蒼碧に泥むラストツー
憎らしいほど空は青く、妬ましいほど風は心地よく、恨みたくもなるほど海は静かで、呪詛でも吐きたいくらいに道は続いている。
こんなにも青い初夏の風は初めてで、少女はいくらか面食らった。ひどく透き通った青空が、視界の上半分に居座っている。空模様にポツリまたポツリとまだらに散りばめられた入道雲は、陽の煌めきを反射し、あたかも自身が光源であるかの如く耀いている。目に焼きつくほどに鮮やかな青と白のコントラストは、どこか安心できる美しさがあった。しかし困ったことには、少しでも視線を下ろすと、飲みこまれそうなほど青く深い海が広がっている。
ここは海ではない。否、海ではなかったはずだ。海面より頭を出している無機質なコンクリートビルの残骸がそれを物語っている。かつて少女はそのビルの合間を歩いて学校へ通っていた、そんな記憶がかすかに残っている。しかし街は沈んだ。いつ沈んだかは分からないが、水面上に顔を出したビルの頭に苔が蒸していることを見れば、昨日今日のことのようには思えない。
いつからこんな景色が生まれたのか、現在となっては最早、青に満たされた記憶の海よりサルベージすることも叶わない。幾度か回想しようと努めど、その試行は押し寄せては消え行く白波のようで、大小強弱形状はその度その度変わるものの、何れは跡形となく消えてしまうという点ではどうしようもなく一致している。そうして脳裏を引っ掻きまわし、あるいは焦げついた海馬をひっくり返して、ようやく思い出すことができたのは、自分は名を五十嵐青葉ということくらいであった。
しかし何であろうと目前の事実は変わらない。もし青葉に目前の光景を拒絶し否定し消し去る権利があるのなら迷わずそれを行使しただろうが、世界は変化をひとつとして彼女へは与えない。つまるところ断言すべきフレーズはこうだ。
──この街は水没してしまった──
憎らしいほど空は青く、妬ましいほど風は心地よく、恨みたくもなるほど海は静かで、呪詛でも吐きたいくらいに道は続いている。
なぜ自分がここにいるのか理論立てて説明する術はないが、青葉は今、高速道路の高架橋の上にいる。とは言え、本来走っているべき車の姿はひとつもなく、あるのは形なき静寂を除けば
「カモメもウミネコもいないねえ」
呆れてしまうほど呑気に構える親友だけである。
この親友、名を菊川翼という。青葉にとって、異性の友人を1人挙げろと言われたらまず思い当たる幼馴染だ。恋人と呼べるかどうかは考えない。少なくとも青葉はいつもそうしている。
友人としては、一緒にいて飽きはしないものの、そう頼りになる方でもない。そして悲しむべきことに、青葉の目が届く範囲には、この菊川翼を除く人間は誰ひとりいない。海面に死体が浮かんでいないだけまだ温情とでも言うべきか。
二人ぼっち。不気味なほど静かな風が青葉の髪をかきわけて吹き抜ける。
「まあ、青葉だけがいない世界と青葉しかいない世界なら断然後者一択だから、俺はこれでもいいんだけどさ」
翼は何の危機感もなく笑っている。あの水平線の上に見える入道雲にも負けないくらい、柔らかい笑みだった。柔らかすぎて、なんの感情もわかない。今青葉が最も求めているのは硬さ、すなわち安心感である。
無論、翼がいることに対する嫌悪感はない。今、一人にされてしまったらどうして良いか、青葉には分からなかっただろう。しかしそれは、翼だけがいたところで何ら根本的な解にはならない。青葉は、一般人の大多数がそうであるように、社会に慣れすぎている。社会の中で自分が何らかの役割を担う分には困らないが、社会そのものの喪失など今まで考えたことすらなかった。
もしもこの世界にはもう社会と呼べるものが残っていないとしたら。もしも自分と翼がこの世界のラストツーだとしたら。鋭利な悪寒が脊髄を突き抜ける。
