麻婆汁(2)
緑の瓶のビールも、琥珀色のビールもどっちも大好きです。
ただ、飲みすぎは注意です。
初稿 2018/10/10
修正 2018/10/13 食材名称統一のため修正(ガルリック→アリーオ)
リックは店先を掃除している少女の名前を聞いて、確認する。
「シャル? あの子はシャルって言うのか?」
リックは少女の名前までは知らない。
とにかく、アプリーラ村からやってきた、とてもやせ細った、今にも死にそうだった女の子という程度しか知識が無い。
「えっと、あの子はシャルロットっていう名前だよ」
結局、ビールを出したのはいいが、自分の方が情報は持っているんじゃないかとクリスは少し後悔する。
「ングッングッングッ……」
リックは新しく出された琥珀色のビールを飲むと、先ほどの瓶ビールとの味の違いに驚く。
まず、さっきのビールとは香りが違う。
さっきのビールは爽やかささえも感じたのだが、今度の酒は深みのある香りだ。
喉を通る時の感覚も、今度の琥珀色のビールはドッシリとした旨味のようなものを感じさせて流れていく。
しっかりとした濃厚さならこちらの琥珀色の酒が楽しめるし、さっきの緑色の瓶に入ったものは全体のバランスが非常によくとれた酒だったと思う。
どちらかを選ぶとなると、リックとしては緑の瓶の酒かなと考えて飲んでいた。
「で、なんだっけ……あの子のことか……
聞いた話だと、村が襲われる前に母親が亡くなって、もうすぐ村の誰かに引き取ってもらう予定だったらしいぞ。
だが、今はもう帰るところは残ってないみたいだな……
父親は軍にいるという話だが、5年も前に徴兵されたらしい。三年で戻ることができるから、戻ってこなかったのなら、何かあったのかも知れないな……」
そこまで話すと、リックは小鉢に残っていたプロパグーロを摘んで口に放り込む。
クリスはその程度のことなら巡回部隊から父エドワードに伝わっており、既に聞いている。だが、それ以上の情報を入手したいと思って、リックに尋ねる。
「リックさん、私たちからシャルには聞きづらいことなの……
どこかで調べられない?」
リックは腕を組んで考える。
アプリーラ村に定期的に通う者であれば、或いはある程度の情報を持っているかもしれないが、領軍の巡回部隊くらいしか思い浮かばない。
「残念だが、オレの知り合いにはいないな……」
リックはとても申し訳なさそうな顔を見せる。
本来なら自分が保護すべき少女を助け、想像以上に元気な姿をシュウとクリスは見させてくれた。しかもそのまま保護し、これからも面倒を見ようとしてくれているのだ。感謝しているし、力にもなりたいが、巡回部隊には本当に知り合いがいないのだ。
「そっかぁ……」
とても残念そうにクリスは俯く。
だが、あまり無理ばかり押し付けるのもよくないので、質問するのは諦める。
「ではあと一つ……ご注文は何にしましょうか?」
クリスはリックに向かい、朝食は何がいいか尋ねることにした。
「んー……そうだな……」
リックは今までにこの店の朝食のことを思い出す。
自分が頼んだのは、豚肉の朝食と、鶏肉の朝食だった。その間に他の人が食べている朝食をこっそりと見てきたが、領主が頼んでいた牛肉の朝食は美味そうだったことを思い出した。
「そういえば、このあいだ領主様が食べていたのは『牛朝食』だよな?
