102.勝率
「咳の症状が悪化して、呼吸の状態がかなり悪くて」
「わかった。カスク、患者の周りを仕切りで覆って」
「わかりました」
患者のいる部屋に戻ると、患者六人のうち一番高齢のダウルと言う男性が急変の患者だと案内された。
ダウルは、私たちが来た時には既に重症で、かなり危ない状況だった。肺炎が進めば、命が危ないことはわかっていたけど、思いつく限りの方法を並べても、打てる手はもうほとんどなかった。
「ダウル、聞こえる? 大丈夫だよ」
私は、いくつかの薬をダウルに打ち、ひたすら声をかけた。
「シロ、何か手伝うかい?」
「今夜はダウルに付きっきりになると思うから、カスクと交代で休憩しながら他の患者をお願い」
「わかった。何かあったら呼んでくれ」
「うん」
仕切りから顔を出したモリスに指示をして、ザビにもここは大丈夫だからと下がってもらった。
***
「ダウル、今日は夕日が綺麗だったから明日はすごく天気が良いと思うよ」
危機的状況には変わりないものの、ダウルが落ち着きひと段落したので、ほんの少し窓を開けると、冷たい夜風が入り込んでくる。
「病気が治ったらガジュールの話、色々聞かせてね」
この二日でダウルと会話を交わせたのは朦朧とした意識の中の二言、三言で、あいさつ程度しかできなかった。
息子であるデリーがこの部屋に一緒に隔離されているけれど、デリーの方も熱が酷くて意識がはっきりとしない。二人を会わせてあげたいけど、状況的に無理だろう。
「デリーも隣で頑張ってるよ」
その夜、蝋燭の灯りの中、ダウルのカルテを書きながら一晩中彼のそばにいた。
そして、朝日が昇る少し前、彼は魔石へと還っていった――。
ダウルが亡くなったその日、私たちに悲しみに暮れる時間はなかった。
それは、昼になり新たに感染症に罹ったと思われる症状を発症した患者が出たからだ。
一度話し合いのため隔離部屋を出て、モリス、カスク、エディ、ザビと私は向かい合っていた。
「追加の患者が五人で、全部で十人かぁ……。この先、結構大変かもね」
「シロ、大丈夫か?」
「なんとかするしかない。それよりザビ、発症した患者を診る今のこの隔離区域とは別に、患者と接触して発症する可能性がある無症状の人たちを隔離する場所が新しく欲しいの。多分、今回の患者と接触している人たちがいるはずだから」
「わかった。主に伝えてくる」
「お願い」
「モリスとカスクも大変だと思うけど、しっかり休憩取りつつ引き続きお願い。エディもお母さん心配なのはわかるけど、容体は安定してるし、カスクの手伝いもお願いね」
「わかってるよ」
メテルキアが死体の山だと聞いた時、こうなるかも知れないと脳裏をよぎらなかったわけじゃない。
感染症は定期的に猛威を振るい、歴史的に見ても常に多くの人類を殺してきた。そんなことは、マオに教えられて知っていたはずなのに、いざ現実を目の前にすると、勝てる未来が想像できない。
「はぁ……」
森にいる頃、力及ばずに魔石へと還る魔獣を何度も見送った。
命が消えることに慣れることはなくて、悲しんでは乗り越えての繰り返しだったけれど、それでも、何度も経験するうちに少しは私の心も強くなった気でいた。
けれど、人の死は初めてで、初めて魔獣が死んでしまうのを見た時の様な、絶望に時間が止まった時の様な感覚に引き戻された。
「泣くな。頑張れ……」
まだ泣いてる場合じゃないと、自分に言い聞かせ、目をぎゅっとつむり上を向いた。
……患者の所に戻ろう。
私は、もう一度無意識にため息をつくと隔離部屋へと戻った。
それから、一日空いてデリーが亡くなった。そして、その翌日にはデリーのお嫁さんであるエリナも魔石へと還ってしまった。
刻一刻と酷くなっていく患者の病状に治療が追いつかない。
私は、デリーとエリナの魔石を持って、独りダウルの眠る教会のお墓まで来ていた。
正確には、すぐ近くでザビが私を見守っているのだけど、独りになりたいと言うと、わかったと距離をとってくれた。
「今日も寒いね……」
誰に言う訳でもなくポツリと呟き、ひんやりと冷たい土を掘り起こす。指先がジンジンと痛む気がしたけれど、なぜだか痛いとは感じなかった。
ガジュールへ来て五日。三人の人が亡くなり、鶏舎の鳥は半数が死んだ。
人間の患者を診つつ、鶏舎にも足を運んで、助けられそうな子には治療をしている。それでも、やっぱりこの感染症に私の知識で太刀打ちできそうなものはない。ただただ患者任せの治療しかできないのだ。
「綺麗なお花が隔離地域の中にはあんまりなくて、これしか用意できなかったんだけど……」
私は、魔石を埋めた土の上に、道端で摘んだ小さな花を添えた。
「助けられなくて、ごめんなさい……」
言葉と共にぽたぽたと涙が落ちて、私は目元が痛くなるほど袖で涙をぬぐった。
