麻婆汁(1)
薄いガラスでできたグラスと、分厚いグラスでは同じ水でも味が全然違って感じられます。
とても美味しくなるんだけど、すぐ割れるのがつらいです……
あるBARのお客さんは、かみ砕いた人がいるとか聞きました
居住区はゴミや排泄物がそこらじゅうに溜まっていて、とても不衛生な場所だ。
トイレという明確なものは無く、多くの人々は壺の中に用を足し、溜まれば窓から捨てる。生ゴミも同じような扱いであったため、特に人が多く住む居住区は、それらの汚物が腐敗し、発酵し、異臭となって漂っている。
「このあたりにもいないのか……」
その男は、鼻につく匂いを少しでも軽減するため、布を鼻に押し当てて歩く。
昨日の朝、門兵である彼のところに現れた一人の少女は、街道を一晩じゅう走り続け、フラフラになりながら彼の元にやってくると、虚ろな目で、アプリーラ村が盗賊に襲われたと言った。
彼が衛兵長のところに少女を抱えて走り、少女の話したことを報告したところ、衛兵所は騒然となった。
ただの門兵である彼は何もできずにいたが、衛兵長からは少女の面倒を見るようにと指示された。
彼はあまりに痛々しい少女の姿をみて、水と食料を探しに少し離れた。そのわずかな間に、少女は姿を消していた。
あのままでは死んでしまう……
彼は直感し、その少女を必死で探した。探し続けた。
交代の時間が来ると門のところに戻り、引継ぎを済ませる。交代した仲間にも少女の外見を教え、見つけたら知らせてくれるように頼んでおくのだが、彼は朝食を摂るのも、仮眠をするのも忘れ、街の中を探し続けた。
だが、日中は少女の姿を見つけることができなかった。
マルゲリットの街は、大門がある交流街、人々が住む居住区、宗教施設や行政施設などがある行政区の三つの区画に分かれている。
彼は、今朝もひとりで街に出て、少女を探す。
衛兵長から面倒を見るように言われたからではない。少女のことが心配でたまらないのだ。
彼はまた交流街に戻り、まだ探していない場所はないかと歩きはじめる。
明日になればまた門兵の仕事が待っているので、今日一日探したら諦めるしかないと彼は思う。だが、もし少女が行き倒れていたとしたなら、それは自分のせいかも知れないと考えてしまう。
交流街から大門に向かう道を歩いていると、彼は声をかけられた。
「リックさん!おはようございます!」
声がする方向を見ると、そこには真っ白な髪を後ろに括り、とても美しい白い肌と瑠璃色の瞳、艶々と光るぷっくりとした唇をした少女、クリスが立っていた。前回会った時は豪著なエプロンドレス姿であったのだが、今日は薄紅色の服に白い布を巻いており、少し変わった履物をつけている。
「ああ、おはよう……」
リックは、クリスを見て挨拶を返すと、昨日はこの少女が働く店、「めし屋」が営業していなかったことを思い出す。
「そういや、昨日は営業していなかったな。休んでたのか?」
そんな軽い口調でつい声をかけてしまって、この少女が領主の娘であることを思い出し、慌てて言い直す。
「あ、きっ……昨日はお店をやすっ……休んでおられたのですか?」
クリスはそんなリックを見て、クスリと笑うのだが、いろいろと話をするには笑顔は厳しい。
だが、挙動不審なリックを見て緩んだ頬を引き締めるのはなかなか難しく、口調と共に笑顔になってしまう。
「そんな、畏まらないでくださいよぉ!リックさんらしくないですよ?
