しらす丼(2)
天馬亭を出て歩くこと五分。
ヘマは久々に家族で街歩きを楽しむことができてご機嫌だ。店の南側にある路地を東通りに向けて歩きながら、ゆったりとしたテンポの歌を口遊み始める。
「おかあさん、それなんの歌?」
ロラは初めて聞いた歌に興味を持つ。まだ七歳の少女はいろんなことを知りたい年頃なのだ。
「これはね――お父さんとお母さんが生まれ育った村の歌。大漁を祝う歌なんだよ。だから、このあたりに住んでる人は知らない歌じゃないかな」
「へえー」
「ふぅん、そんな歌があるんだね」
ロラは歌の素性だけを確認すると、もう興味を失ったようだが、イレネは別だ。いるもロラと遊んではいるが、九年間で初めて聞かされた母親の歌なのだから気になったのだ。
少しずつメロディを覚えたイレネとロラは、母親のヘマが口遊む歌にハミングを加える。
とても楽しそうな母娘の姿を見て、ウーゴはこれだけでも皆を連れ出してよかったとしみじみ思った。
◇◆◇
四人は天馬亭の南側にある路地を通り抜け、東通りへとやってきていた。
ここから居住区に向けて進み、一つ目の丁字路を右に曲がったところに朝めし屋がある。
ヘマは天馬亭では客室管理の仕事を担っていて、外出する機会があまりない。料理は賄いで済ませているし、洗濯と部屋の清掃などで一日の殆どを費やしてしまう。出産後の子育てに必要なものを手に入れるため、昼間に何度かこのあたりに来たことがある程度だ。かなり前のことだが、その頃に見た景色などをなんとか思い出し、ウーゴに尋ねる。
「あんた、このあたりに料理屋なんてあったのかい?」
中央通りもそうだが、街の中で建て替えなど滅多にあるわけもなく、通りの景色自体は殆ど変わることがない。それに、店を営むところは二重扉になっているから、店の中が変わっていても気が付きにくいのだ。
だが、それはウーゴも同じ。基本、天馬亭の牛肉や豚肉はグーリンス牧場産。野菜はデヴィッドから仕入れている。また、野生のウサギやシカの肉を買うのは猟師組合経由だ。つまり、ウーゴやフェデリコが街に直接買い付けに行く必要がないのだから、東通りまででかけてくることがない。
つまり、ウーゴも朝めし屋で海の魚を食べられることを知るまでは、滅多に東通りへと出ることがなかったのである。
「そうなんだよ、酒を出す料理屋などは西側にあるという印象だから、最初は俺もこの先に料理屋があるなんて考えたこともなかったんだが……」
地球でも東は日が昇る生命力溢れる方向、西は日が沈み死をイメージさせる方向。
それはこのコアでも同じで、西側は穢れた場所という印象を持つ者が多く、娼館や賭場、如何わしい占術の店、居酒屋のようなところ、理容外科医などが並んでいる。
もちろん、商業ギルドや狩猟組合、鍛冶や彫金などの職人ギルドなども街の西側にあるので、住民の印象が悪い店ばかりというわけではない。乾物屋のクォーレル商会も西側にあるのだ。
「じゃ、そのお店のことはどうやって知ったんだい?」
「そりゃ、お客さんだよ。ありゃ、どこの商団だったか……私も最初は半信半疑だったんだ。こんな内陸の地で生魚を扱う店があるなんて考えたこともなかったからなぁ」
「路地の先まで来るのは初めてかもっ」
イレネも両親の会話に入りたいのか、なんとか言葉を探して口に出す。
九歳という年齢で大人に囲まれた生活をしてきたイレネはどうしても背伸びしたいらしい。
「そりゃそうさ、イレネやロラにゃそこの路地で遊ぶのもまだ早いよ」
「そうだな、いくら東側とはいえ、子どもだけで絶対に安心できる場所はないからな……」
「私も来年で十歳だもん。平気だもん」
イレネは九歳。確かに来年には小さな大人として労働力を期待される年齢に達する。
だが、ウーゴとヘマにはセリオという後継ぎがいるのだ。二人はヘマに労働力というものは期待していなかった。
だが、イレネ本人は背伸びしたいのだ。
「そうだな――」
「それでも、十五歳になるまでは独り歩きは認めないからね」
「はぁい……」
十歳とは言え女の子。
如何わしい目的で攫われることも無いとは言い切れない。いくらマルゲリットの治安がいいとは言っても、絶対ではない。
ただ、イレネもそのあたりのことは宿泊客にもしっかり教え込まれているようで、素直に引き下がった。
丁字路に差し掛かると、東に向かう路地に四人が入る。
