太刀魚の塩焼き(2)
昼一つの鐘が鳴る頃には、旧王城の前にある広場に大勢の人たちが集まっていた。中央にグランパラガスが聳えるその広場は普段なら千名ほどなら余裕で集まることができる場所なのだが、収穫祭という行事の都合上、祭壇が南側に設えられているため、見学者は全体の半分ほどしか入ることができず、既に道路も人で溢れかえっている。
祭壇は赤い絨毯が敷かれ、中央には特別豪華な彫刻が施された椅子がぽつんと置かれていて、そこに祭りの中心人物が腰掛けることを予想させる。
また、祭壇の南側には豪華な彫刻が施された椅子がずらりと並べられていて、そこに貴族などが並ぶことが見て取れる。
正中を知らせる昼一つの鐘が鳴ってから一時間が経過すると、三つの鐘の音が重なるように鳴り響く。
小さく高い音を響かせる二つの鐘――カラーンカーンカンカラーンカカーン――
いつもの時を知らせる鐘――クォーンカーン……クォーンカーン――
三つの鐘が不規則に……だが、なぜか調和した音のようにマルゲリットの街全体に広がっていく。
すると、旧王城の中からエドガルドが姿を現し、その後ろにクリスが続く。
先頭のエドガルドは豪勢な刺繍入りの臙脂色のコートにベストを着込んでいて、高貴さが漂ってくる。
後ろに続くクリスは更に高貴さが漂うフランネル地をピンク色に染めたワンピースで、その上に臙脂色のコートを着込んでいる。ワンピースやコートの裾は後ろに向かって広がっていて、エドガルドと同様、豪勢な模様で刺繍が施されている。ただ、素肌を晒すのは端ないとされているので、裾の長さは踝のあたりまである。
「なんて素敵な衣装なんでしょう……」
「何度見てもお美しい……」
「エドガルド様は威厳があって素敵……」
などという声が見学する民衆から聞こえてくる。
エドガルドとクリスが祭壇前をゆっくりと歩くと、少し離れて近隣貴族たちが豪勢に着飾って続く。
広場に集まる民衆からすれば、普通に暮らしている限りは直接目にすることがないこの街の領主とその娘を筆頭にした貴族たちのファッションショーを見ているようなものだ。
特にクリスは美しく、離れてみている男たちの視線が熱く、女達の羨望の眼差しが矢のように襲いかかる。だが、そのような視線に晒されてもクリスは動じない。クリスが日本――裏なんばやその周辺を歩く際に同様の視線に晒されても動じることがない理由は、このような場で鍛え上げられたことにあるのだろう。
その後、数組の貴族夫婦らしき者たちが豪勢な衣装を見せびらかすかのように祭壇前を歩くと、少し癖のあるブロンドの髪を後ろにまとめ、ダークブラウンの刺繍入りコートに、同色のベストを着込んだ男が似た髪色を持った少女の手を持って現れる。オラシオ・マルティ伯爵と娘のラウラである。
ラウラは丸く広がるパニエの上に、独特の幾何学模様が浮かぶように織り込まれた絹製のドレスを着込んでいる。下半身がとても大きく見えてしまう衣装であるが、ラウラも充分な美貌を持っており、クリスと同様、男たちの熱い視線が集中する。
ラウラはその視線を感じたのか、ツンと顎を上げ、蔑むように男たちに視線を返した。
「あちらがプラド領のラウラ様か、昨年より更におきれいになられて……」
「まだ嫁ぎ先が決まっていらっしゃらないそうだけど、あの美貌なら引く手数多でしょうね……」
などという声が民衆から聞こえる。
「まったく、不愉快ですわ……」
ラウラは、周囲は見学者の話し声でザワザワとしていて、誰にも聞こえることがないと思い独り呟く。敬愛するプテレアを中心としたマルゲリットの収穫祭に、駄々を捏ねてやってきたのだから貴族らしく振る舞いたいと思っていたのだが、平民の男たちからジロジロと品定めされるように見つめられるのは不快なのだ。
ぶつぶつと文句を言いながらラウラが指定された席に座り、後続の貴族たちも順に着席していくと、数分で貴族たちが出揃った。殆どが父親と息子または娘の組み合わせ――子息子女の参加である。
子息子女は既に社交界デビューを済ませた者たちであり、互いに顔を見知った者たちばかりであるが、ラウラにしてみれば親を通した結婚の打診を断った他の伯爵家や地方侯爵家――連邦制になる前の侯爵家――の子息も並んでいるので居心地が悪い。
見学に来た民衆のざわめきが落ち着いてくると、祭壇の裏側から太鼓やシンバルなどの打楽器の音が鳴り、ラッパが厳かな音楽を奏でる。
高らかに鳴り響くラッパの音が止まると、今度は白地に金色の刺繍が施され、貫頭衣を着た男性と、同じ衣装を着た二組の少年少女が現れ、祭壇に上がる。
