186.心の支え
「はぁ……はぁ……」
しばらくルーシュが走ってくれて、身を隠せる茂みへと移動した。
痛みで無理矢理に意識を引っ張り上げているせいか、呼吸が落ち着かない。
『大丈夫か』
「……うん」
『見ない間に随分痩せたな』
拒食による意思表明からしばらくまともにご飯を食べていない。
息が切れるのはそれも原因だろう。
合成獣たちを止めるために次の手を考えなくちゃいけないのに、頭が働かない。
――ノア。
イリヤとナチは確実に私を呼んでいる。
何かを盛られたのは確かだけど、私がイリヤたちに逆らえないのはそれだけじゃない。
『シロ、寒いのか? 震えている』
お皿の破片を握りしめる私を抱え込む様に、ルーシュは膝を折り私に寄り添った。
でも、寒い訳じゃない。
イリヤとナチの声が私の耳へ届くたび、落ちて行きそうな意識の中で研究所にいた頃の幼い記憶がフラッシュバックするんだ。
苦しくて痛くて、悲しくて怖かった日々が。
研究所の人間たちの言うことを聞かないとどうなるか、身体が覚えているから。身体が震えてしまう。
私は、さらに強く右手を握り込んだ。
『シロ、落ち着け。私がいれば安全だ』
頬を寄せるルーシュの鼻息が髪を遊んで、懐かしいハクの温もりを思い出すと、大丈夫だと分かっていても一層孤独が私を支配しようと押し寄せてくる。
だが、孤独に飲み込まれる前に事態はまた動き出した。
――ガサガサ……。
『誰だ!』
――ガサッ! ガサガサガサ!
茂みが揺れ、ルーシュが即座に立ち上がり私を背に隠すと、再び茂みが激しく揺れ、ぴょこりと知った顔が飛び出して来た。
「ワフッ!」
「カ、オ……?」
だが、茂みから顔を出し私と目が合うと、カオは後ろへと下がりどこかへと行ってしまった。
『仲間が迎えに来たようだな』
「なか、ま……?」
王宮から魔狼たちが私を探しにメテルキアまで来てくれたのだろうか。
巻き込みたくないと思って、ハークハイトに託して来たのに……。
でも、ハークハイトに魔狼たちの面倒を見る義務はない。
手放したとしても文句は言えないし、当然のことの様にも思える。
「シロ!」
カオがどこかへ行ってしまい、他の魔狼たちを呼びに行っているのだろうと待っていると、思ってもいなかった声が私の名前を呼んだ。
「……なん、で?」
来るはずないと思っていた人物に、私は無意識に立ち上がっていた。
「……ぁ!」
だが、彼が私の元へと来る前によたよたと数歩歩いた私は躓いて地面に膝をつけた。
早く立たなくちゃ。そう思い、顔を上げた瞬間、私はその人に抱きしめられていた。
「やっと、見つけた……!」
「ハーク、ハイト……」
どうしてここに?
そう聞きたいのに、私の目からは大粒の涙が零れ落ちた。
自ら手放してしまったこの温もりを、どれだけ恋しく思っていただろう。
艶のある黒い髪に、綺麗な顔。私をよく叱りながらも、甘く優しい落ち着いた低い声。
そう長い間離れていた訳じゃないのに、もう何年も会っていないみたいに感じた。
「無事で良かった」
「ごめん、なさい……!」
そして、ハークハイトの心底安心した様な声に、私は声を上げて泣いた――。
しばらく泣くだけ泣いて、少し落ち着いたところで急にハークハイトに身体を引き離された。
「君、怪我は!」
「大、丈夫。して、ないよ」
さっき躓いた時のことを言っているのだろうと、私は右手を背に隠した。
「そんなわけあるか! その服、血だらけだぞ」
「え? こ、これは……」
ハークハイトたちが来るまで胸の前で右手を握り込んでいたせいか服の胸とお腹の辺りが血でがっつり汚れてしまっていた。
「本、当に……大丈夫、だから……」
「何を隠している」
「隠して、なんか」
その時、背に隠した右手の拳にカオがすんすんと鼻を近づけた。
私の血は生物にとっての毒。万が一カオが舐めでもしたら大変だ。
「あっ!」
私は、反射的に手をカオから遠ざけようとして、前に出してしまった。
「手から血が出ているではないか」
「触らないで……!」
私はとっさに左手で右手を覆い、自分の方へと引き寄せた。
「シロ、もう怯えなくて良い」
「ダ、メ……! こう、してないと……!」
だけど、ハークハイトは私の血に触れることが怖くないのか、私の手に自らの手を重ね、左手を外すとそっと右手をとった。
「私は、そんなに頼りないか?」
「ち、違っ……!」
