第9話 箱庭の崩壊
どうして、素直に頷けなかったのだろう?
もう何度も見て、見飽きる程眺めてきた夜空を見上げながら私は小さな声で呟いた。
後ろには、磐が少し離れて座っている。
「斎宮様」
「ごめんね、磐」
迷う必要など無かった筈だ。
すぐに頷けば、それで済んだはずなのだ。
なのに、なのに私はーー。
「あ、でも、ここに仕える皆はもう罪人じゃないんですって!だから、もう皆自由に生きられるよね?それに、斎宮に仕えていたから、きっと縁談だって沢山」
「私達は斎宮様にお仕えします」
「磐?……それは無理だわ」
磐を振り返れば、彼女は俯いたままだった。
「それは無理だよ。だって私は、斎宮を解任されるもの。新しい大王が立てば、古い斎宮は解任される。そして新しい大王にあった新しい斎宮が選ばれる。だから、私は」
「申し訳ありません、言葉が間違っていました。私達は音羽姫様にお仕えいたします」
「え?」
その申し出に、私は目を瞬かせた。
それはつまり、私自身に仕えたいと言ってくれているもので……何というか、嬉しい、うん、嬉しい。
「あ、ありがとう」
「お礼を言われる事はありません。これは私達の我儘なのですから」
「……磐」
「……本当は、ずっとここで暮らしたかった」
「磐」
「ずっとここで、穏やかに皆と共に静かに暮らしていきたかった。外の事を知る事なく、ずっと……」
「た、確かにここでの暮らしは……でも、外に行くのは必ずしも恐い事ではないわ」
私は磐の両肩を掴み、必死に言葉をかける。
「それに、ここには男性が居ない。私についてきてくれた事は本当に嬉しい。でも、もし大王が交代せずにもっとずっと長くその御代が続けば、その間此処に居る皆はずっと私に仕えなければならなくて、そうしたらここには男性も居ないから結婚も出来なくてーーって、あ、そもそも斎宮に仕える者達は結婚してたら駄目だよねーーじゃなくて!」
なんかめちゃくちゃになっているが、それでも必死に言葉を続けた。
「斎宮が解任されれば、仕えている者達も自由になれる。そしたら、結婚だって自由に出来るでしょ?もちろん結婚だけが全てでは無いけれど、罪人にされて、結婚どころか死にそうになって……でも、罪人じゃないってなって、私が斎宮でなくなれは自由に生きられる。結婚だって出来る。そう、都で自由に生活出来るんだよ?」
この閉鎖された空間で生きるよりも、ずっとずっと。
ここは穏やかで平穏なのは確かだ。
しかし、外と隔離されたこの場所は同時に酷く閉鎖的だった。
新しい物はなく、ただ決められた日々が繰り返されるだけ。
それはとても穏やかで、心安らかで。
でもーー。
「磐?」
「……分かってます、本当は分かってます。いつかはここから出なければならないのだと」
「……」
「でも、でもっ!私達には、私には……そんな資格なんて」
「資格?何の資格が必要だと言うの?」
「私は、私は卑怯者だから」
「磐?!」
慌てて磐を抱きしめた瞬間、私の中に強い物が流れ込んできた。
悲しい
苦しい
辛い
助けて
どこにもいけない
まるで感情の奔流。
それは私の中に渦巻き、そしてーー
悲しい
苦しい
辛い
助けて
「ーーっ」
磐だけではない。
彼女だけの物では無い。
私は室内を見渡した。
此処に居るのは私達だけ。
けれど、聞こえる沢山の声。
それが、この宮に勤める者達のものだと、私は気づいた。
「なん、で」
こんな事は初めてだ。
けれど、それが磐達が押し殺そうとしているものだと気づいてしまった。
斎宮だから?
私は自分の手を見る。
斎宮は神に仕え、この国と大王の御代の安寧を祈る。
それでも、私は才能があって斎宮になったわけではない。
大王に、先代の大王に疎まれた結果、この場所に送られた。
偽りの斎宮
何の特技もないのだ。
神の声を聞くなんて出来やしない。
それでもーー
神の声は聞こえなくても、それよりもずっと大切な声を聞けた。
「我慢していたんだね」
「……ごめんなさい」
いつも気丈で弱音を吐かない磐の弱々しい声に、私は安心させる様に笑った。
未緒は必死に逃げていた。
体を包むのは、薄い夜着一つで酷く心許ないが、今はそれについてどうこう言っている暇は無かった。
「渚ちゃん、渚ちゃんっ」
自分のせいだ。
自分のせいで、渚まで巻き込んだ。
未緒は自分に降りかかった事が上手く理解出来ていなかったけれど、それが酷く痛くて恐ろしくて恐い事だという事は理解出来ていた。
嫌だと騒いだのにやめてもらえなかった。
やめてとお願いしても、受け入れてくれなかった。
もう、他の所にお嫁に行けないのだと言われたけれど、だからといってあの人の所には行きたくない。
恐い、あの人と一緒に居ると恐い事が起きる。
早く、あの温かな場所に帰りたい。
渚と一緒に帰りたい。
「渚ちゃん、渚ちゃんっ」
渚を探して未緒は走る。
早くしないと追いつかれる。
今まで何度も逃げだそうとして捕まってきたのだ。
未緒は追われる恐怖を必死に振り払いながら、渚を探して走り続けた。
自分と一緒にこの屋敷に連れてこられたのは覚えている。だから、きっとこのどこかに居る。
「渚ちゃ」
「未緒?」
泣きながら渚を呼ぶ未緒の耳に、渚の声が聞こえてきた。
「渚ちゃん?!」
声が聞こえてきた場所に向かうと、そこには大きな扉があった。けれど、引っ張っても押してもびくともしない。
「渚ちゃん!」
「未緒、無事なの?」
「渚ちゃん、帰ろう!斎宮様の所に帰ろうっ」
「……私は、無理」
「渚ちゃん?!」
「足に鎖が……でも、未緒はここまで来られたのなら大丈夫。未緒だけでも逃げなさい」
「やだ!渚ちゃんと行く!」
「お願い、我儘を言わないで」
「やだやだやだ!渚ちゃんを置いていけない!私のせいなのにっ!渚ちゃんまで連れてこられたのは私のせいなのにっ」
未緒は扉をバンバンと叩いて叫んだ。
周囲に気づかれる事なんて頭の中からすっ飛んでいた。
「違う。未緒のせいじゃないわ」
確かに未緒を探しに行って捕まったけれど、渚は未緒のせいだとは思わない。だって、未緒を探すという選択肢を選んだのは自分なのだから。
「一緒に逃げよう、渚ちゃんっ」
「……」
「斎宮様の所に帰ろうよ」
帰りたい
帰りたい、あの場所に
けれど、もうーー
斎宮様に仕えるのは、清らかな乙女でなければならない。
現在、斎宮様に仕える者達の中にその資格を持つ者達はどれだけ居るだろうか?
