182.まだやれること
目を覚ますと、見慣れた天井が目に入った。
魔力を通さないと言う特殊な素材で作られた少し灰色がかった部屋の壁と天井の色。
真っ白な壁と天井に、窓から朝陽が差し込み目を覚ますハークハイトの家とは大違いだ。
「私……っ!」
なんで寝てるんだっけと身体を起こそうとすると、酷く頭が痛んだ。
ギシッと鳴る寝台の軋みさえガンガンと頭に響く。
「そうだ……」
頭の響きに、イリヤに連れられて行った部屋でのことを思い出した。
あまりの負荷に私は意識を失ったのだろう。
無数の合成獣の負の感情はあまりに激しく、あれが世に放たれたらと思うとゾッとする。
そして、あの時自分の心が支配された様な感覚を思い出し、身体が震えた。
「大丈夫。大丈夫……」
震えの止まらない身体をさすり、そう何度も口に出し膝を抱えた。
さっきの感情はあくまでも合成獣のもので、自分の感情で決してない。私は、言い聞かせる様に言葉を吐き出し、自分の中にあるフェリジヤの思い出を辿った。
記憶の中のフェリジヤは楽しく、みんなの笑顔ばかりだ。恨みつらみの感情なんてありはしない。
「ハークハイト……」
けれど、思い出を辿れば辿るほど、会いたい気持ちが強くなってしまった。
孤独に涙が出そうになり、布団に顔を埋めた。
無機質で何もないこの部屋の中で、寝台の布団だけが私を受け止めてくれる。
似ても似つかない温もりだと言うのに、まるでハークハイトみたいだと思った。
――恐れは人を強くし、また絶望させる。恐怖を心に飼い慣らせ。自らを弱者と知り、自らを鍛え、自らの叡智を磨き、今日と言う日の全てを己の血肉とせよ。
泣きそうになりながらも思い出を辿っていると、ふとハークハイトが教えてくれたメテルキアの言葉を思い出した。
あの時、ハークハイトは私が諦めなかったからヤッカニウムの解毒薬を見つけることができたと言ってくれた。
少しずつでも進んでいると。決して止まってなどいないと。
諦めちゃダメだ。
「ふぅ……」
私は、大きく深呼吸をした。
考えよう。
バッグもなく、助けを求められる相手もいない。それでも、まだできることはあるはずだ。
マオを助けて、イリヤたちの計画を阻止する。そうすれば、フェリジヤやメテルキアのみんなのことだって助けられる。
そのためにはまず、マオとの再会を果たしたい。
部屋からは簡単には出られないし、私が言うことを聞かなければマオが危険に晒される可能性もある。
この部屋でイリヤやナチとすぐに撤回できる様なギリギリのラインで交渉できること――。
――ガシャン。
「ノア。食事の時間だ」
その時、イリヤの元へと私を連れて行った男が食事を持って来た。
返事も聞かず鍵を開けてずかずかとレディーの部屋に入る男に、私がレーナかミラなら拳の一つも浴びせているのだろうとくだらないことを考えてしまった。
「……体調に問題はない様だな」
男は、寝台の横の机に食事を置くと、しばらく私を見つめてそう言った。
そして、寝台に咲いた花をむしると部屋から出て行った。
「やっぱり、何にも変わってないなぁ……」
ここの人間は私と会話をしようとしない。
そして、この栄養だけが考えられた美味しくない、もそもそとした四角と丸の固形の食事。
誰かと楽しく囲む食卓なら、食事が不味くても我慢できる。けど、一人で寂しい時や不安な時は美味しい食事が心を満たす。
もしもここを出られたのなら、騎士団の携帯食の味の改良レシピを本気で考えてみよう。
あんな最後で、ハークハイトにはもう迎え入れてもらえないかも知れないけど、それでも私が生きる場所はここじゃない。
森を出て、学んだことは山ほどあるし、勇気や強さももらった。
大丈夫。
「よし!」
私は、誰もいない部屋で小さく拳を握り気合を入れた。
そして、出された食事には手も触れず、寝台の隅で膝を抱え直した。
それから三日。
私は、研究所で出される食事の一切を拒んだ。