でもまぁ……いろいろとあって、昨日はお休みせざるを得なくなっちゃいまして……」
リックは自分もいろいろあったが、この店もたいへんなんだなぁと考えていると、朝二つの鐘が鳴る。
クォーンカーン……クォーンカーン……
クリスは店の引き戸を開くと、「めし」と書いた暖簾を取り出して掛ける。
グギュルルルゥゥゥゥウウウ……
先日まで通っていたこの店の前に来ると、リックの腹の虫が鳴きはじめる。
何よりも、昨日はほとんど食べることもせずに少女を探し続けていたのだし、今朝もまだ食事はとっていない。
そして、その腹の虫が鳴く声に、クリスは敏感に反応する。
「ああっ!リックさん、ごはん食べていきます?」
リックは腹を空かしてはいるものの、恐らく自分以上に腹を空かせているであろう少女のことを思い出すと、そういう気にもなれない。
ガララッ
その時、店の引き戸が開くと、元気のいい女の子の声が響いた。
「お掃除交代するのっ!」
店の中から、ワンピース姿の少女が飛び出し、クリスに抱き着いた。
リックはその少女を見て驚く。
昨日、フラフラで歩いてきた少女の面影があるのだが、髪の色や肌の色も少し違い、あまりにも様子が異なる。肌艶はクリスと変わらないし、声も動きも、ここまで元気になるはずもない。昨日の今頃はいつ死んでもおかしくないと思わせる状況だったのだ。
だが、リックは次の一言でその少女が探していた娘であることを確信する。
「あっ! 昨日の門兵さんなの! 昨日はありがとうなのっ!」
リックは膝から崩れ落ちるようにへたり込むと、安堵の声を漏らす。
「よかった……」
クリスにはリックの咽び泣く声がわずかに聞こえていた。
リックは落ち着くと、腹も減っているので朝食を食べたいと店内に入ってきた。
「おはようございます」
「シュウさん、おはよう」
とてもいい香りのするクリスに一方的な好意を持っていたが、シュウがクリスの夫であると聞いて落ち込んだことなどリックはもう忘れている。
思い込みが激しいところもあるようだが、忘れるのも早いというのはなかなかに良い個性だ。
「それにしても、あの子がこの店で助けられていただなんて、知らなかったよ。
昨日は一日中探してたんだぜ?」
リックは昨日、城門前でシャルに会ったこと。衛兵所に連れて行ったこと。気が付いたらいなくなっていてすごく心配したことなどを、料理を注文することさえ忘れて一気に話した。
確かに、シャルを保護した時点で衛兵くらいには報告すべきだったかもと、シュウとクリスも反省する。
「いや、本当に申し訳ない。とにかく、危ない状態だったから救命することで精いっぱいで……」
シュウはその時の状況を振り返り、素直に謝る。
クリスも申し訳なさそうな顔をしているのだが、ずっと話し続けていたリックにおしぼりを出すタイミングを失っているようだ。
「でも、あの状態からあそこまで元気になるものなのかい?
まだ一日しか経ってないぜ?」
やっとクリスからおしぼりを受け取ったリックは、不思議そうに外で箒をつかって掃除をしているシャルを見て言う。
何度見ても、あそこまで回復できるのが信じられないようだ。それに、城門で会った時と比べて数万倍かわいいのは間違いないし、何よりもクリスと同じ匂いがする。
まだ十歳だから手出しはできないし、そのつもりもリックにはないが、あと五年経ったらどうだろうかと自信が無い。
すると、シュウは冷蔵庫から中身の入ったガラス瓶を取り出すと、その瓶の先についた栓を道具を使って外し、極薄のグラスと共にリックの前に差し出す。
「これはお詫び代わりのお酒です……」
緑のガラスでできた瓶には、ひし形の中に木の模様が浮き彫りにされており、なにやら文字らしきものも入っている。
「おっ!酒があるんじゃないか!
初めてきたときは無いって言われたぞ?」
リックもバカではないようで、最初にこの店に来た時の会話はしっかりと覚えているようだ。
確かに、お酒は無いかと尋ねられて、料理酒しかないと答えたことをシュウも思い出す。
「正直、あるにはありますが……
今日はおごりますが、普段ならそれ一本で銅貨一枚はいただきますよ?」
クリスは値段を高めに設定して話す。
このビールなら日本だと一本三百円程度なので、普段の値付けであれば三十ルダール(賤貨三十枚)というところだろう。
ただ、朝食はほぼシュウの道楽のために出しているモノなので利益はほとんどない。本来なら原価の三倍くらいは欲しいところだから、ちょうどいい。
たが、その飲み物の値段を聞いてリックは驚いて声をあげる。
「百ルダールかっ!
