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鯖の味噌煮(1)

 

 少し黄ばんだ白い壁……漆喰のような素材で塗り固められた壁には大きな窓が二つある。

 といってもガラスが入った贅沢な窓ではない。

 木枠があって、内から外に向けて上に開くだけの「蓋」に近い板がついているだけだ。押し開けたあとに木の棒で支えると開けたままにできるという簡素なものである。


 部屋の中はとても殺風景で、読み書きをするためのテーブルと椅子、小さなクローゼットのような家具、あとは寝起きするための寝台があるだけ。

 ただ、床には部屋主が脱いだ服が散乱している。


 寝台の上では、赤褐色の髪をした男――リックが酒臭い息を吐き散らしながら、イビキをかいて眠っている。

 前日は夜勤だったので朝めし屋で朝食をとったあと、一眠りして夜の街に出掛けたのだ。


「――ンゴッ!」


 突然、変なイビキをするとリックはパチリと目を覚ます。

 その目の覚まし方は、明らかにその変なイビキの音が大きく、自分で驚いたからに違いない。

 一人部屋なので誰かの視線を感じるようなこともなく、当然恥ずかしくもないのだが、リックはなぜかそれを確認するかのように首を左右に振って周囲に目を向けた。


 誰もいないことに安心したのか、リックはむくりと身体を起こす。

 さすがに飲んだ次の日は疲れが取れず眠気は残っているようで、ぼんやりと何もない壁を見つめて時間を過ごす。

 一分、二分と時間が経っと、脳が少しずつ活性化したようで表情が変わってくる。まだ寝起きの顔ではあるが、皮脂とホコリでべたりとした髪を寝癖を気にするように左手で撫でると、その感触に不快そうに顔を歪める。


「そういや、今日も行くって言ったんだっけか……」


 昨日、朝めし屋でクリスに向かって「明日も来る」と言って帰ったのである。

 別に絶対行かなければならないというものでもないだろう。門兵という仕事である以上、誰かが急病で倒れたり、怪我をしたりすれば非番の人間が代打を務めるなんてことはよくある話なのだから。

 だが、最近はビールという酒を出してくれていたのに、昨日はイゴルがいるからという理由で飲ませてもらえなかった。

 リックはそれが残念で「明日も来る」と言ってしまったし、収穫祭前からずっと店に行ってないのでその味に飢えていた。


 リックは現在時刻など確認もせず準備として、木枝で歯をごしごしと磨きながら部屋を見渡す。

 床には酔って帰ってきて脱ぎ捨てた上着とズボンが落ちている。見るからに汚れていて、この服でそのまま朝めし屋に行けばまたクリスやシャルに汚いと誂われることだろう。

 いつもいつも同じことで揶揄われたくないとリックも思うようだ。少しは清潔な格好をしようと思ったのか、慌てて脱ぎ捨てられたズボンを履くと、ズボンの下に落ちていた布を持って部屋を出た。


 リックが暮らしている部屋は、門兵用にあてがわれた兵舎の一室。

 かなり昔に建てられたこの小さな兵舎は領軍兵舎の敷地内にある五階建ての建物だ。ひとつのフロアに五つほどの部屋と共同のトイレがある。トイレといっても、御虎子がぽつんと置かれているだけだ。中身は兵舎の一階に住む管理人が定期的に回収している。

 領軍が使用する兵舎だったころは一階は食堂になっていた。現在も厨房や食堂があったことを示すようにガランとした空間だけが残っている。


 リックは階段を下りて、裏庭にある井戸に向かう。

 井戸のそばには洗濯や水浴びをするために木板を敷いた場所が用意されていて、汚れた水が流れる溝が塀の外へ続いている。

 リックは木板のある場所で井戸から水を汲むと、備え付けの木桶に水を流し入れる。

 使い古された木桶は彼方此方に穴が開いていて、水が流れ出てしまうが、そんなことをリックは気にしない。

 下着の前止め――ボタンではなく紐を結ぶようになっている――を外して頭から水をかぶると、石鹸を使って髪を洗った。

 オリーブオイルと生石灰で作った石鹸はマルゲリットでも普及していて、リックが暮らす兵舎でも共同で使うことを前提に配布されている――といえば聞こえはいいが、この井戸のある場所に無造作に置いてあるのだ。

