カレイの干物(1)
都会生まれの都会育ちなわたしにとって、故郷の香りはお好み焼き……
実家の裏にお好み焼き屋さんがあったのです。
投稿時間の設定を間違っていました。遅くなってすみません。
「もうっ!臭いっ!」
海辺の街で生まれ育ったパメラにとって、不衛生で、異臭に塗れた街は耐え難いものがあった。
鼻に布を押し当て、汚物のシャワーを浴びないように帽子をかぶり、傘をさして歩く。
「それもこれも、排泄物を路上に撒き散らし、生ゴミなども窓から捨てる住民たちのせいよっ!」
所用があって一度住宅街へと戻っていたパメラは、そう独りごちると、夫婦で経営する干物店に戻るべく急いで歩く。そこまで忙しい店ではないし、使用人もいるので本当は急ぐ必要はない。臭いから急ぐのだ。
すると、前から馬車がやってくる。
たまたま広い道ではなかったので、道端に避けないといけないが、そこは汚物が山となった場所だ。
『ヤツ』や『ネズミ』がそこらを走り回っていて、不快極まりない。
「どこのお偉いさんか知らないけど、こんな狭い道を馬車なんかで通ってんじゃないわよっ!」
実は自分も店に行くときは馬車を使ったのだが、そんなことは関係ない。
その馬車が通り過ぎるのを見ながら独りで怒りの声を上げていると、容赦なく馬車にも汚物のシャワーが降り注ぐ。パメラはいい気味だとでも言いたそうな顔をするが、それでも怒りはなかなか収まるものではない。いっそのこと、店の上に居住部分を作って暮らしたいほどなのだが、店がある交流区は治安が悪く、夜も騒がしくて眠れる気がしない。
異世界は剣と魔法の世界ではあるのだが、実のところ魔法を使える人間はごく僅かしかいない。
殺傷能力が高く、広範囲にわたって威力を発揮する魔法を誰でも使えるようにするというのは、為政者としても非常に危険なことであり、このマルゲリットでも認められたごく一部の人間だけが魔法学校で学ぶことができることになっている。
その魔法使いが風魔法を使ったところで周囲全体は臭いのだから意味はない。火魔法は火災につながり、水魔法で洗い流しても低地である交流街に流れ着くだけで、店の営業に差し支える。干物屋の商品に汚物の匂いがつくなど許されないことだ。
空間魔法が使えるのなら、音を遮断して静かで、匂いも浄化された場所にできるというが、魔法学校にも空間魔法は教える者がおらず、学ぶための書籍などもないとされている。
だが、ただひとり……パメラはその空間魔法の使い手を知る人を知っている。
「ちょうどいい時間帯ですし、ちょっと寄ってみようかしら……」
居住区の異臭にどうしても耐えられそうにないパメラは、空間魔法の使い手から海産物を仕入れる「朝めし屋」のクリスに相談してみることにした。
「またあの『アジ』の干物を食べられるかしら……」
パメラはそう独り言ちるのだが、マルコに連れられて行ったときに食べたアオアジの干物が忘れられず、一緒に涎がこぼれてしまった。
居住区から大通りを歩いて大門に向かう途中、丁字路を入ったところにある店が「朝めし屋」である。店の前の道は狭いわけではなくが、とても清潔に保たれている。店の前にはピンクがかった金灰色の髪に、ピンクスピネルのような瞳をした痩身の少女がワンピース姿にエプロンをつけて掃除をしている。
「お店、開いてるかしら?」
パメラが少女に声をかけると、とても嬉しそうに笑顔で返事をしてくれる。
「あ、いらっしゃいませ。もちろん開いているの!」
その少女は、引き戸を開いてお店の中へパメラを誘導するのだが、後ろにまとめた髪が揺れると、パメラのもとに少女の髪から花のような香りが漂ってくる。
パメラは一瞬、その香りにうっとりとした顔をすると、クリスも同じ匂いがしたことを思い出す。
「髪の匂いが素敵ね!どうすればこんな香りになるの?」
パメラは思わず細い少女の両肩を持ち、涎のあとが付いた顔で問い詰めるかのように尋ねてしまう。余りに胸が大きいので、少女の小さな顔は完全に谷間に埋もれてしまった。
