」なのである。彼は、他人と自分の話の違いを考える視点がないので、いつまでもどこまでもくだらない話に酔い痴れていられる。
ショーペンハウアーの観点に戻るなら、意志(欲望)というのが、第三者的視点である。善と悪を貫く、意志というものが見える時、善が悪になり、悪が善に変わったとしても、それを二者の『関係』として捉えられる。自分達を善だと絶対的に考えるなら、相手と自分の『関係』は見えてこない。相手と自分との関係を見る為には、相手でも自分でもない第三の立脚点が必要だ。
この立脚点がないのが通俗なものの見方であり、また非常にわかりやすい考え方だ。それは自分を善として、相手を悪とする。その差異は絶対的であり、破れないものに設定されている。エンタメ作品は繰り返し、そういう作品を映し続ける。「君の名は。」のような作品には善と悪の関係はないように思われるかもれないが、あの作品では、主人公とヒロインは「選ばれた人間」でありそれ以外は「モブキャラ」でしかない。この文章の範囲を超えるが、こうした特別ー非特別という関係の設定も、通俗的な考え方の一つであり、これもまた真実とは程遠い。
この文章のタイトルに戻るならば、正義を絶対化する危険性は何か、という事になる。それは、悪を絶対化する可能性だ。正義を一度絶対化したならば、その正しさを外側から見る視点は失われる。他の誰かの権利を侵害したとしても、その誰かは「誰か」の名に値しない、すなわち、自分とは同格の人間ではないという見方になる。こうなると正義も糞もなくなり、ただ欲望が拡大していく一方だ。だが欲望はそれぞれに矛盾し合うので、やがて自己分裂し、瓦解していく。
正義を絶対化する危険性とは、正義を相対化する視点がなくなり、それが悪になっても気づかない、という事に尽きる。もっと正確に言えば、純然たる正義というものはそもそも存在しない。にも関わらず、我々は何らかの幻想を負っていない限り、百パーセントの力を発揮できないので、そういうものを無理に作ろうとする。
エンタメ作品においては、正義の側の勝利、善の勝利、恋人同士の結ばれる地点で作品は終わるが、芸術的な作品はそこがむしろ作品のスタートとなる。善と思っていたものの敗北、絶対的と思っていたものがそうでなかった事がわかる、歓喜のはずの恋愛が失望に終わるなど。芸術作品は認識としての作品を形作るが、エンタメ作品は幻想としての作品を形作る。
今はエンタメ作品全盛の時代だが、この幻想は進んでいく現実と共に破れていく。そしてそれが破綻しきった時、ささやかながらも真実を述べる芸術作品が現れるだろう。芸術は真実を写すものだが、真実がいつも人間に心地よいとは限らない。それでも真実を映し出す事に人間の矜持がある。心地よさを求めるのなら、どんな動物だってやっている。