3.咒鹿
……何かくる。
山の奥からやってくる何かに胸騒ぎがする。何かこう、魔獣と言ってもハクのような他の魔獣たちとは少し異なるような気配が。
他の面々も気配に気づいたのか、場にピリピリとした緊張感が走り、全員が気配のする方を見た。
コト……コト……。
ゆっくりと歩み寄って来たそれは静かに姿を表した。
「咒鹿……だと……!?」
ロシュが絞り出したような声で、魔獣を見て咒鹿と口にした。
「シュ、カ……?」
通常の魔鹿の倍はありそうな見たことがないほど大きく立派な角。
そして何より、見覚えのある真っ白な毛並みと青い瞳。
この鹿は多分、ハクと同じ魔を統べる側のものなのだろう。この辺りの主なのかも知れない。
ハクと同じように、魔獣の中でも圧倒的な力を持っている個体、神獣。それらは、魔を統べ魔を守るのだと。対峙したところで人間など到底勝てはしない程の力を持っている魔獣なのだと。
「なんでこんなところにっ! くそっ! ……ビット、ディケ! 急いで逃げるぞ! ガキも荷物も置いていけ、足手まといだ! 動ける奴は動けない奴に手を貸せ! 咒鹿に追われたら全員命はないぞ!」
矢継ぎ早に仲間たちに支持をだし、ロシュたちは咒鹿と距離をとり逃げて行く。
「ユーリ、お前も逃げろ! 私はあの子供を助けてから行く!」
そして、盗賊団とは別に騎士団の黒髪の人が声を荒げる。
「バカ言うな! 一人じゃ危険だ!」
「神獣相手に勝ち目などない!だが、騎士として子どもを放って逃げるわけにも行かないだろう。交戦になる前にあの子を救出したら私もすぐに逃げる。わからったら早く行け!」
「だったら俺も! 俺はお前を守るのが仕事だ!」
「咒鹿が現れた情報を確実に持ち帰る必要がある事くらいわかるだろう!」
緊迫した会話から察するに、今この状況が何かまずい状況なのは理解できた。けれど、木に鎖ごと繋がれている私は動きようもなく、静かに悠然とそこに立っている咒鹿に一番近い場所にいた。
私は、咒鹿を見てある事にハッとした。
「待って! あっちの幌馬車の中に子鹿が檻に入れられてるの! あの子達を探しているのかも知れない!」
どうあがいても私の力では短剣は木から抜けなくて、未だ咒鹿と向かい合っている騎士団の二人に向かって叫んだ。
「なんだと! ……ユーリ!」
「わかった!」
すぐにユーリが、咒鹿から距離を取りつつ馬車の方へ向かって行く。それと同時に、残った名前のわからない男が剣を構えて咒鹿を見ながら私の方へじりじりと近寄ってくる。
「今助ける」
そう言って、男は木に突き刺さっている短剣を咒鹿の方を見たまま軽々と抜いた。
「剣をむけてどうするの?」
「神獣相手に人が勝つなど無理だ。だが、君の事は守る。私の後ろから絶対に動かないように」
咒鹿からの攻撃対象にならないよう、剣を構えたままの背に庇われ、黒く艶のある長い髪が目の前で揺れる。
咒鹿はゆっくりとこちらに顔を向け、何かを静かに探るような目でこちらを見ていた。
「やっぱり、子どもを探してるんだ」
トコトコトコ……。
じりじりとした緊張感の中、先ほどの子鹿たちが背後から走ってくるのがわかった。どうやらユーリが無事に檻から解放してくれたようだ。
三匹とも足に怪我をしていたけれど、しっかりとした足取りだ。薬が役に立ったようで、よかった。
自分の元へと戻って来た子鹿たちを確認するように咒鹿が顔を寄せている。
けれど、子鹿の怪我を見て咒鹿の目の色が文字通り変わった。あれは、魔獣が怒りを表した時の赤い目だ。
まずい……! そう思った時には、もう遅かった。
カッ!