その谷間に顔を挟まれた少女は窒息死させられるかと一瞬怯むが、盗賊達に襲われたときのことを考えたら全然怖いものでもないようで、冷静に顔を出して答えた。
「クリスおねーちゃんと頭を洗うだけなの」
そのあまりにも当たり前な答えにパメラは呆けたような顔になるが、考えてみると髪から香りがするのだから、髪に香水を振りかけるか、髪を洗うためのせっけんの香りなのだろう。
「そうなのね。教えてくれて、ありがとう」
パメラは少し落ち着くと、少女に礼を言って店に入る。
店に女ひとりで食事に来るものはおらず、カウンター席は既に男たちでいっぱいだ。どうみても、クリスに群がっているように見える。その男たちの隙間から跳ねるようにクリスが顔を見せると、声をあげる。
「パメラさん、いらっしゃいませ」
「いらっしゃい!」
厨房からも、シュウの声が聞こえてくる。
調理するのが一人なので、さすがに忙しそうだ。
「おはよう。テーブル席でもいいかしら?」
「もちろんです。すぐにおしぼりお持ちしますねー」
クリスは愛想よく返事をすると、すぐに準備を始める。
その姿を見て、短期間でよくここまで慣れたものだと感心しながらパメラは席につくと、深々と息を吸って吐く。
「清涼な空気だわ。扉の外とは大違いね……」
丁度そこにおしぼりを持ってきたクリスは、パメラの声を聞くと複雑な気分になる。
この店の引き戸を開き、中に入った瞬間、実はパメラは日本の裏なんばという場所にある店舗の中にいる。
シュウのいる厨房には冷蔵庫や上下水道があって、ガスコンロが並んでいる。厨房の横には非常口があって、その先はとても狭いが店がある建物の中にある通路になっている。そこは異世界とは違い、排気ガスで汚れた空気が淀んで溜まっている。
「お待たせしました。おしぼりです。
今日は何になさいますか?」
クリスは蒸されて熱々のおしぼりを広げ、少し冷ましてから手渡す。
おしぼりからは、ふんわりとパメラの周囲に洗剤の香りが広がる。
「今日も『アジ』はあるかしら?」
「すみません……今日は『カレイ』の干物なんです」
先日、パメラとエヴァンは『アジ』の干物をとても喜んで食べてくれたのだが、残念ながら今日の魚朝食は『アジ』ではない。ただ、パメラが育った港町でも『カレイ』は獲れることがあり、回遊魚である『アジ』が獲れない時期に食卓に上がることもよくあった魚だ。
「じゃ、魚の朝食でお願いするわ」
「はーい、魚朝食承りましたぁー」
クリスが元気よく注文を通すと、その相手であるシュウが返事をする。
「あいよっ」
その仲睦まじい空気を感じると、パメラはクスリと笑った。
料理の間に供されるお茶と漬物をクリスが持ってくる。
前回は、胡瓜、大根、白菜だった。
「お待たせしました、まずはお茶と無料のお漬物で、『胡瓜』と『大根』、『セロリ』です。
『セロリ』は、さっと茹でたものを魚醤に浸けたものですよ」
それぞれを右手の指先で指してクリスが説明するが、聞いたこともない名前が入っている。
「魚醤? 魚醤ってなぁに?」
「『イワシ』のような小魚を塩と一緒に壺に入れておくとできる汁です。『イカ』を使って作るところもあるみたいですよ」
パメラは聞きなれないものについて、クリスに確認すると、生まれ育った町でも作られていた『魚醤』のことだと納得して、そのセロリにフォークを突き立てて口に入れる。
繊維質の多いセロリは独特の風味があるが、軽く茹でられることでその風味が和らぎ、冷めるときに『魚醤』の味をギュッと吸い込んでいる。この『魚醤』には刻んだ唐辛子と丸ごとのニンニクが入っていたようで、『魚醤』だけでは単調な味になるところに力とアクセントを加えている。
「まぁ、これ美味しいわね。家でも作れるかしら……」
「ええ、たぶん……シュウさんに聞いておきますね」
そう言うと、クリスは厨房の方に向かっていってしまう。
だが、セロリの味を楽しんでいたパメラの顔が、突然驚愕に染まる。
パメラは空間魔法のことについて教えてもらおうと思っていたのに、セロリの漬物が美味しすぎて、そちらのことを聞いてしまったことに気づいた。でも、料理はまだ配膳されていないのだから、その時にでも聞けばいいと考えなおし、お茶と漬物を楽しんだ。