「翼」
「うん? どったの?」
「行くわよ」
「どこに?」
翼が尋ねるも、青葉は答えを知らなかった。ただ幸か不孝か、ここは高速道路用の陸橋の上である。行ける方角は必然的に二つしかない。遺棄された自動車でもあれば、失敬、なんてことも考えられたのだが、贅沢を口にできる状況ではない。
「どこだっていい。このままここにいるよりはマシよ」
「そう?」
まるで危機感のない翼を置いて、青葉は歩き出す。翼は普段から「青葉、青葉」と煩いくらい青葉を好いているので、案の定すぐついてきた。青葉の目までしか背丈のない短駆が横でひょこひょこ並んで歩く。
ある種の廃墟と化した陸橋高速道路は、延々と続いている。欄干の向こうに見えるのは、広大な海とかつてここが都市だったことを体現する苔に覆われた高層ビルだけ。ビル群のことをコンクリートジャングルと揶揄することを踏まえれば、現状はコンクリートマングローブとでも呼ぶべきか。
「釣竿あったら、何か釣れたかな」
隣で翼が呑気なことを言う。それはこの深刻な状況に寸分もマッチしておらず、青葉としては軽い苛立ちすら覚えてしまう。
「つーか、無人島に来たみたいだね。あ、そうだ。青葉はさ、無人島に何かひとつだけ持っていけるとしたら、何にする?」
「──そうね。そんなことまで考えられる余裕ができてから考えることにするわ」
青葉が思ったままのことを答える。すると翼は、まったく予期できないことに、にっこり笑った。
「青葉ー。知ってる? 電車の鈍行とかに乗ってると、ガタンゴトン言うじゃん。あれってレールに『遊び』って言う隙間があるからなんだって。熱膨張みたいなヤバいときにそこが良いクッションになるから壊れないんだって」
「そうね。小学生の頃、理科の授業で習ったわ」
「じゃあ話が早い。青葉、遊びながらいこう。本当にヤバいときが来たとき、心が壊れないように」
「それは私に、もう少し余裕を持てって言いたいの?」
「そゆこと。カリカリしても女子力さがるだけで良いことないよ」
翼は満足げに頷いた。一理あるのは確かだが、それができれば苦労しないとも青葉は思う。翼は、普段こそあどけない三枚目のように振舞って周囲から親しまれているが、その魂胆は案外タフにできており、想定外のアクシデントを心から楽しむことができる。この点では何より安定感を求める青葉とは対極の存在と呼んでも良い。
その点を踏まえると、この状況で隣に居合わせた人間が翼だったことは思いのほか幸運なのではないかと、青葉は真剣に思った。
「で、青葉が無人島に何か1つだけ持っていけるとしたら、何がいい?」
「……海水を淡水に変換する装置、かしら」
「お。青葉ってば、結構ガチなチョイスだね」
「そういう翼はどうするのよ」
「俺? 俺は青葉を連れてくよ。何があっても青葉がいないと、俺生きていけないし」
翼はまた能天気に笑顔を咲かせている。その自己中心的な返答はいつものことであり、これに青葉の機嫌が斜めになったのもまたいつものことであった。
「人のことを勝手に私物扱いしないで」
「とは言うけどさ、もし俺がひとりで無人島に行ったら、また青葉のこと待たせちゃうでしょ?」
その返事は、青葉が忘れようとしていた記憶をむんずとつかんで脳裏に引きずり出し、それを留めんとする魂の抵抗をいとも容易く足蹴にした。
今でこそ十六歳として青春を謳歌している菊川翼には、実は丸一年ほど眠っていた時期がある。
彼が小学五年生だった頃の不幸な事故で、しかし彼以外の家族がそろって骨壺に入ってしまったことを考慮すれば、彼はまだ幸運だったのかもしれない。
