西岡 ひろふみの件 その1
その弐 西岡 ひろふみの件
1995年秋、ひろふみは、ハイパー日輪を小倉で乗り継ぎ、新幹線で東京を目指していた。
新幹線の指定席に腰を落とすと、少し緊張感が解けた。
ひろふみは、高校をでてすぐ、大分のとある食品関係の会社に就職していた。会社といっても従業員数名の瓶詰会社である。
大分の宮崎寄りにはいくつかの清流が日本でも指折りに入る鮎を育てていた。
その鮎を用いた鮎うるかは、大分で伝統的に作られる珍味のひとつであった。
ひろふみの会社は、その瓶詰めを古くから作り主に地元の土産物店や地元のスーパーに下ろしていた。
少量ながら伝統的な作り方で、毎年固定客がおり、需要も安定していた。
ひろふみもこの会社に勤め40年、伝統の味を守る職人や、瓶詰めを手伝いに来てくれる近所の夫人とも良好な関係が続き、社長の赤嶺大吾にも全幅の信頼を得て、会社経営のほとんどを任されていた。
2年前、大吾が他界したあとも、伝統を受け継ぎ順調に会社は存続していた。赤嶺家のゴタゴタも終り、3ヶ月前大吾の実弟の息子である赤嶺剛志が、経営を受け継ぐことになり、ひろふみも安堵していた。
赤嶺剛志は、高校から東京の大学に進学して経済学を学んだあと、約7年東京で職についていた。幾つかの職を転々として、大分に1年前に帰郷していた。
2日前、剛志は会社を訪れ、ひろふみを呼びつけた。
30歳を少し超えていた剛志は、その若さにしては、しっかりした口調でこう言った。
『西岡さん、大吾の死後よくぞ会社を存続させてくれました。私は、東京でいろいろ学んで来たことを生かし、この会社を永続するべく、この会社を受け継ぐことにしました。』
剛志の言葉に、ひろふみは波を流して喜んだ。しかし、次に聞いた言葉は意外なものだった。
『大吾の経営は、失敗だったと思っています。これだけ長い間事業をして、ほとんど成長していない。経営者失格です。私が来たからには、この赤嶺商会を日本に名だたる会社にします。経営に関しては、私に任せて、貴方はまず、規模を大きくするため東京の百貨店を見てきて下さい。いかに我々の売り方が悪いかわかると思います。』
ひろふみは、大分のト○ワデパートにも少量ながら卸しているし、博多の百貨店にも、物産展で毎年出店して、好評だと主張したが、剛志が譲らなかった。
ひろふみは、不承不承引き受けたが、正直、東京に行って何かわかるとは思っていなかった。
この会社は、少量生産で伝統を守ってきたのだ。このままが一番良いと自信があったからだ。
しかし、剛志の熱意もただならぬものだし、確かに自分も勉強不足があるのだろうと思い、サンプル瓶50本を大きな鞄につめ豊肥本線から大分駅を目指した。
東京には、一週間いるつもりで、知り合いが一度泊まったことがあるという「素松屋」に電話をして予約をした。
新幹線が広島を過ぎたころ、一週間の準備に疲れたのか、ウトウトと眠りにおちていった。
その頃、赤嶺商会できゅうごしらえの社長室と、高価な机と椅子を準備した剛志は、深々と椅子に腰をおろし、あるファイルを見ながら、深々とため息をついた。
ひろふみを乗せたひかり号は、新大阪にさしかかっていた。
つづく