 木桶に残った水で髪を洗い流すと、持ってきた布で髪を拭く。髪をすべてまとめると紐で髪を縛り、総髪にまとめ上げた。

 そして、布をつかって今度は身体を拭いていく。

 数日はこうして身体を拭いていないので汗と埃で布がどんどん汚れると、木桶の水で濯いでまた身体を拭いた。


 全身を水拭きして小奇麗になったリックは部屋に戻ると、クローゼットらしき家具から下着を取り出して着替える。

 麻の下着は硬水で洗ったこともあってゴワゴワとしているが、 何日も着ていれば次第に柔らかくなってくるので気にしていられない。


「戻ったら今日は洗濯だな……」


 リックはそう呟くと、クローゼットらしき家具からズボンと上着を取り出し、それらを着込むと帽子を被って外へ向かう。

 階段を下りて、兵舎の外に出ると訓練場が目の前に広がる。弓の的が並んだ練習場、木人形が並んだ剣や槍の練習場、攻城戦を意識した石垣やの横には、太いロープが何本も吊るされた木の櫓が建っている。

 その練習場は人がまばらにしかいないので、まだ訓練時間前――朝二つの鐘が鳴る前であることがリックにも理解できた。


 まだ少し早い気もしないではないが、この兵舎は行政区の西端にあり、朝めし屋からは正反対の場所に位置している。

 ここから徒歩で向かうとすれば、リックの足でも結構な時間が必要だ。


 西通りに出ると、居住区や職人街を通り、商業ギルドの倉庫街を抜けて大門前に出るのだが、街をぐるりと半周する形で遠回りになってしまう。

 今日は休みで時間に余裕があるリックは遠回りすることが気にならないが、職場である大門に出勤するためにいつも使っている経路は休みの日まで使いたくない。交流街に出ると、東に向かう路地に入った。


 街の西側の路地にはいかがわしい店が多く並ぶ。

 元は風呂屋であったところを改築した娼館、質屋という名の高利貸し、地下室で盗品を販売する宝飾店、表向きは居酒屋だが実はならず者のたまり場……もっと酷いところもあるが、数が多いのはこんな店だ。


 姿勢良く背筋を伸ばして大股で歩くリックの姿は門兵といえ軍で訓練を受けた人間であることを感じさせるため、例えこの西側の路地が危険とされるエリアであっても危機感を抱く必要はない。

 そもそもいかがわしい店の多くは夜に営業しているので、まだ朝二つの鐘も鳴っていないこの時間帯であれば、若い女性や子ども以外は気にせず歩くことができるほどに落ち着いている。


 なんの気負いもなくのんびりと歩いているリックだが、気がつけば中央通りから路地を抜けて東通りへと抜けていた。

 時間を確認するように東に目を向けるとグランパラガスがゆらゆらと表面を揺らし、光を乱反射していてエステラの位置がよくわからない。


「こりゃ早すぎたかな……」


 リックはつい独りごちる。

 この時間帯ではパン屋くらいしか開いておらず、時間を潰すにもすることがないのだ。

 だが、念の為に丁字路まで足を伸ばして、朝めし屋の前を覗き込む。


「おう、もう並んでいるじゃないか……」


 リックは口元が綻んでいて、なんだか嬉しそうだ。

 思っていたよりちょうどいいタイミングで到着したことが嬉しいのか、それと開店当日から通っている店が思った以上に繁盛していることが嬉しいのかわからない……その両方かもしれない。


 いずれにしても、カウンター席には八人までしか座れないことを知っているリックは急いで最後尾に並んだ。


 前に並んでいる男はとても筋肉質で、二の腕の外周はリックの倍くらいありそうだ。何かの職人だろうとリックは推測する。

 そして、その前に並んだ男も同じくらい大きい。だが、こちらは筋肉質ではなく、肥満体型だ。

 顔見知りが並んでいないかとリックは前に二つ並ぶ壁のような男たちの向こうに並ぶ客を観察するが、残念ながら見かけたことがあるという程度の男がいる程度である。


「クォーンカーン……クォーンカーン……」

「――ガララッ」


 そこに朝二つの鐘が鳴ると、クリスが店の扉を開いて暖簾を掛ける。


「おまたせしました、開店しますね。最初の方から順にお入りください」


 その言葉を皮切りに並んでいた客は二言三言会話を交わし、店に入っていく。

 朝の挨拶を済ませるだけの客、それに加えて何か言葉を交わしている客の声も聞こえてくる。

 そして、リックの順番がやってきた。


「リックさんおはようございます」

「ああ、おはよう」

「珍しいですね、こんなに早くから来るなんて……それになんか……」


 クリスが何か言おうとして、なぜか途中で止めてしまう。

 その何かわざとらしい反応にリックもクリスが言おうとしたことを察知したようだ。


「なんか――なんだ?