とにかく翼は十一歳の大半を昏睡状態のまま過ごすことになった。本人は何も考えられない状態だから気楽だったかもしれないが、親友の青葉にとってその一年は常に寂しさと隣り合わせで心の底から喜ぶようなことはできなかった、最も辛かった時期と記憶している。
ところが事故から一年と少しして、菊川翼はまだ生きていることを思い出したかのように目覚めた。その日は、現在に至るまでの中で五十嵐青葉が泣いた最後の日でもある。
もっとも、一年も眠っていた体では普通の生活すらままならず、すぐに学校へは行けなかった。仕方なくリハビリをしているうちに周りは卒業式を迎えたのだった。
ようやく自力で一通りのことができるようになった後、翼は遠方の親戚に引き取られる形で青葉の前から姿を消した。しかし「俺の目覚めを誰より堅く信じながら一年も待ってくれていた人」のもとへ戻りたい、せめて高校だけは同じところに通いたい、と翼は人知れず努力を積み重ねた。
高校にて再会した青葉はずいぶんと背が伸びており、そもそも昏睡した頃から発育が鈍くなった翼は見事に背丈を抜かれていたが、それは全くもって大した問題ではなかった。以来、翼はときに青葉が煩わしさを覚えかけるくらいにはピッタリくっついている。
翼の陽気だが気丈な性格は、こうした多難な半生の結晶でもあるのだろう。青葉に対する強い執着も、家族を亡くし孤独の身になったことに対する穴埋めと思えば同情してやれなくもない。
しかし青葉はときにふと思うことがある。ここ最近はずっと翼の方から「青葉、青葉」とすり寄ってくる。だからこそその可能性は霞んで忘却の彼方へと追いやられそうになるのだが、案外、孤独への耐性が低いのは青葉自身の方ではないだろうか……。
憎らしいほど空は青く、妬ましいほど風は心地よく、恨みたくもなるほど海は静かで、呪詛でも吐きたいくらいに道は続いている。
あの虚構じみた美しさを有する積乱雲を粉々に壊せたらどんなに楽だろう。しかしこの恐ろしいほど暖かで優しい陽射しを否定できないように、目前の現実は否定しきれるものではない。
それがさも当然であるかのように翼と青葉しか息をする存在は見当たらず、疑う術などないほどに街は大半が蒼海の底に沈んでいる。
歩けど歩けど何ひとつ変わらない。それはまるで、世界が、運命が、変化を拒んでいるかのようで。
「結構歩いたね」
翼が話しかけてきた。それは言外で「でも何も変わらないね。こんなことしてて意味あるのかな」と述べているようにも見えて、青葉の心に焦燥を落とす。
こんなことをして何になるのか。青葉には分からない。今さらながら誰かに連絡をとろうとしてみるも、携帯電話は圏外。もしかすると電波塔すらも海面に沈んだのかもしれない。すると結局のところ歩くしかない。
つまりこの問題の構造は実に単純かつ虚無的で、歩くこと自体の意義など誰も問うてはおらず、むしろ他に選択肢がないことを嘆かねばならないのだ。もしその矢面に立たされたのが青葉でも翼でもなければ、その道理から導かれる抗いがたい勧告に従っておとなしく嘆いたであろう。ところが此処にいるのは他ならぬその青葉と翼である。
青葉は逆行的精神とでも言うべきか、周囲が無理強いすればするほどそれに反抗するような心模様を形成する。つまるところ「周りの圧力に屈した私」という自己像を何より嫌悪しているとでも言えば、ある程度は第三者の理解も得られるという物ではなかろうか。
一方で翼に関しては少し次元の異なる話になる。六年前の昏睡からというもの、彼の頭にはいくつかの後遺症が残ってしまったわけだが、そのひとつが「負の感情の欠落」である。人の感情を端的に説明する熟語に喜怒哀楽があるが、それを翼に当てはめようとしても怒と哀に合致する要素がない。クラスではいつも陽気なお気楽キャラで親しまれているのもこの辺の所以なのだが、それを知っているのは青葉くらいのものだろう。それだけならまだ良かったが、困ったことに恐怖も義心もかなり希薄になっており、今こうして翼が何ら危機感を抱いている様子がないのもまた、そういった背景の現れである。