生物はある程度の期間なら水さえ飲んでおけば生きていける。お腹が空いたと思うこともあるけど、幸いここで出る食事は全てあの固形食なので食べたい気持ちにはならない。
「ノア。今日こそ食べなさい」
「マオに会わせて……」
そして、食事を持ってくる人間に、ただマオに会わせろとだけ訴え続けた。
合成獣の部屋に連れて行かれて以降、寝台の隅で膝を抱え、何もかもに絶望した様に弱々しく食事さえ喉を通らない、そんな風に。
食事をとらなければマオに危害を加えるぞと言われたら一口かじれば良いと思っていたが、想像に反してマオのことは持ち出されなかった。
今はまだ彼らが、この交渉を聞いてくれるかはわからない。だけど、彼らの計画にとって私が死ぬことは許されないのだとすれば、拒食は十分な交渉材料になるはずだ。
少しずつ、自分の身体に力が入っていかなくなっているのを感じるけれど、あと数日は持つだろう。
何もなくたって、この身一つでやれることはやってみよう。
それからさらに数日。
身体を起こすのもつらくなり、頭も働かなくなってきた。
もう拒食をしてから何日経ったかもわからない。
それでも耐えられるのは、ここでもっと酷い経験をしたからかも知れない。
「ノア。食べなければ死ぬ」
「マオに会わせて……」
「無理矢理口に入れることもできるのだぞ」
「マオに会いたい。マオ……」
無理矢理身体を起こされれば、抵抗できるだけの力はない。私は横を向いていた体勢からうつ伏せになり、布団に顔を埋めた。
すると、頭上で小さなため息が聞こえた。
だが、無理に食べさせられることはなく、食事を運んできた人間が部屋から出て行く音がした。
私の状態はイリヤやナチも把握しているはず。
だと言うのに、向こうからの反応はまるでない。
できるものならやって見ろと言うことだろうか。それとも、何か策でもあるのだろうか……。
この先どうするべきかを考えたいのに、頭が働かない。
そして、布団に顔を埋めたまま私の意識は遠のいた――。
次に目を覚ますと、私は誰かに抱えられ部屋の外にいた。
「目を覚ましたか」
「ナチ……?」
私を抱えている男の肩にはナチがとまっていた。
「たかだかマオのために命をかけるとはな」
「何年も、マオに、会えてないの……。それくらい、良いでしょ」
喋ろうとすると息が切れる。
とぎれとぎれに話す私に、ナチははぁとため息をついた。
「今更マオに会って入れ知恵をされたところで、計画は止まらない。覚えておけ」
「好きな人に、会いたいって、思った、だけだよ」
「好きな人、か……。お前にとってかけがえのない者は、まだ生きているんだな」
ナチの言葉は、きっと死んだユチを思い出してのことなのだろう。
「ナチ……」
「着いたぞ」
ユチは私の中で生きていると伝えようとしたその時、男の足が止まった。
そして、自分で立てと腕から降ろされた。
だが、何日も拒食をしていた私の足は震え、自分の身体が以前の何倍もの重さになった様に感じた。
倒れそうになる身体を支えようと、男の服を掴んだが、男は何も言わなかった。
「シロ。その根性に免じてしばらく時間をやる。最後の別れを済ませろ」
男の肩からナチの声が聞こえて来るけれど、私にはもう顔を上げる力はない。
それでも、目の前の扉には必死に視線を向けた。
――ガチャリ。
男が魔力で鍵を外すと、扉の一部が開き窓が現れた。
そして、ガラスの向こうに、地べたに座り、壁に寄りかかっている懐かしい人物の姿が見えた。
「マオっ!」
「……シロ!?」
さっきまで力が入らないかったはずの身体で、気付けば走り出していた。
黒い短い髪に、あまり手入れのされていないチクチクと伸びた髭。そして、私を見つめる薄茶色の優しい瞳。
四年と少し。ずっとこの時を私は待っていた。
「マオ! マオっ!」
「シロ!」
私に気付いたマオも、扉の方へと走って来た。
ガラス越しでの対面に必死に私たちは名前を呼んだ。
森にいた頃より、だいぶ痩せてしまっているけど、そこにはずっと会いたかったマオがいた。