 珍しく小綺麗だとか言いたいんじゃないだろうな?」

「まあ、とにかく中にどうぞ。

 こちらで満席ですので、次のお客様には申し訳ございませんが、暫くお待ち下さいね」


 並ぶ客に対してリックの肩越しに声を掛けると、クリスはリックの背中を押して店の中に押し込む。


「いらっしゃいませなの」


 シャルがこれまでのように飛びつくようなことをせず、挨拶と共に笑顔で椅子を引いてリックに座るよう促した。そして何か不思議そうな目でじいとリックを見つめると、更に目を細めてリックの顔を見つめたあとに一驚する。


「あ、リックさんなの!」

「おいおい、本当に気が付かなかったのかよ……」


 リックは愕然とした表情で力なく呟くと、そのままガックリと肩を落とす。

 クリスは一度だけ身を清めて来店したリックを知っているので問題ないが、シャルはいつも仕事帰りでくたびれたリックしか見ていないので仕方がない。


「ごめんなさいなの……いつもと違う感じで……」


 リックが落ち込む姿を見て、シャルも肩身が狭い。

 だが、


「シャルちゃん、そんなこと気にしなくていいわ。それより、リックさんはおすすめでいい?」


 クリスが割り込んですべてを塗り消すようにお茶を出すと、注文を確認する。いや、確認するというよりも、ほぼ押し付けだ。

 だが、リックはいろいろと考えるのを面倒だと思うところがあるので、どちらにしてもクリスのオススメにしてしまっている。


「ああ、構わないが――今日のオススメはなんだい?」

「今日のオススメはねぇ……『鯖の味噌煮』かな」


 クリスが熱々で湯気を立てるおしぼりを広げて軽く冷ますと、両手でリックの前に差し出す。

 そのおしぼりを受け取ったリックは、両手をギュッギュッと拭きつつ尋ねる。


「ん? その『鯖』っていうのは?」

「海の魚ですよ。リックさん、いつも来るのが遅いから『魚朝食』を食べたことないでしょう?」


 両手を拭き終えたリックはおしぼりで顔を拭きながら考える。何度もこの店に足を運んでいるが、魚朝食は食べたことがない。いつも夜勤明けに来ることが多く、朝二つの鐘が鳴った後でないと開放されないのから仕方がない。それに、休みの日はいつも前日に飲みすぎて寝過ごすことも多いから仕方がないと納得する。