「おや、この通りはとても綺麗だねぇ」
「うん、ほんとに綺麗」
ヘマとイレネは汚物などが一切落ちていない通りを見て思わず声を上げる。
天馬亭の周辺はウーゴの使用人が清掃して回っているので同じように汚物などは落ちていないが、他の通りは酷いものだ。
だから、この辺りもそうだろうと考えていたヘマやイレネは驚きの声をあげたのだ。
「そうなんだよ……この店は七日に一回だけ休みの日があるんだが、その休みの日を除くといつもこんなにきれいなんだ」
「へぇ、そうなんだね……店の人は偉いねぇ」
ヘマがウーゴの解説に感心の声を上げると、今度はイレネが店先に並ぶ男たちを指さして尋ねる。
「ねぇ、あの人たちは?」
「いまから行く店は海の魚を出す料理屋なんだ。とても珍しいから色んな人が食事をしにくるんだ。早いもの順だから、並んで待つのがきまりごとなんだ」
「そりゃびっくりだねぇ、この街の人間があんなに上品に並んで列を作るだなんて……」
「そうだねー」
ウーゴは今から行く店でクリスが働いていることをヘマとイレネに話していない。
領主の娘であるクリスが中で働いているなどと言うと、「恐れ多くて入れない」などと言い出すからだ。
「で、あたしたちも並ばないといけないのかい?」
「いや、今日は事前に話を通してあるから要らないはずだ」
などと話をしていると、旧王城前の鐘の音が鳴り響き、朝二つの時間がやってきたことを知らせる。
するといつものように店の前にある引き戸が開かれ、クリスが暖簾を持ち上げて店先に掲げた。
「いらっしゃいませ。今から開店します――先頭の方からどうぞ」
クリスが先頭の客に声をかけて中へと招き入れる。そしてすぐ、次に並ぶ客へと声をかけ店の中へと案内していく。
よく見ると天馬亭でも付き合いがある穀物商のウォーレスも三人目に並んでいるし、四人目に並んでいるのはグーリンス牧場のヤコブ・グーリンスである。
順に入っていく客を見ていると、ウォーレスとクリスが話す声が聞こえる。
「今日はヤコブさんと少し商談をしたいんだけど、奥にある席をつかってもいいかなぁ?」
その少年のような高く澄んだ声は少し離れたところで様子を見ていたウーゴやヘマのもとまで聞こえてきた。
「ごめんなさい、今日は先約が入ってるのよ――」
クリスがウーゴの方をちらりと見たのがわかる。
「おはようございます、クリスティーヌ様」
「ヤコブさん、その呼び方やめてください。公私はしっかりと区別したいの、ね?」
「そうだよ、ヤコブさん。クリスはクリスなんだ」
エドガルドとの関係もあってヤコブは恭しく挨拶をするだが、ウォーレスは相変わらずマイペースである。
そのやり取りを見ていたヘマは店から出てきた少女が領主の娘、クリスティーヌであることに気がついた。
残念ながら、イレネはまだそこまでわかっていない。
「ちょ、ちょっとあんた……なんでこんなところにクリスティーヌ様が?」
「それは私も知らない――が、ここの店主は異国人らしいのだが、その男と関係があるらしい」
「いや、そういうことじゃなくてね――お、おとこ?」
ヘマは自分が今から入る店にクリスがいることに驚いていたのだが、何やら異国の男と関係があると言われて思考が吹っ飛んでしまう。ただ口を開けてパクパクしているだけだ。
「ここにいる間の私はただのクリスです。さ、どうぞ中に」
「うん」
「はっ、承知しました」
マイペースなウォーレスの高く澄んだ声と、ヤコブの渋みがある声が聞こえると、二人は店の中に入っていった。
――母さんの井戸端会議のネタは決まったわね
イレネはヘマがクリスのことを井戸端で選択するときの話題にしようと思っているだろうと予想する。だが、ウーゴも同じことを考えていたようだ。
「変な噂を立てるんじゃないぞ。クリスティーヌ様に迷惑をかけたらエドガルド様が黙っていないからな」
「え、ええ……もちろんよ」
ウーゴとしては変に噂が広まって、朝の「魚朝食」の競争率が上がるのを避けるつもりだったのだが、ヘマが意外にも素直に話をきいてくれたので安心する。
◇◆◇
店頭に並んでいた客のうち八人が店内に収まったのを確認したウーゴが店の軒先へと二人を連れて進むと、クリスが店内から戻ってくる。
「ウーゴさん、おはようございます」
クリスがいつもと同じように元気のいい挨拶をしてみせる。