薬師をしていれば、救えない患者も多くいる。通算で言えば、きっと勝率の方が低い。マオはいつもそう言っていた。
それでも、未来のために零を一に変えて、一を百へ変えるために薬師は戦うんだと言っていた。
「マオ……」
ここでゆっくりしている時間はないのに、お墓の前で立ち止まったまま、足が動かない。
「シロ」
「シロさん」
その時、いつの間にか背後に立っていたモリスとカスクの手が私の肩を優しく叩いた。
「モリス、カスク……。二人とも、大丈夫?」
「正直昨日まで見ていた患者がいなくなるのはきついよ」
「俺もです。これに慣れることはこの先もないでしょうね……」
「でも、僕たちには薬師の心構えその三があるだろ?」
「俺たちは独りじゃないです」
「そうだね」
「シロ、君が言ったことなのにちょっと忘れてただろ? 一人で抱え込むとカスクに怒られるんだよ?」
「モリスさん、経験者は語りますねー」
「僕は一度カスクにこっぴどく怒られてるからね」
くすくすと笑う二人に、私も少し力が抜けた。
「患者を救えた喜びを僕たちはいつも共有してる。同じ様に、悲しいことも苦しいことも、僕たちは共有できる。だから、孤独に泣くことはないんだよ、シロ」
「そうですよ。俺たちはシロさんの弟子で、この戦場において一心同体です」
二人だって、初めて患者が亡くなって悲しいはずなのに、私が二人に励まされてどうする。
この戦いはまだまだ続く。しっかりしなくちゃ。
「二人ともありがとう。頼もしい弟子がいて、心強いよ」
「シロに、って言うより、僕らは散々ハークハイト様に鍛えられてるからね」
「シロさん誘拐未遂事件の時も平民街の爆発に巻き込まれた患者の診察が終わった後、毒に倒れた騎士団の騎士たちも全員健康状態確認しとけって押し付けられましたからね……」
「幸いハークハイト様が解毒を施してくれていたけど、そうじゃなかったら大変なことになってたよ……」
誘拐未遂事件直後、私が動けない間の騎士団周りの薬師の仕事を全て引き受けてくれたモリスとカスクは、遠い目をしてあの時のことを語った。
「今回の戦場にハークハイトはいないから、安心して戻ろうか」
「そうだね」
「そうしましょう」
冗談を言いながら二人と隔離部屋までの道を戻ろうとすると、道中でエディが待機していた。
「エディ……」
「薬師は清潔が第一じゃなかったのか?」
「え……?」
「その手」
そう言われ、自分の手を見ると土を掘り返して真っ黒な上に、寒さで指先が真っ赤になっていた。
「それに、墓を作るのは墓守の俺の仕事だ。勝手なことすんじゃねーよ」
「ごめん……」
「エディ、お前まだシロさんに突っかかってんのか?」
「突っかかってねーよ! お前たちが来て俺だって一緒の部屋にいたんだ。お前たちが……そいつが、偽物でもバケモノでもないことくらいとっくにわかってる」
どこかバツが悪そうなエディは、意味もなく地面を蹴った。
「素直に謝ればいいのに」
「うっせー! カスク、さっさと母ちゃん治しやがれ!」
「エディは本当素直じゃねーな」
人との距離感を詰めるのが上手いカスクは、もうエディとも仲良しの様だ。
「エディも一緒に帰ろう」
「お前戻ったら先に手洗えよ。汚ねーな」
「わかってるよ!」
そうして、エディも含め私たち四人は隔離部屋へとまた足を進めた。
「ところでエディはどうしてガジュールにいたの?」
帰り道、これまでずっと気になっていたことをここぞとばかりにエディに質問する。
「城下で、女手一つで俺を育てながら暮らすのは難しいからな。父ちゃんと住んでた家から離れがたくてしばらくは城下にいたけど、それじゃぁ生活が立ち行かなくなるからって、知り合いのいるガジュールに引っ越してきたんだよ」
「そうなんだ」
「なぁ、シロ」
「何?」
「母ちゃんさ、父ちゃん死んでからずっと塞ぎ込んでて……。ガジュールに来てやっと心機一転して笑う様になったんだ」
「うん」
「俺はまだちゃんと働ける歳でもないから、教会の手伝いでもらう日銭しかないけど、いつか必ずちゃんと診察代は払うから、母ちゃんのこと最後までちゃんと診てやって欲しい」
「お金がなくても、言われなくてもちゃんと診るよ。それに、できる限りのことは絶対する。……三対一だもん」
「三対一?」
「この感染症に対する私の勝率は、零じゃないってこと」
「しょう、りつ……?」
負け戦だろうが何だろうが、戦ってやる。
零はもう一になっているのだから。
「そうと決まれば、まずは腹ごなししよ! お腹すいた!」
「シロ、元気になったね」
「シロさん、復活っすね」
「みんな、早く帰ろ!」
「お前、その汚い手で触んじゃねーよ」
「何をー! このやろー!」
「ばっ、やめろ! 触んなー!」
次は、一を百に変えるんだ。