「あんたって本当に危機感ないのね」
「いやー、これでも努力してるんだけどなー」
翼は窮笑を浮かべながら宣う。
彼の言う努力という物が青葉にはよく分からない。ただ、彼の言い分をそのまま復唱する分には、そういった普通の心を持ち合わせる青葉の行動をよくパターン分析し適宜模倣することで、さも普通の感情を完備しているかのように振る舞えるようになるための涙ぐましい努力らしい。
しかしどれほど高精度であろうと模倣は模倣。どういう心情に基づいて皆はそんな言動をしているのか、理解できないことは多々あると翼は青葉だけにこっそり教えてくれる。
青葉は翼のそういうところには、思うことは色々あれど基本的には何も言わないことにしている。かと言って翼の考えに迎合してやることもまた、青葉が先述のような気質である上に翼も「青葉はそのままの青葉でいて」と頼んでくるので、極めて稀なことである。
こんなに近くにいるのに、心の距離は開いたまま、なかなか歩み寄れないラストツー。ずっと昔から翼のことは知っていたはずなのに、青葉は翼のことが分からない。ただひとつだけ確かなことだと分かるのが、危機感の欠落した翼は、このまま放っておいたらきっとまた手の届かない所へ消えてしまうだろう。
なんでこんなに翼のことが気になるのだろう。それは青葉も分からない。確かに性別は違うが、恋人のような仲になった覚えは、少なくとも青葉にはない。翼だって精神的には青葉を求めているが、その体に手を出そうとしたことは一度もない。そう、きっとこれは友達。たまたま性別が違くて、たまたま性格の相性が良かっただけの友達。ただの友達なのだから別れの日が来るのは不自然なことではない。別れたところで相手が死ぬわけではないのだから、そっと手を振って「お互い頑張ろうね」なんて言ってやれば良い。
きっと、きっと、そうなのだろう。
「あ、青葉、見てあれ」
翼が前方を指さした。青葉はそこで顔をあげ、同時に、自分が下しか見ていなかったことに今さら気づく。翼が見つけたのは、アスファルトの上に転がっていたサッカーボール。二人の共通の趣味であったバスケットボールには、使えそうだが適してはいない。
「青葉。これでバスケしようよ」
「今はやれないわ。この道がどこまで続くか分からないのに、体力を無駄に使いたくない」
「えー? かーたーいー」
翼は年甲斐もなく駄々をこねる。それでも青葉が折れずにいると
「じゃあいいよ。俺、リフティングやるから。青葉、ちゃんと何回できるか数えててね」
と、ひとりサッカーボールで遊び始める。チビの癖に運動神経は良い翼。専門外にしてはなかなか上手いものだった。しかし二十回目にして、頭で弾いたボールがあらぬ方向へ飛んでいき
「あっ」
翼が追いかけたときには手遅れだった。サッカーボールは高架橋の柵を飛び越えて、海へと落ちていった。青葉と翼が柵から下を見たときには、もうボールは白い点でしかなかった。ただ重力に身を任せ落ちていくボールを、上から目で追うことしかできないふたり。そして
「あ、沈んだ」
翼が言った通り、サッカーボールは海面に飲まれ、深い深い海の闇へと姿を消した。
「……サッカーボールって、水に沈むものだったっけ」
首をかしげる翼。そんなはずはない。軽い革の中にかなりの空気が封入されているのだ。それが浮かなければ、浮力とは一体なんなのか。戸惑う青葉に、翼はさらに気づいたことを言い浴びせた。
「そう言えばさ。街が沈んだって言うのに、浮いてる物は一個もないね」
そうだ。何ひとつ浮いていない。ボールが浮かばなかったのだから、並大抵の物は沈んでしまうのかもしれない。