二組の少年少女が中央の椅子を挟むように左右に立つと、男性が椅子を前に跪く。
「この街の守護者たるグランパラガスの化身、プテレア様! どうかお姿をお見せください!」
広場全体に響くような声で男が叫ぶ。
すると、その声に呼応するようにグランパラガスの枝が揺れ始める。
葉が擦れるシャラシャラという音が次第に大きくなると、それまで光を遮っていた枝葉の隙間が丸く広がり、明るいエステラの光が中央の椅子だけに降り注ぐ。そして、その降り注ぐ光の中からプテレアがぼんやりと姿を現すと、ふわりと降り立ち、椅子に座る。
いつものように、白と緑の生地に金の刺繍がなされた神官服のような出で立ちである。
「頸飾返還――」
祭壇に立つ祭官らしき男が儀式の開始を宣言すると、エドガルドが立ち上がり、祭壇に向かう。
祭壇の中央にある木で作られた階段を一つひとつ上り、エドガルドがプテレアの前に跪く。
すると、プテレアが立ち上がり、自らの首に掛かる首飾りをすっぽりと外し、エドガルドの首に掛けた。
この首飾りは昨年の収穫祭の間に祭壇に祀られたもので、街の人々の祈りが込められたものである。それを、前年の収穫祭終了時に街の守護精霊として働くプテレアへ捧げたものだ。
一年間使用した首飾りを領主であるエドガルドの首に掛けるのは、エドガルドがこの街の代表者であるからだが、それはプテレアが認めた者である証拠でもある。住民が祈りを込めたものを預けるのだから、それなりの資質が求められる。
「頸飾献台――」
祭官の言葉に続いて、旧王城側から少女が木箱を持って現れる。
厳かな雰囲気の中、少女がゆっくりと祭壇中央の階段へと進むと、エドガルドが立ち上がり、祭壇下へ降りて木箱を受け取った。
エドガルドは木箱を持って、祭壇中央の階段を上り、プテレアの前に木箱を差し出した。
木箱には、収穫祭終了時にプテレアに捧げられる新しい首飾りが入っていて、祭壇の中央に座るプテレアの前に置くことで、ここを訪れる住民たちの祈りの力を集めるのである。
「プテレア様からのお言葉」
祭官が祭壇から見学に来ている民衆に向いて声を張った。
プテレアはその言葉を聞いて、立ち上がると一度目を閉じて大きく息を吸う。プテレアが何をどこまで話し、エドガルドが引き継いで話す。段取りも役割もしっかりと分担できているのだ。
あとは、プテレアの口から話すべきことを話すだけである。
「いまここに集まるすべての者たちに対し、この一年、妾を支え、力を与えてくれたことに感謝するのじゃ。大雨、嵐もやってきたのじゃが皆を無事に守ることができ、妾もひと安心じゃ……。
そしてまた新たな一年を迎えるための準備をしてくれることに、心から感謝しておるのじゃが……」
プテレアは軽く俯き、すぐ前に並ぶ貴族たちへ順に視線をやる。
クリスとプテレアの視線が合うと、ここ三日程度は夜を共にしていなかったせいか、互いに元気そうな姿を見て自然と笑みが溢れる。
一方、ラウラはプテレアのエメラルドグリーンの髪と金色の瞳、美しい顔立ちとその表情を見てうっとりとしている。
プテレアは少し弛緩した頬を引き締め、視線をずらりと並ぶ民衆の方に向ける。数え切れないくらいの人たちが、真剣な眼差しで自分を注視していることを感じると、こくりと独り頷き、言葉を続けた。
「この根の下には妾を命を維持できるだけの力がほとんど残っておらぬ。このままではあと二十年で養分が無くなり、三十年もしないうちに妾は枯れてしまうじゃろう……」
会場は一気に混乱と不安に包まれ、民衆が響めく。
段取りどおりなのでエドガルドやクリスはまったく動揺していない。
だが、民衆だけでなく一部の貴族は動揺の色を隠せない。
とりわけラウラは最初は意味を理解できなかったように呆然としていたが、いまは目に涙を溜めて両手で鼻と口元を押さえている。自分が崇拝する相手が、三十年というそんなに遠くない未来に朽ちて消えるというのだから、ラウラにとっては他人事とは思えない。
今までの声量では全員に声が届かないとプテレアは直感し、手のひらを上にした状態で水平になるよう腕を上げて話す。
「静かに! まだ話は終わっておらんのじゃ……」
プテレアの声が街全体に届くのではないかと思われるほど膨れ上がると、民衆は水を打ったように静かになった。
「妾とて、ただ何もせず枯れて朽ちるのを待つわけではない。ただ、そのためには多くの者の力が必要になるのじゃ。このあと、エドガルドが説明するのじゃ。