「ああ、おはよう」
「おはようございます。ウーゴの妻――ヘマでございます。そしてこちらは娘のイレネ、そしてロラでございます。今日はこのように姫様とお話ができるとは思っても――」
「ヘマさん、この店は私が好きでやっているの。だから、私はただ店で働いている人。このあたりにある店の店員を呼ぶときのように、クリスと呼んでください」
「――で、でも」
このような事態になることを想像していなかったヘマは、なかなかクリスの言葉を受け入れられない。
貴族といえば何か粗相があれば平民の命など簡単に奪うことができる権限を持っているのだから、心配なのだ。
一方、残念ながらイレネとロラはいまこの場で初めてクリスに会った。
二人とも、この街を治める貴族がいて、そこに娘がいることくらいは聞いて知っている。ただ、秋と春の祭の行事で遠目に見る機会があっても、家が宿屋という職業なので見に行けないのだ。
「お姉ちゃんは、姫様なの?」
ロラが無邪気にクリスに尋ねる。
「そうよ、だから失礼のないようにしなさい」
貴族によっては自分が住む街の領主の娘なら顔くらい覚えておけと、首を切っていても不思議ではない。
だが、幸いなことにクリスは全く気にしていない。
「うーん、お城にいるときはそうなのかも知れないけど、このお店の中ではただのクリスなの。お姉ちゃんって呼ばれるのは少し恥ずかしいかな」
慣れない呼ばれ方をして、クリスが少し照れながらロラの頭を撫でる。
だが、それを見ていたイレネは、他にいい呼び方が思い浮かばない。
――とってもきれいな人。こんなお姉ちゃんがほしいな。
イレネは思い切って、自分の思った通りの呼び方を試す。
「じゃぁ、クリスお姉ちゃんでいいかな?」
「――う、うん、そうね。そんな感じかな」
なんといえばいいのかクリスもわからなくなったのか、嬉しさと照れを隠すような笑みを見せる。
もちろん、ヘマはそれを見ながらハラハラとしているのだが、ウーゴは全然心配していない。
普段、この店に通っていればクリスがこの程度のことで目くじらを立てて怒るような人物ではないことを知っているのだ。
「それじゃ、中へどうぞ」
クリスが四人を店内へと案内する。
ウーゴはヘマを先頭にして自分は最後に回って中へと進んだ。恐らく、ヘマが逃げ出したりしないようにするためだ。ヘマの様子を見ていれば、それくらいやりかねないと心配になったのだろう。
店の中に入ると、先に店に入った男性八人が四人の方へ一斉に振り返る。
視線そのものに怒気や畏怖のようなものは一切含まれておらず、何も心配する必要はないのだが、注目を浴びるというのは慣れなければ恥ずかしい。
つい、ヘマは尻込みしそうになってしまう。
「もうっ――」
ウーゴは気を配って後ろを歩いているが、イレネとロラはふたりの大人に挟まれた形だ。
ヘマが動かなくなると挟まれて潰されると思ったのか、イレネはヘマの尻に両手をついて後ろから力いっぱい押した。
もちろん、イレネの力ではヘマを動かすことなどできないが、ヘマも後ろにイレネがいることを思い出して少しずつ前へ進む。
「いらっしゃいなの」
「らっしゃい」
カウンターの中に入って客に湯気の出るおしぼりを渡して歩く少女、厨房の奥にいる男の声がする。
イレネはヘマのお尻を押しながら、カウンターの中の少女に目を向けた。
自分と同じくらいの身長をした金灰色の髪をした女の子だ。
イレネは後ろを向いて小声でウーゴに確認する。
「あの子?」
一瞬、なんのことかとシャルを見ると、ウーゴも宿を出る前に話したことを思い出し、先ず首肯する。
「そうだ、この街の子じゃないらしいし、遊び相手になってくれるかも知れんぞ」
「そうだね」
ヘマのお尻を押しながらイレネが答えると、四人席の前に到着した。
ヘマとロラ、ウーゴとイレネに分かれて座る。
「変わった内装だねぇ」
「そうだな。俺もここに座るのは初めてだから少し驚いたよ」
ウーゴが経営する宿屋には食堂がついている。
たくさんの宿泊客が一度に食事をするので食堂は広く、カウンター席などは一切ない。
テーブルと椅子がたくさん並んでいて、宿泊客は空いたテーブルに座って食べる――それだけだ。
一方、この店のレイアウトはカウンターが八席と四人掛けのテーブル席だけ。
「だが、料理だけ出す店ならこれぐらいが丁度いいかも知れん」