理科の授業で習ったことがある。コップに水と油を入れると、二層に分かれる。この状態で氷を入れると、氷は油の層には沈み水の層には浮く。つまり物体が浮くかどうかは液体の比重によっても変わってくる。小学五年生の冬の実験。翼が眠っていた冬の思い出。
この海は何でできているのだろう。海自体が軽ければ、物はそう簡単には浮かべない。街が沈んだという表現は最早比喩ではなくなった。だって、何も浮いていないのだから。
「沈んだら、みんな、底にいるかな」
翼が幻惑の言葉を唱える。青葉の心がわずかに揺らぐ。
ラストツーになって生きること。誰もが沈み果てたこの海へ身を投げること。どちらが良いだろう。
そこに先ほど翼が述べたことが重なる。
「まあ、青葉だけがいない世界と青葉しかいない世界なら断然後者一択だから、俺はこれでもいいんだけどさ」
私はどうなんだ。青葉は自問した。──私はどうなんだ。
翼しかいないこちらを選ぶか、翼だけがいないあちらを選ぶか。潮風は青葉の髪をかきわけるだけで、何ら答えを与えてくれない。……ところで、何もかもが停止したこの虚構の世界に、答えなんてあるのだろうか。
分からない。何もかも分からない。だからこそ青葉は気がついた。何故分からないかは分からないが、ひとまず分からないということは分かった。分からないことが多すぎるならば、今すぐ決めるべきではない。それだけは分かる。
つまるところ青葉は結論を先送りにし、今は隣にいるこの呑気で健気な幼馴染だけと共に、この果てしなき道を進むことを選んだ。
憎らしいほど空は青く、妬ましいほど風は心地よく、恨みたくもなるほど海は静かで、呪詛でも吐きたいくらいに道は続いている。
この水没寸前の高架橋。どれほど歩いたかは分からないが、どれほど歩いても変化は訪れない。
隣にいる翼の顔に焦燥の色は少しもなく、ただ今の状況を楽しんでいるかのようにすら見える。それはそうだ。彼にとって、隣に青葉さえいれば他のことは大した問題ではないのだから。
それでも青葉は歩き続けた。この先へ進むことに何の意味があるかは、もう考えることすらやめてしまった。ただ、歩く以外にすべきことがなかった。
「青葉」
翼が言う。
「もしかして、飽きてきた?」
「何に?」
「前へ進むのに」
飽きる。そんな感情は今、許されることなのだろうか。恐らく、それは違うと思う。好きで前へ歩いているわけではないのだから。
その旨を翼へ伝えようとした、そのとき。ふいに鈍い地震がハイウェイ全体を襲った。
今まで歩いてきた道が音を立てて崩壊していく。アスファルトの塊が飛沫をあげて海へと沈む。
そして不幸にも青葉と翼の間に亀裂が走る。崩れ始めたのは、翼が立っている方だった。
「翼!」
青葉は一片の迷いも躊躇もなく、反射的あるいは本能的に、翼の手をつかむ。彼の足から地面が離れ、ふわりとおもむろかつ無責任に落ちていった。
いくら翼が華奢とは言え、青葉ひとりの力でその全てを支えられるわけではない。その無力さに悪態をつく余裕もなく、気づけば青葉は腹ばいになり、ただ両腕で宙にぶら下がる翼をつかむだけになっていた。
その間にも、青葉がいるアスファルトにも亀裂が走っていく。このハイウェイも、いよいよ最期のときが来たようだ。
この街は、もう、沈む。
「青葉」
翼が口を開いた。
「すぐ逃げないと落ちるよ」
「それが何よ」
考えるより先に、喉が、舌が、唇が、動いていた。
脳が急いでそれを追認する。どうやらこの道理は、あるいは世界を茶番と呼ぶ大いなるシナリオライターは、自分と翼を別れさせたいようだ。ならば絶対に屈したくはない。この全心全霊はそれに甘んじて食い下がる術を知らない。それを無駄な抵抗と呼ぶなら、好きにするが良い。とにかく五十嵐青葉にとって「生きる」の反義語は「諦める」だ。