いずれにせよ、今後も皆に世話になるのは間違いない……心から感謝するのじゃ」
プテレアは左足を引き、右手を薄い胸に置いてお辞儀をした。
広場は静寂であった。誰一人声を発しようとしなかった。その理由は毎年とはあまりに異なるプテレアの態度によるものだ。傍若無人とまではいかないが、自由奔放で我儘な振る舞いも多いのがプテレアである。そのプテレアが貴族や民衆を前にお辞儀をしたのであるから、驚くのは仕方がない。だがそれは、いまプテレアが話した内容に嘘がなく、それだけ深刻な状況にあることを示していると誰もが思ったという証拠でもある。
プテレアは椅子に座ると、ほっと溜息を吐く。ここであたたかい緑茶と甘いものでも出てくればいいのにと考えたりすのだが、まだ収穫祭初日の式典は始まったばかりだ。
すると、今度はエドガルドが立ち上がる。
祭官らしき男が、声を張り上げる。
「領主、エドガルド・ラモン・アスカ様からのお言葉――」
エドガルドが進み、民衆に向かって祭壇前の階段に立つ。あくまでも主役はプテレアであり、その同じ高さの場所から話すことはしない。
「諸君。プテレア様から話があったとおり、いま我々が立っている大地にはこのグランパラガスを育む力を失いかけている。千年の時をかけてこの街を守ってきたグランパラガスを守り、この街をこれからも発展し続けるためにも、皆の力を貸して欲しい」
エドガルドはここで言葉を切る。
居並ぶ貴族たちの表情や態度を確認するためだ。
グランパラガスの恩恵はマルゲリットの街だけに留まっている。この街に別邸を持つとはいえ、周辺に領地を持つ貴族たちにとってはメリットがある話ではないので、エドガルドはぐるりと見回して、彼等がどう反応するか表情や態度を見て確認する。
「具体的には、グランパラガスの肥料となるものを地中に埋める工事を行う。
肥料とは、森に落ちて堆積している腐葉土に家畜などの糞を混ぜて寝かせて作る堆肥に、灰や砕いた『卵殻』や貝殻、石灰などを混ぜ合わせ、寝かせたものだ。これからの数年間で大量の腐葉土や家畜の糞、灰や『卵殻』、貝殻、石灰などが必要になる。
林業を産業とする領からは腐葉土を、牧畜を産業とする領からは家畜の糞を、農業を産業とする街からは藁などの灰を、海辺の街と交流のある商人には貝殻を、そして多くの人々には労働力を提供してもらいたい。
もちろん無償とは言わぬ。まあ、そこはこれからの相談と言うことになるのだが――」
ここまで一気に話してしまうと、エドガルドは大きく深呼吸する。おそらくこれだけでも財政的には大きな支出を覚悟しているのだろう。
だが、この街にはもうひとつの事業が残っている。
「そして、この機会に街に下水を再整備し、長年苦しんできた街の汚物や異臭を一掃する!」
今度は、貴族たちではなく見学に来ている見学者――主に住民である――をゆっくりと見回す。
住民たちは口々に驚きの声を上げているが、概ね喜んでいるようだ。
「専門的な話になるので具体的な方法はここでは省略するが、グランパラガス維持のために地中に肥料を埋める際に地面を掘るのだ。それに合わせて地中に汚水の流れ道を用意し、街の外で浄化するための場所を作ることになる。それにも皆の協力が必要だ――」
エドガルドの演説中にも関わらず、貴族や一部の商人たちがざわつき始める。
オラシオは自領が森林資源に恵まれているため、それこそ腐葉土は大量に余っているし、下水の再整備となれば下水路に材木が用いられることを考えると商機であると考えた。
また、海辺の街を知る商人は、海岸に大量の貝殻が打ち捨てられていることを知っていて、それが商品になるのだから、これほど美味しい商売はないと期待に胸を膨らませる。
家畜の糞尿についてはエドガルドはヤコブと既に打ち合わせ済である。不足分を補う程度の糞尿が手に入れば問題ないが、自領が牧畜業を主とする領主も商機を逃すまいと目つきが鋭くなる。
「――具体的な計画はこれから順次策定するが、まずは十年程度を掛けて実施することを前提にしており、収穫祭終了から一年間で計画を具体化する。何もかもこれからだが、皆の協力を期待している」
エドガルドが話を締めくくり席に戻ると、貴族や民衆たちのざわつきは更に大きくなる。
貴族や商人達は自分たちの商売に繋がるよい機会だと考えており、街の住人からすれば住環境の改善と労働力提供の対価としての収入を見込むことができる。いや、収穫祭の見学のためにこの街にやってきた者や、傭兵としてやってきた者にも安定した仕事と収入を得られる見込みがある。