ハークハイトを頼りないと思ったことなんて一度もない。
だけど、この痛みを手放すのが怖い。取り返しのつかない事態にあるのではないかと、怖い。
私の右手はもう、自分の意思でさえ開けない程強く握られ震えていた。
「……君がいなくなって、私は心底君との未来を見ていたのだと思い知った」
「……?」
私の右手に自分の手を重ねたハークハイトは、手を離すことなく、そのまま私の肩におでこを乗せた。
「私は、領主ルキシウスの弟として、従順な騎士として、ずっと生きていくのだと思っていた。それが嫌だと思っていた訳でもない。……だが、いつか君と学問の道に邁進できたらと言う夢をいつの間にか見ていた。そんな日が来るのなら、私は、自らの運命から逃れ自由になれるのかも知れないと」
それは、初めて聞くハークハイトの本音だった。
「だと言うのに、肝心の君がいなくては何の意味もないではないか。……私をおいて行くな」
迷子の子どもの様な寂しさを含んだハークハイトの声に、私は肩に乗る頭をそっと左手で撫でた。
すると、しばらくしてハークハイトは小さく息を吐き顔を上げた。
「約束する。何があっても、私が君を守ると誓おう」
「ハーク、ハイト……?」
「君が助けたいと願ったものも、私が一緒に守ろう。だから、痛みに身を預けなくて良い。こんなに小さな手で、全て自分で守ろうとしなくて良い」
「でも……!」
「シロ。私を信じろ」
真っ直ぐに向けられたハークハイトの視線と言葉に、コクリと頷くとハークハイトは私の右手をそっと開いた。
さっきまで強く握られていた手の力が、自分でも信じられない程簡単に解けた。
「ヤヤ、バッグを持って来てくれ!」
「ワフッ!」
血だらけの私の手を見て、ハークハイトがヤヤを呼んだことで、私は初めてヤヤもそこにいたことに気付いた。
きっと、ハークハイトやカオと一緒に私を探してくれたのだろう。
そして、ヤヤは首にかけた私のバッグをハークハイトに渡すと私の涙に濡れた頬をぺろりと舐め、わざわざ私の背の後ろで伏せた。
「ヤヤ……?」
「寄りかかっても良いと言っているんじゃないか」
「そう、なの?」
そう聞くと、ヤヤは首を伸ばし顔を近づけると、私の頬に鼻をつけた。
良い時は近づき、ダメな時は離れる。それが魔狼たちの合図だ。
私は、ハークハイトが右手に薬を塗って包帯を巻いている間、ヤヤに寄りかかった。
「ハークハイト……」
「どうした」
「ごめんね。王宮での、こと……」
「全くだ」
「怒っ、てる……?」
「当たり前だ」
ずっと心に引っかかっていたことを、もう一度ちゃんと謝罪するとハークハイトは感情の読み取れない声で淡々と答えた。
「……だが、君があの様な行動に出た理由は理解しているつもりだ。私は、また君に助けられた」
手の包帯を巻き終えたハークハイトは、自分の手に着いた血を布でふき取ると、私の顔に触れた。
「ありがとう、シロ」
そう付け足す声は、穏やかで優しかった。
「それと、これを君に返しておこう」
「ハク……」
胸のポケットから取り出したハクの魔石をハークハイトは私の首にかけた。
私は、ハクの魔石を握り、心の中でごめんねと謝った。
「咒鹿。シロを見つけた時の状況を教えていただけますか」
ルーシュに経緯を訪ねているハークハイトの声を聞きながらハクの魔石を見つめていた私は、気付けば意識を手放していた。
誰かの話し声がして目を覚ますと、私はまだヤヤに寄りかかったままだった。
「シロ! 目が覚めたか!」
どれくらい眠ってしまったのだろうと視線を動かすと、私の顔を覗き込む影で視界が暗くなった。
「マ……オ……?」
「おう。やっと直接会えたな!」
会えるはずのない人物が突然目の前に現れ、私は飛び起きた。
「本当に、マオ?」
「おいおい、俺の顔忘れたのか?」
「……~~~~っ! マオっ!」
私は、あまりの嬉しさに目の前の人物に抱き着いた。
「マオ! マオっ!」
「悪かったな。長い間一人にさせちまって」
「生きててよかった……!」
久々に抱き合ったマオは、あの頃より随分痩せてしまったけど、私の背を叩く手の温もりは何も変わっていなかった。
説明入れてませんが……
シロの涙でハークハイトとシロが植物で覆われなかったのは後ろでルーシュが力を使って抑えてくれたおかげです。
ルーシュを登場させると、奈良に行きたくなります。