ドサッ……パタッ……。
咒鹿が急激な砕覇を放って来たのだ。
砕覇は、魔力を放ち敵を威嚇、牽制する技だけれど、魔力差によっては相手を威圧し気絶、場合によっては殺すこともできる。
目の前の男は苦しそうに胸を押さえ片膝をつき、子鹿を解放して戻って来ていたユーリは私の背後で意識を失い倒れていた。
「くっ……」
砕覇を放ったまま、一歩一歩と咒鹿がこちらへゆっくり歩いてくる。この魔力量で、この砕覇。このまま距離を詰められれば、目の前の男は確実に死んでしまうだろう。
騎士団というものが敵か味方かはわからない。けれど、理由はわからないにせよ、この人は助けると言って私を咒鹿から守ろうとしてくれた。その、事実がひとつ。この人は多分大丈夫。悩んでいる暇はない。
……マオ、ハク、守るために使うよ。
「待って!」
私は膝をついて苦しそうにしている男の前に立ち、咒鹿を見た。少しは彼に対する砕覇の影響が防げるはずだ。
「何を、して……」
すぐ後ろから苦しそうな声が聞こえてくる。
咒鹿の歩みは止まらないままで、私はもう一歩強く前へ踏み出した。
「それ以上はダメ。騒がしくしてごめんなさい。だけど、その子たちを攫ったのも、怪我をさせたのもこの人たちじゃない」
怒りが治らないのか、咒鹿はさらに砕覇を強め私を見てきた。
私は仕方なく、自分の内側にある魔力を少しだけ解放した。
「ダメ。この人たちを傷つけてはいけない。私もあなたを傷つけたくない」
少しだけ解放した魔力を咒鹿に向ける。
すると、何かに気がついた咒鹿が目を見開き、砕覇をやめてくれた。
私も魔力を向けるのをやめると、子鹿たちが近寄って来てペロペロと手を舐めてくる。
「歩けるようで良かった。傷は問題ないみたいね。しばらくすればすぐ良くなるよ」
私は三匹の怪我の状態をもう一度見てから、未だ手枷がついたままの手で子鹿たちを撫でる。
すると、怒りの赤い目ではなく大きな青い瞳に戻った咒鹿が触れる距離までやってきた。
「すぐ逃げなさい! それに触れてはいけない!」
後ろから苦しそうな声で男が叫んだけれど、あの人はまだ動けないのだろう。
咒鹿は私の顔をじっと見た後、私の手枷に口をつけた。
すると、ファン! と手枷が霧散した。え……と驚いているうちに首の枷もなくなっていた。
そして、咒鹿が枷で擦れて赤くなった場所と、ロシュに殴られた頬にも口をつけると、みるみる間に痛みが引いた。
「すごい! ……痛くない! ありがとう、咒鹿!」
私は咒鹿に抱きついた。
『我は、ルーシュ。この山脈を治めるもの。我らの子どもたちを助けてくれてありがとう。助けが必要な時はいつでも我を呼ぶがいい。その胸のものに代わりに其方を助けよう』
「あなた、ハクを知ってるの?」
『さてな。けれど、強き思いは石へ還ろうとも変わらぬものだ』
私はポケットからハクの魔石を取り出した。
『それは大事に持っておいで。他の誰にも渡してはいけないよ。それより姫、いつでも呼べば良いと言ったが、森で生きるならば我らとともに来るか? もう守ってくれるものもいないのだろう?』
「ううん。森へ帰らなくちゃ。ジジ様が心配する。それと、私の名前はシロ。姫じゃない」
『ジジ……そうか。シロ、理の外で生きることは簡単ではない。其方がこちらへ来たくなった時はいつでも歓迎しよう』
「ありがとう、ルーシュ。それと、あの……ううん。すぐに私たちもここから立ち去るわ。騒がせてしまって本当にごめんなさい。あなたたちも誰か来てしまう前に行って」
あの首だけになっていた鹿のことを伝えようとしたけれど、どう伝えればいいのかも、伝えたところでもう戻ってはこない命のことを伝える意味があるのかもわからず、言いかけてやめた。
山の奥へと去っていく咒鹿と子鹿たちを手を振って見送り、私はふぅ、と息を吐いた。
ドクン……ドクンッ……。
……あーこれやっちゃたかな。
先ほど解放した魔力が収まりきらずに身体を駆け巡り気持ちが悪い。
冷や汗と浅い呼吸に私はその場にへたり込んだ。
「君、大丈夫か」
「へい、き……」
すぐ後ろにいた彼が、多少動けるようになったのか駆け寄り声をかけてくる。
「ゆっくり大きく息をしなさい」
「ふたりとも、大、丈夫?」
「心配ない」
背中を撫でる手が、何故かハクのそれと重なり彼を見上げた。
「大丈夫。君のおかげで助かった」
「ハークハイト!」
「ほら、ユーリも無事だ」
ユーリも意識が戻ったようで声がした。
ブーン……。
けれど、私の意識は低い耳鳴りとともにめぐる気分の悪さにのまれていく。
「よか、った……」
無意識にハークハイトと呼ばれた彼の服を掴み、私は意識を手放した。
神獣 咒鹿 の登場ですね。
もののけ姫をこよなく愛する作者的にはテンションだだ上がりシーンでした。