久しぶりの『魚醤』の味を楽しんでいると、クリスが料理を運んできた。
「お待たせしました。魚朝食です」
コトリと置かれた丸盆の上には、この「朝めし屋」ならではの炊き立ての白いごはん。
艶々と輝く白い穀物からは、その白さに負けないほどの白い湯気が立ち上っている。
「クリスちゃん……少しお願いがあるの……」
パメラは料理の観察よりも、とにかく店の中に住めるようにする方法を相談したいと思い、声をかける。
クリスとシュウは空間魔法の使い手から生魚や干物を仕入れているというのだから、なんとか渡りをつけたいのだ。
「いいですよぉ。
でも、熱いうちに召し上がっていただきたいので、食後にお話ししましょうか」
とても深刻な表情で相談があると言われてしまったのだが、クリスはニッコリと笑って返事をする。
料理を提供する側としては、熱いものは熱いうちに食べてもらいたいものだ。そんなことはパメラも知っている。
「そっ……そうね……あとでよろしくね」
これでクリスの時間は予約できたも同然なので、パメラも少し安心して食事に挑むことができる。
ごはんの隣には、汁物椀が置かれていて、賽の目に切られた豆腐が浮かんでおり、その周囲には緑色のフワフワとした葉のようなものが浮かんだスープが入っている。こちらも熱々の状態で注がれており、炊き立てごはんと変わらないくらいの白い湯気を上げているのだが、そこからは炒った魚からとったスープベースの香りがふうわりと立ち上っている。
パメラは、その味噌汁に入っているものは初めて見るものばかりなので、クリスに確認する。
「このスープは何が入ってるの?」
「『大豆』で作った豆腐という食べ物と、『アオサ』という海藻を干したものですよ」
クリスはそこまで説明すると、他の接客があるので厨房の方へ戻ってしまった。
「『アオサ』……ねぇ……」
地球のヨーロッパの人たちでも同様だが、昆布やワカメ、アオサなどの海藻は彼らにとって「海の草」である。ウニは「海の栗」で、ナマコは「海の胡瓜」だ。海藻を細かく分類するのは生物学者くらいのものだ。だから、海藻を干したものと言われて、納得するしかない。だから、海辺の街で育ったパメラでも、その名を反復しても記憶にないし、ピンとこない。
とにかく、最初に口を湿らせるためにもパメラはスープから手をつける。
手元に置いてあった木匙をとると、その緑の海藻だけを掬って息を吹きかける。
フーッフーッフーッ
まだできたての湯気を放っているスープの温度を下げ、スイッと口の中に流し込むと、その目が大きく見開かれる。
口に入ってきたスープから広がったのは、とても鮮烈な海藻の香りだ。
目を閉じ、故郷の海辺近くに残っていた磯を歩いた時のことを思い出して独りごちる。
「潮と海藻が混ざった風の匂いはこんなだったかしら……」
人はすこしずつ忘れてしまう生き物だ。十年という月日は、パメラにとって長いようで短く、短いようで長い。
毎日店頭に立つ日々は決して楽ではなかった。ただ、海産物が珍しいこのマルゲリットの街では、簡単な料理を教えるだけで毎日『干し鱈』が売れていく。そうして、がむしゃらに働いた日々はあっという間に過ぎていったが、故郷の海の香りを忘れてしまうほどに長い日々だった。
パメラはもう一度、木匙をスープに入れて掬う。今度は豆腐が入っている。
豆腐は中まで熱く、少し舌を火傷するのではないかと驚いたが、小さめの正六面体に切られていたので、すぐに慣れる。大豆の香りがフワッと立つのだが、アオサの香りに負けてしまう。いや、アオサだけでは物足りないスープの満足感を得るため、アオサの香りを邪魔しないような具材として、豆腐を選んでいるのだろうと、パメラは分析する。
そういえば、このスープには魚の香りがするが、前回のスープとは違う魚でスープのベースがとられている。より上品な魚を使い、海藻の旨味もこのアオサだけでとっているようだ。
「おいしい……」
パメラはそう独りごちると、またひとくち、アオサのスープを口に運んだ。