あれは美味そうだった……あれがいいな」
リックの注文を聞いて、クリスは先日の朝食のことを思い出す。
確か、リックとエドワードが席を並べたときに父エドワードが食べていたのは肉豆腐だったはずだ。だが、今日の牛朝食は内容が違う。
「ごめんなさい、今日の『牛朝食』は野菜と肉を炒めたものなんですよ……。
仕入れた部位によって料理を変えてるみたい……」
リックは少し残念そうな顔をする。領主エドワードが来ていた時に牛肉の朝食を頼まなかったことを少し後悔しているようだが、仕方がない。それでは何を頼むかなのだが、まだ頼んだことがないものもある。ただ、腹いっぱい食べるなら野菜よりも肉やたまごにしたい。
「じゃ、『たまご』でお願いするよ」
「はーい、『たまご朝食』承りましたぁー!」
クリスは元気よく厨房に向かって声を上げる。
「あいよっ」
いつものようにシュウがその声に返事をすると、クリスはお茶と漬物盛り合わせの準備を始める。決まった動きが出来上がっているようで、その流れるような動きを見ると、リックは少し感心する。
だが、リックはビールを飲んだせいもあり、尿意を感じはじめており、それはだんだんと強くなっていく。
「クリスちゃん、悪いが小用で外に行ってくる」
リックはそう言うと、立ち上がって店を出ようとする。
異世界の住人は、小用程度であれば女性であっても草むらなどで済ませてしまう。だが、折角シャルが掃き清めている場所でされるのはシャルがかわいそうだ。
別に店の前でなければ構わないのだが、店内にはそのための設備があるので、使ってもらえばいい。
「リックさん、だったら奥にある部屋の中でお願いします!」
クリスは慌ててリックの右袖を掴むと、奥に2つある小部屋のうちの1つの前に連れて行く。
扉には黒い人型と赤い人型の絵が描かれた札がついていて、文字のようなものが書かれている。もう一つの部屋も見えるが、そこは紙でできた引き戸がついた部屋だ。
その扉についたレバーを引くと、扉が手前に向かって開く。
中には白い椅子のようなものがあって、特に穴など開いていない。リックは普通なら壺が置いてあるので、蓋を取って小用をすればいいのかと一歩前に進む。すると、勝手に蓋が開いた。
「なんだこりゃぁ!!!」
クリスが駆け付けると、トイレの前で腰を抜かしたリックがいる。
そこまでダメージを受けておらず、お漏らしをするほどではなかったようだ。
クリスは、トイレの蓋が自動で開くことを教えていなかったことを思い出した。
「これは魔道具の壺なんですよ。蓋が自動で開きますし、用が済めば水が流れてきれいにしてくれます。
あと、お尻もここを押せば洗ってくれるんですよ」
「なんだってぇ?!」
リックはかなり驚いているが、クリスは仕事に戻りたいので、早く済ませるようにリックを促す。
「使い方がわからなくても、いまお話ししたとおり勝手に水を流してくれるから、そこに向けてやっていただければいいですよ」
リックは何とか立ち上がれるようで、恐る恐るトイレに入っていく。
クリスはそれを確認すると、そろそろでき上がったであろうリックの朝食を配膳する用意をする。それに、他にもボチボチとお客さんも入ってきている。
トイレの方からリックの声が聞こえて少し騒がしいのだが、クリスは仕方が無いと割り切り、接客に戻っていった。
しばらくすると、リックがなんとか小用を済ませて席に戻り、タイミングよく料理が運ばれてくる。
小用程度で少し時間がかかってしまい、漬物を食べそこなった気分のようだ。
「おまたせしました。『たまごの朝食』……今日はだし巻きですよ!」
クリスは料理を説明すると、料理が載った丸盆をリックの前に置く。
いつものように、左手前には炊きたてで艶々と輝く白いごはん、その右側には木椀に入ったスープが用意されている。
そしてメインディッシュは、その奥にある四角い皿に盛り付けられた、四角いオムレツのような物体だ。
「今日のお味噌汁は、『茄子』と『豚肉』、『白葱』を使った麻婆汁で美味しいよっ! ごゆっくりどーぞ!」
汁物椀の中を見ると、茄子の艶々とした黒い皮の部分と、表面が少し焦げた身の部分が見えている。豚肉が入っているというが、よく叩かれているようで、小さな粒状になって汁の上に浮いている。他に白葱が入っていると言っていたが、浮いている白いものがそれだろう。
リックが木匙を汁物椀の中に突き刺すように入れてくるりと回すと、沈んでいた味噌が出汁と混ざり合う。いつもよりも味噌の色が濃い。
そのまま木匙に茄子が乗るように掬い、口の中に流し込むと、食材としては見えなかったニンニクと胡麻油、味噌の香りが一気に広がる。特に味噌の風味が強い。
口に入れた茄子はトロリと柔らかく舌の上で蕩けていくと、細かく叩かれた豚肉はコロコロとした舌触りで、その対比を楽しめる。茄子と豚を噛むと出るスープと肉汁を舌で味わうと、味噌の渋みとピリリとした辛みがやってくる。
このスープでは海藻と炒った小魚を使ったベースのスープも大事だが、胡麻油を吸った茄子や豚の肉、ニンニクなどの個性豊かな食材を味噌がまとめあげていることにリックは気付く。そして、そのまとめ上げた味が濃厚で、ごはんが欲しくなる。
我慢できずに、リックは箸を持って白く輝くごはんを掬って口に入れる。
白いごはんはふんわりと炊き立て特有の香りを放っていたのだが、麻婆汁のあとには口に残ったスープの香りや豚肉の旨味が白いご飯の隙間に染み込んでいき、噛めば広がるやさしい甘さが包み込んで消えていく。
「うまいっ!このスープはうまいっ!