それは普段は頼めないな……」
リックが普段飲んでいる酒からすると、とんでもない値段だ。
極薄のグラスを持つ手が震えているが、おかまいなしにクリスが中身を注ぐ。
シュワァァアアアア
気泡が弾ける乾いた音がグラスから聞こえてくる。
リックは瓶の色から発泡性のワインかと思ったが、そこには香りが異なる小麦色の液体が注がれていた。
「それにこの食器はガラス製だよな……すごく薄い……」
異世界ではガラス製品は非常に高価で、貴族でもそんなにたくさん持っているものではない。
ただ、その貴族の持つガラス食器は、リックが持っているガラスのコップと比べると厚く重く、ゴツゴツとしている。
リックは極薄のグラスに注がれたビールを恐る恐る口元に運ぶと、泡を避けるように唇をあてて飲む。
麦芽の甘みと旨味、ホップの香りと苦みが口の中に広がり、シャルを探して歩き続けたリックの渇きを癒していく。
特に喉元を通る瞬間に感じる炭酸の刺激が心地よく、ゴクゴクと飲んでいても苦痛にはならない。
いま、自分の身体が求めていた水分を、自分の身体が求める最適な形で与えられている気がする。
「クァーッ!うまいっ!」
リックは一気にグラスの中身を飲み切ってしまうが、昨日の夜にシュウとクリスが使っていたグラスより小さいものなので、瓶の中身はあと一杯分は注ぐことができる。
「こっちはおつまみね」
シュウが置いた小鉢には、焦げ茶色で小さく、丸い、芋のようなものがたくさん入っていて、上からは塩が振りかけられている。
「『むかご』かっ、これって食べられるのか?」
「ええ、美味しいわよ」
リックはその小鉢に入った黒いものを手に取る。茹でてあるのだろうが、表面は乾いていてサラリとしており、本当に調理されているのか少し心配になる。だが匂いを嗅ぐと、今度はまた違う驚きの声をあげる。
「なんだ?!すごくいい匂いがする!」
「塩に刻んだ『トリュフ』がはいってるの」
平然とクリスが言うが、トリュフは超高級品だ。鶏卵ほどの大きさであれば、一万ルダール……金貨一枚分の値段がつくと聞いたことがある。リックは死ぬまで縁が無いと思っていた食べ物だ。
思わず手が滑って『むかご』が飛び出してしまうが、滑った先はリックの口の中だ。
トリュフは、よく肥えた土が育った森の匂いを、スパイスのように強くしたような感じの香りだ。とても強い香りなのだが、同じ森の産物である『むかご』のほっこりとした食感と塩によって強く感じる甘みとのバランスがとれている。『むかご』だけではただの土臭い食べ物かも知れないが、トリュフが気品を加えているかのようだ。
そこに、新たにグラスに注がれたビールを呷ると、麦芽の旨味とホップの苦みが舌を洗い流し、ホップの鮮烈な香りがトリュフの風味を忘れさせてくれる。
「カァーッ!たまらんっ!」
リックはそう声をあげたあと、空になったグラスを見て固まる。全部飲み干すと次はないので、残ったビールを大切に飲むつもりだったのだ。
だが、つい飲み切ってしまったようで、グラスを見つめて少し黄昏れている。
「ところで、アプリーラ村の様子はどうだったか知ってる?」
クリスがそう尋ねながらカウンターに座るリックの前に来ると、飲み終わったグラスと瓶を取り上げてしまう。
「ああ……」
少し名残惜しそうにグラスと緑の瓶を見つめて手を伸ばすリックだが、飲み切ってしまったものは仕方がない。
リックの切なそうな表情を見て少し呆れるクリスは、もう一度尋ねる。
「アプリーラ村の様子って聞いてる?」
二度目の質問でやっと我を取り戻したかのようなリアクションをリックは見せると、答えていいものかと少し考えを巡らせる。
よくよく考えると、クリスは領主の娘なのだから、直接領主に尋ねれば済むことだろうが、今から会いに行くのも面倒だろうと、知っている範囲のことだけ話すことにする。
「酷いものだったらしい。
老人と男はすべて殺され、女は弄ばれたあとに首を絞めたり、切り殺されて積み上げられていたそうだ。
特に酷いのは赤ん坊まで殺されていたことだろうな……
十五歳以下の女の子と、十歳以下の男の子は姿が無かったらしいから、どこかに売るために連れ去ったんだろう……
当然、金目のものはすべて奪われて何も残っていないし、家畜や穀物なんかもすべて持ち逃げされていたそうだ」
クリスは他の客がいないことを確認し、今度はビアサーバーから琥珀色のビールを極薄のグラスに注ぐと、リックの前に差し出す。
「そっかぁ……
シャルのご両親のことは知ってる?」
クリスはシャルからは直接聞き出しにくいことを教えてもらうため、リックを買収することにしたようだ。
初稿 2018/10/09
2018/10/09 誤字の修正
2019/04/29 食材の表現を変更、その他
むかごも美味しい季節です。むかごごはんもいいですね……
書いてるばっかりで最近つくってないなぁ…