エドガルドの話はそれほどまでに影響がある内容であった。
ラウラは懸命に考えた。プテレアが朽ちてしまわないようにするためには、自分はどうすればいいか。
プラドの街の産業については領主であるオラシオの領分だ。自分が口を出すことなど許されないことであるし、自分に特技があるわけでもない。
ただ焦るばかりで答えは出てこなかった……。
「拝謁祈念を始める――」
祭官らしき男の言葉が響くと、エドガルドから順にプテレアの前に進み言葉を交わし、木箱に収められた首飾りに祈りを捧げる。クリスや地方侯爵家、伯爵家と順に進んでいくとラウラの番がまわってくる。
ラウラは幅広のスカートを両手でつまみ、左足踵を引いて挨拶をした。
「プラド領マルティ伯爵が次女、ラウラ・マルティでございます。プテレア様にはご機嫌麗しゅう、此度はご拝謁の機会を賜り恐悦至極にございます――」
とても堅苦しい挨拶である。
プテレアはコアでは外見は人であるが、実際はグランパラガスに宿る楡の妖精である。本質は悪戯が好きで、外面などを気にすることのない自由奔放な性質の持ち主だ。このような堅苦しい挨拶は好きではない。
プテレアは軽く顎を上げて宙に視線をやると、店の前でオルギン商会のカンデと話をしたのを思い出した。
「おお、小娘か……そういえば先日は商人が来ていたのじゃ……」
カンデのことだと直感したラウラも、それに話を合わせる。
おそらく、クリスの経営しているという料理屋で会ったのだろう。
「カンデのことでございますね。そのカンデから……クリスティーヌ様の店で出す料理が美味しい上に、とても珍しいものだと伺いまして、明日の朝にお邪魔する予定にしております」
少し小難しい顔をしていたプテレアなのだが、ラウラの返事を聞いてパッと笑顔を見せる。
プテレアはグランパラガスに宿る精霊で、目の前にいる姿はその分体である。街全体を守る傘の役割を担っているが、思考の一部を分体として動かすことで人の生活に触れ、情報収集をして文化や文明の変化を知らなければこういう祭祀の際に話をするのも難しくなる。
ただ、普段は分体として活動していても定期的に得た情報や養分などは本体であるグランパラガスに返す必要があり、朝二つの鐘が鳴る頃からの二時間強は本体に戻っている。
「そうなのじゃな! シュウ殿の料理はすべて美味じゃ。妾はもてなすことができぬのじゃが、じっくりと堪能してくるがよいぞ」
「はい! ところで……」
ラウラはプテレアの言葉の意味がわからなかった。プテレアがクリスの店に関係しているとカンデから報告を受けてはいるものの、具体的な関係についてまで確認できていない。
ただ、ここでその点を確認するには時間がない。既に祭官がラウラの次に挨拶するブローサ伯爵を後ろに待たせている。
「プテレア様のために、わたくしにできることはございませんか?」
真剣な眼差しで尋ねるラウラであるが、プテレアはそのような真剣な眼差しで見つめられるのを苦手にしている。それに、この後も伯爵家、子爵家などが列を成して並んでいるし、見物客として来ている住民たちにも祈りを捧げてもらうために相手をする必要がある。
「そうじゃな、だが時間がない……クリスに尋ねるのがいいのじゃ」
なんとなくバツが悪いといった表情で、人差し指で蟀谷あたりをぽりぽりと掻きながらプテレアは答えた。事実上の丸投げである。
だた、ラウラは後ろからやってくるブローサ伯爵の強い視線と、その後ろから刺さるように飛んでくる強い視線を感じてそれ以上の会話は無理だと諦めた。
「承知しました。クリスティーヌ様にご相談いたします。では、ごきげんよう」
ラウラはまたスカートを両手で摘み左足を引くと首を傾げて挨拶をし、祭壇の階段を降りていった。
初稿:2019年11月3日
いつもお読みいただきありがとうございます。
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この場を借りてお礼申し上げます。
頸飾:首飾りのことです
そういえば、十一月になってしまいました。
一方、このお話はやっと九月の終わりくらいに差し掛かったところです。
当初、四話程度で終わらせるつもりが、今回は五話に増えてしまいました……(汗)
またストーリーと現実との時間の流れがズレていきますが、ご容赦ください。
次回は11月10日 08:00 の投稿予定です。