スープだけでごはんを食えるじゃないか!」
思わずリックは声に出してしまうのだが、その声を聴いたクリスがリックの前にやってくる。
「『たまごの朝食』と『野菜の朝食』は、食べるお味噌汁なのよ。
美味しいでしょ?」
たまごの朝食でだし巻きなどを出すにしても、おかずとしてのボリュームが足りない。
そこで朝めし屋では、野菜の朝食とたまごの朝食には食べる味噌汁を出すことにしている。そうすることで、肉料理や魚料理とおなじくらいのごはんを食べることができるからだ。
「ああ、うまい!」
リックはまた麻婆汁を掬って食べると、追いかけるようにごはんを口に放り込む。
たまに口に入れる漬物が舌を休めると、また麻婆汁を口に入れてごはんを食べる。
「はい、ごはんなのっ」
いつの間にか掃除を終え、店内に戻ってきたシャルがごはんが入ったお櫃を持ってきてくれた。
「ごはんはおかわり自由なのっ。いっぱい食べてね」
カウンターの横からお櫃を置くシャルを見ると、とても細い腕をしている。その細い腕で、お櫃を運んできてくれたことを考えると、リックはつい笑顔で頭を撫でてしまう。また、シャルも嫌がることはせず、嬉しそうにそれを受け止めている。
「なんだ、帰るところができてるじゃないか……」
リックは、ポツリと独りごちった。
麻婆汁とごはんのルーティンも、シャルがお櫃を持ってきたことでちょうどいい具合に中断された。
次は、まだ手をつけていない、だし巻きだ。
四角い皿にドデンと横たわるだし巻きの隣には、大根おろしがこんもりと盛り上げられていて、その隣には先がピンクに染まった根生姜が置いてある。
リックが顔を近づけてそれが何かを確認しようとしていると、クリスの声が聞こえる。
「あ、その白いものは、『大根』よ。『醤油』を少しかけて一緒に召し上がってくださいね」
リックははじめてこの店に来た時に漬物につけた調味料を思い出し、大根おろしの上に少し垂らす。
そして、白い大根おろしが少し茶色に染まると、箸で少し崩し、だし巻きに載せて持ち上げる。それはとても柔らかく、ふうわりと焼き上げられていて、せっかく載せた大根おろしを落としてしまいそうなほどに、プルルンと揺れる。
そのだし巻きを口に入れて噛むと、ジュワァッとスープが飛び出してくる。焼き上げるときに、海藻と魚のスープを閉じ込めていたようだ。
すると、仄かにたまごの風味がするのだが、生臭さは感じない。逆に、大根おろしにつけた醤油の風味が、卵の風味に力を与えている。また、そのスープには味噌汁とは違い、鰹節が使われており、たまごの風味を壊すことなく、引き立てている。
舌の上に広がったスープには海藻と醤油のグルタミン酸、魚のイノシン酸が相乗効果を生んでいるのだが、そこに卵黄がもつ脂肪分が加わることで、更に味に力が加わる。口の中で旨味を感じる部分、脂肪を感じる部分、塩味を感じる部分が刺激されると、そこに足りないものを本能が求めだす。
リックはごはんを箸で掬うように持ち上げると、だし巻きを追うように口の中に放り込む。
ごはんの持つ熱が、口の中に残っただし巻きたまごの風味を蘇らせると、そこに甘みを加えて一つの完成した味わいを作り出して消えていく。酸味と苦味は人間の本能が避けるためにあるというが、それ以外の味覚だけを刺激するこの組み合わせは、とても上品だが、身体に美味さが染み込んでくる。
昨日は散々だったが、今日は最高の一日になりそうだ
リックは心の中でそう独りごちると、麻婆汁とだし巻きを心ゆくまで楽しんだ。