「そういえば『魚朝食』は食べたことがないな。あと……」

「はーい、カウンター八席、『魚朝食』いただきました!」

「あいよっ」


 リックが続けてビールを頼もうとするが、クリスは先にシュウに注文を伝える。

 だが、リックは収穫祭の間もずっとビールに恋い焦がれてきたのだ。注文しないという選択肢はない。


「あと、あれ――ビールってやついいか?」

「一杯、銅貨一枚だけどいい?」

「え?」


 クリスの返事に、リックは言葉を失う。

 この店の料理は大賤貨一枚、五〇ルダールである。そして、ビールは銅貨一枚、一〇〇ルダール。つまり、ビールはこの店の食事二回分の価格なのだ。

 リックの給金は一日あたり銅貨五枚程度なのだから、ビール一杯に銅貨一枚も出すのは非常に厳しい。


「前に、その値段だって説明したじゃない……忘れたの?」

「そういえば、シャルがこの店で働きはじめた日に来たときにそんな話をしていたな……でも、やっぱり銅貨一枚は高くないか?」

「この街のエールやシドラと比べても全然美味しいんだから、仕方ないでしょ?」


 そう言われるとリックは返す言葉もない。

 ただ、なんとかしてビールを飲みたいと思ってしまう。


「ううう……銅貨一枚かぁ……」


 銅貨一枚あれば安いワインやシドラ、エールなら十杯くらい飲むことができる。日本のように酒税率が高くないので値段が安いし、品質も良いとはいえないものなのだ。

 それに、井戸水が硬水で煮沸消毒しなければ飲めないということもあり、普段からエールやシドラはよく飲まれているのだ。


「どうするの?」

「あーうん、諦めるよ……」


 蚊の鳴くような声で、リックは残念そうに返事をする。

 今夜も飲みに出るのであれば、ここで銅貨一枚使うよりも夜に使う方がたくさん飲めると判断したのだろう。


「それがいいと思うわ……」


 クリスは返事をすると、カウンター下にある冷蔵庫を開いて漬物が入った容器を三つ取り出し、棚にあった小鉢を並べて漬物盛り合わせの準備に入る。

 今日は大根の糠漬け、キャベツの浅漬け、胡瓜の醤油漬けだ。


 丁寧に盛り付けた漬物の盛り合わせは、シャルとクリスが分担して配って歩く。


「おまたせなの。漬物盛り合わせなの」


 ことりと小さな音をたててリックの前に小鉢が差し出される。


「おう、ありがとな」


 リックがシャルに礼を言うと、シャルはにこりと笑顔で返事をする。


「ねね、今日はどうしてきれいなの?」


 子どもというのは一度でも興味を持つと、つい何も考えずに尋ねることがある。

 その相手が心を許しているリックであればシャルは余計に話かけやすい。


「なっ……ち、違うぞ、シャルちゃん。いつもは夜通し働いたあとの朝に来てるから汚れているだけでさ、普段はいつもキレイにしているんだぞ?」

「そうなの?」


 慌てて普段からきちんとしていることをアピールするリックだが、シャルは腑に落ちないのか、首をこてんと傾げて「ほんとに?」と疑うような目で見上げる。

 もちろんリックは正直に答えているつもりなのでまったく後ろめたいことなどないのだが、「いつも」と言ってしまっているので、正確ではない。実際には下着を洗うのは夜勤後の休日が基本だし、上着やズボンなど滅多に洗濯することがないのだ。

 生地が羊毛を使っているのでゴシゴシと洗うと縮んでしまうので取り扱いが難しく、多くの住民も同じように滅多に洗うことがない。だから、リックの服装が特別汚いということはなく、人並みに汚いのである。


「ああ、いつも汚いって言われるけどな、オレは普通にちゃんと着替えているし、洗濯もしているってわかっただろ?」


 リックは自分の清潔さをアピールするかのようにジェスチャーを加えて大袈裟にアピールするのだが、上着やズボンは着替えているだけで洗っていないからそこまで清潔でもない。

 外観からすると、襟の間から見える下着が洗ったものだとわかるのと、髪を洗ったことがわかるという程度だ。


「ふーん」


 なので、シャルにとっては夜勤明けのリックとの違いはあまり感じられていないのだろう。軽く流すような返事で済ませ、プイッと厨房に入ってしまう。


「おいおい……」


 懸命に清潔さをアピールしようとしたのだが、伝わらなかったことを嘆くように右手でこめかみを押さえると、リックはカウンターに肘をついて首を小さく左右に振った。


 すると、入れ替わるようにクリスが厨房から戻ってきた。


「ん? リックさんどうしたの?」


 リックの姿勢を見て何か悩みごとでもしているように見えたようだ。

 心配したクリスがリックに声をかける。


 リックは顔をあげてクリスを見ると、リックは小さく溜息を吐いて返事をする。


「……なんでもないよ」

「そう? だったらいいんだけど……」


 クリスに同じことを話しても、結局は同じように誂われるだけだと気がついたのだ。


 クリスは少し心配そうに言葉を返すと、カウンターと厨房の間にある台に置かれた料理を持って配膳を開始する。


「おまたせしました、今日の『魚朝食』です!」


 クリスが元気よくリックの前に料理が乗った丸盆を差し出した。


初稿:2020年8月2日


いつもお読みくださり、誠にありがとうございます。

また、ブックマーク、応援、誤字報告ありがとうございました。


次回投稿は2020年8月9日を予定しています。

その翌週はお盆休みをいただく予定です。ご容赦ください。

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町家暮らしとエルフさん ――リノベしたら庭にダンジョンができました――

イタリアン、スペインバルを舞台にした一人称視点の作品です。よろしくお願いします。
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