「怖くないの? 俺に似てきたね」
「バカ。あんたと一緒にしないで」
そんなことも分からないのか。恐怖という感情があるからこそ、この手を離さないのだ。離したらきっと、翼はもう戻ってこないから。遠くに、行ってしまうから。──それはきっと、怖がらなければいけない未来だから。
ラストワンになるくらいなら、すべてゼロになっても構わない。
アスファルトが崩れだす。どのみち、今から翼を見捨てても間に合わない。いや、最初からいずれは駄目になる定めだったのかもしれない。運命の嘲笑に身を任せなければいけないというのなら、せめて最後は反骨する。この手は絶対に、離さない。
そのとき青葉の体が重力に包まれた。もう彼女の座標を現時点に留められる力学的作用はどこにも存在しない。それを担っていたアスファルトは今この瞬間をもって崩落した。
海が迫ってくる。海が、闇が、最期の時が、そして、死が……。
不思議と怖くはなかった。何がこれから来ようとも、この手さえ離さなければ翼はすぐそこにいるのだから。
「青葉」
海面がすぐそこまで迫ってきたとき、翼は確かに、青葉へ笑顔を向けてこう述べた。
「ありがとう」
それが最後だった。
美しくも無慈悲な大海は、落ちてきた翼を刹那の内にのみこんだ。
青葉は……、水面に拒絶された。
まるで自分が第二の大地だと言わんばかりに、青葉が沈むことを受け入れなかった。
その割に激突した衝撃は全くなかったが、とにかくどういう理屈か、青葉は水面の上に鎮座することになってしまった。
そして、いつのまにか、あんなに堅く握っていた手を──
どうしてそうなったのか、いつそうしたのか、あまりに一瞬の内だったので詳しいことはてんで理解できなかったが、とにかく──
──離してしまっていた。
翼は沈んでいく。水面の上に青葉を残して。
青葉は再び手を伸ばそうとした。水面がそれを拒んだ。ガラスの床を叩いてるような格好になってなお、青葉は諦めなかった。
何かを叫んだ気がするが、何と叫んだか解している余裕はない。
その間にも翼は沈んでいく。この、いったいどこまで沈めば底につけるかも分からない、深い、深い海を……。
闇に消え行くその直前、青葉は翼の顔を見た。
それは手を離されたことに対する怒りではなく……。
それは最も大切な人と離別することになった悲しみではなく……。
それは先行きの分からない境遇へ落ちてしまった恐怖ではなく……。
それは、ただ、他に浮かべる感情がないが故の、消去法的な笑みだった……。
息ができなくなって、目が覚めた。
体に鉛でも括りつけられた錯覚に陥りながら、五十嵐青葉は上体を起こす。
時計を見た。深夜二時。日付を見たが、一年くらい眠っていた気がするにもかかわらず、実際には三時間しか眠っていないようだった。
この現象は何なのか。もっとも的確に説明できる単語があるとするならば、それは「夢」だろう。
青葉はカーテンをめくって、夜空を見上げていた。ほとんど無意識のうちだったが、カーテンをつかむその手には不必要なほど力が入っていた。
夢と呼ぶにはいやに生々しい物であった。手の中にまだ、翼の手の完食が深々と残っている。でも、きっと、夢だったのだろう。
もし先ほどの青に満ちた世界が単なる虚構だとすれば、この夜が明ければまたいつも通りの日々が始まる。
階段を下りて居間に行けば家族がいるだろう。学校へ行くために外へ出れば、そう歩かないうちにあの聞き慣れた声がきっと自分の名前を呼ぶはず。
この世界は、翼しかいない世界ではないし、少なくとも今のところは、翼だけがいない世界でもないはずだ。そう、これくらいがちょうど良い。
青葉は夜空を見上げた。それは、海の闇にも似て、深い深い青に満ちていた。