「そんなもんかねぇ……」
ヘマは店の中、全体を見るように視線をぐるりと巡らせる。
それに釣られたのかイレネやロラも一緒に視線を送ると、厨房の方からシャルがやってきた。丸盆の上にお茶が入った湯呑を四つ、漬物が入った焼締めの四寸鉢が乗っている。
丸盆をテーブルの上に置くと、シャルはウーゴ、ヘマ、イレネ、ロラの順にお茶とおしぼりを出し、中央に漬物が入った四寸鉢を置いた。
「今日のお漬物、『白菜』と『キュウリ』、『茄子』なの。ごゆっくりどうぞなの」
シャルはペコリと頭を下げる。
金灰色の髪が揺れて、薔薇や林檎、ベリーの香りがふわりと漂う。
「まぁ、いい香り。これは?」
ヘマが思わずシャルの髪の匂いに反応する。女性ならほぼ必ず好きな匂いといってもいい少し甘い香りだ。
イレネもその香りを嗅いでうっとりとした表情をしてみせる。
「あ、髪の……匂いなの。せっけんの匂い……」
初めて会う大人の客には少し警戒――人見知りするシャルは言葉に詰まる。
だがウーゴにしてみれば、家族を紹介するいいチャンスだ。
「シャルちゃん、こっちは妻のヘマ。こっちは――」
「娘のイレネ! よろしくね」
「ロラです」
突然家族紹介が始まり、シャルはその小さくてかわいい顔を強張らせる。だが、同じ歳くらいの女の子から声がかかると違うようだ。
「シャルなの。よろしくなの」
「シャルちゃんは確か――何歳だっけか?」
ウーゴはシャルに年齢を尋ねる。シャルの年齢を聞いたことがあるような気がするのだが、自信がなかったのだ。
「――えっと、十歳なの」
「あ、じゃぁお姉ちゃんだね。私は九歳だよ」
「私は七つ」
「ふふ、またお姉ちゃんができたわね」
子どもたちの、子どもらしい会話を聞いて朗らかな気分になったのか、ヘマが中に入る。
「じゃ、シャルおねえちゃん?」
「シャルおねえちゃん」
「――えっ!? あ、あの……」
急にお姉ちゃんにされてしまい、シャルは気が動転する。
アプリーラ村にも子どもたちはいたが、母親のアルレットは病気。食べものを得るにも働ける者がおらず、厄介者扱いされてきた母娘だったのだ。
当然、自分よりも年下だからという理由でお姉ちゃん扱いしてくれる子どもなどいるはずもなかった。
シャルにとって、初めてできた年下の友だちだが、どう扱えばいいのかわからない。
「――シャルちゃん、お願い」
そこにカウンターの方からクリスの声が聞こえてくる。
料理の準備ができたのだろう。
「あ、またあとで来ます……」
シャルはイレネとロラに向けてそう言ってその場を離れた。
「恥ずかしがり屋さんね」
「恥ずかしがり屋さん」
その慌てたようすに、イレネが漏らせば、ロラがそれに倣って続けた。
◇◆◇
シャルが厨房へと戻ると、入れ替わるようにクリスが料理を運んできた。
最初に料理が提供されるのはウーゴとヘマである。
座席の奥に座ったウーゴとヘマにそれぞれ丸盆が差し出される。
いつものように左手前には陶器の飯茶碗。
白いごはんは炊きたて。そして、白い湯気がもくもくと立ち上っている。
右手前には味噌汁椀。
今日の味噌汁は水飴が入っていない麹のうまみたっぷりの白味噌に、二年以上寝かせた赤味噌の合わせ味噌。
具は大根と油揚げ。半透明で出汁を吸った大根、きつね色に揚がった油揚げも大根に負けじと出汁を吸ってふっくら丸く太っている。そこに刻んだ九条ネギが鮮やかでとても美味そうだ。
焼締めの半月皿に乗っているのは、背中の色が青く、黒い模様が入った魚だ。
中まで火が通りやすいよう包丁で切れ目が入れられている皮の部分は、塩がこびり着いた状態で焼き上げられ、ところどころが金色に、そして茶色く、黒く焦げ目がついている。
隣には生姜の芽、そして白い雪山のような大根おろしが魚の身に寄り添っている。
ヘマは暫くその半月皿を眺めていたが、十数年ぶりに見たその魚の名前を思い出して嬉しさのあまり声を震わせる。
「こ、これは『鯖』の塩焼きね! なんて懐かしい……」
「ああ、この香り……懐かしいな」
ウーゴもとても嬉しそうに声をあげる。
「ああ、この香り……本当に久しぶりっ」
ヘマは思わず皿を手に取り、鼻の前で掲げて匂いを嗅いだ。最後は口から涎をこぼしそうになりながらその喜びを言葉にした。
次回投稿は 10月18日 12:00 を予定しています。