父のどんぶり
小さかったころ、親父はとても大きく見えた。背丈は見上げるほどで、自分と比べたら手も腹もひとまわりでっかい。まあ子どもから見たら大人なんて皆そんなもんだろうけどさ。平日は毎朝仕事に出かけて、月に一回給料を持って帰り、家にいる時は静かにテレビを見ていた親父。趣味とかあったんだろうか。猫を膝に乗せている姿しか思い出せない。お袋の手をあまりわずらわせない人だったと思う。
そんな品行方正な父だが、彼は週に一回、よからぬことをやっていた。
金曜日の夜九時半。親父は台所に立ってインスタントラーメンを作り、こっそり食べていたのだ。はじめてその姿を見た時はびっくりしたよ。ごはんの時間以外になにかを食べる。ガキの俺にはとんでもない悪行に思えた。
「……おまえも食べるか?」
俺に見つかってバツが悪かったのか、親父は共犯を勧めてくる。俺は慌てて首を横に振った。そしてあわてて自分の布団へと潜ったのだった。父の悪い姿にちょっとだけドキドキして、その日はしばらく眠れなかった。
それから少しずつ親父の悪事を見つける機会が増えていった。金曜の夜九時半というのは決まっているようで、もはや週末のルーティーン状態。このことはお袋も知っていたのだけど、親父は片付けも自分でするから好きにさせてたようだ。
「……ひとくち食べるか?」
「うん」
とある金曜の夜、ガキの俺はついに誘惑に負けた。
小さくうなずくと、父親の隣へ座り、湯気の出るどんぶりに顔を近づける。大きくて立派などんぶりだった。俺が食べやすいようにとラーメンは小皿にとりわけられた。箸かフォークか聞かれて、俺は箸と答えた。本当はフォークを使いたかったが、少し大人っぽく振る舞いたかったのだ。だって悪事だからな。
大きなどんぶりの横に並ぶ、小さな皿。まるで親父と自分のようだった。そして夜食のラーメンはすこぶる美味しかった。
大きくなるにつれて、親父とラーメンを食べる機会が増えていった。食べる量もだんだんと増えて、中学生の時は一人前食べたし、高校の時は金曜だけじゃなくて週に二、三回は食べていた気がする。もちろん食べる分は自分で作ったさ。
「よく食うな」
親父は俺を見て笑っていた。逆に親父は昔ほど夜食は食べないようになっていた気がする。
やがて俺は大人になって、結婚して家庭を持った。気がつくと親父と同じように金曜の夜九時半に、夜食のラーメンを作っている。お袋と違って、嫁さんは俺の悪事が気に入らないらしく、たまにチクりと言われる。嫁さんのご飯には満足してるし、足りないわけじゃないんだよ。ただなんていうかな、息抜きに近いものがあるんだよね。
そしてあの時の俺と同じように、夜食のラーメンを食っているところを子どもに見られた。
「……たべる?」
「いいの?」
パジャマに身を包んだわが子が、眠たげな表情でとことこと近くにきた。その様子がかわいくて、思わず頬がゆるむ。もしかして親父もこんな気持ちだったんだろうか。嫁さんは少し離れたところから「もう歯磨きしたからだめ」とNGサインを出している。やはり悪事のようだ。
「あとでまたさせるから。先に休んでていいよ。俺が寝かしとく」
あきれたようにひとつ息をつくと、嫁さんは素直に寝室に入っていった。
まだ熱々のラーメンは湯気をもうもうと出している。器は嫁さんがどっかの応募シールを集めてもらったどんぶりだ。俺には不釣り合いの可愛らしいキャラクターがプリントされていた。うーん、このままじゃ食べづらいよな。茶碗でも持ってきてやるか。少し待っててと声をかけて台所へと歩き出す。お目当ての茶碗を手に戻ってきたら、小さな息子殿は座りながらこくこくと船を漕いでいた。睡魔には勝てなかったようだ。
「おまえには、まだちょっと早かったかな」
抱き上げて寝室へ連れて行き、布団をかけてやる。戻ったらラーメンは伸びはじめていた。だけど気にしない。どこかうきうきとしながら、俺は残りのラーメンを食べたのであった。
テーブルには大きなどんぶりの隣に、小さな茶碗が並んでいる。
親父。
今夜、親父はラーメンを食べたかな。
三十と一夜の短篇に出し損ねたのでこっそり投稿。