いや、そんなのはもはや関係ない。
だって、元々私達は罪人なのだから。
けれど、いくら清らかな乙女でなくても、だからといって新たに穢れて良いわけではない。
渚は、自分の体を見た。
薄い夜着の下ーー何度も黄牙の欲望を受け入れてきた体は、もう。
「未緒、お願い。私達だけではきっと逃げ切れない。だから、先に行って助けを呼んできて」
「渚ちゃん」
「そうしたら、きっと助かるから」
そう言いながら、それが嘘だと自嘲する。
けれど、未緒だけでも逃がす為にはそう言うしかない。
彼らは斎宮の宮に居る者達全てを狙っている。
自分達を人質に、斎宮の宮に居る者達をあの場所から引きずり出すかもしれない。
そうならないように、せめて、何があってもあの場所から出ないように伝えないと。
「未緒、今から言う事を」
「きゃあぁぁぁあっ」
悲鳴が上がる。
「未緒?!」
「ああ、未緒様、こちらにいらしたのですね」
「未緒様、未緒様、さあお戻り下さいな」
「いやあぁぁぁあっ!離してっ!やだあっ!」
泣きじゃくる未緒が激しく抵抗する音が聞こえる。
自分達付きの世話係として仕えている女性達の声だと気づき、渚は叫んだ。
「未緒!未緒、逃げて!」
「ああ、なんだここに居たのか」
「ひっ!」
「っ?!」
未緒が息を呑むのが分かった。
その後、悲痛な悲鳴と共に未緒が彼に捕まったのが分かった。
「未緒、未~緒、見つけた。一人で出歩くなって言っただろう?」
「離して!来ないでっ!帰してよ、宮に帰してっ!」
「それは駄目。でも寂しくないから。すぐに、他の皆も来るから大丈夫だ」
「……私の、せい?」
未緒の小さな呟きに、渚が違うと叫ぼうとした。
「未緒のおかげだよ」
何かが壊れる音が、渚の耳に届いた。
それが、未緒の心が砕けた音であると気づくのは、それからもう少し経っての事となる。
「今、なんと?」
「ですから……都には行けません」
またあの謁見の間で、私は黄牙と向き合っていた。
そして、私が出した答えに黄牙は目を見開いたまま黙ってしまった。
そりゃそうだろう。
ほぼ決まりかけていたーーというか、大王からの命令を私は断ってしまったのだから。
「……大王のご命令を拒絶するという事ですか?」
「……」
どこから見ても、拒絶したとしか取られないだろう。というか、実際に拒絶している。
それはこの国に生きる民としては許されない事だった。
それでも、私はーー。
「その理由をお聞かせ願っても宜しいでしょうか?」
叱責されてもおかしくない。
罵られてもおかしくない。
なのに、こちらの話を聞こうとしてくれる黄牙に、申し訳なさを感じる。
それでも、譲れないものがある。
「斎宮を、続けたいのです」
「……」
「新しい大王が立てば、先の大王が選んだ斎宮が解任されるのは分かっています。けれど、長い歴史を紐解けば必ずしもそうではありません。先の大王から続けて、新しい大王の代も同じ斎宮が続けてその任に就く事も過去にはありました」
「それは、適任者が居ない場合です。ですが、此度はそうではありません。何せ、先の大王は沢山の子供を持って居ましたからね」
「それでもっ!」
私は必死に言いつのった。
「そ、それに、斎宮ともなれば色々と厳しい戒律がありますし、何よりも結婚出来ません。年若い皇女には酷な話です。それならば私は」
「だからといって、貴女が犠牲になる必要がどこにあるのです」
「それは……いえ、犠牲だなんて思いません。私は、私は自分で望んで」
「嘘だ」
「っ?!」
黄牙の笑みが、ぐにゃりと歪んだ様に見えた……一瞬だけ。
「嘘ですね、それは」
「嘘じゃ」
「斎宮に仕える者達の為ですか?」
「……」
黄牙はやれやれと言った様に首を横に振る。
「本当にお優しい斎宮様。けれど、貴女は優しすぎます」
「……」
「その優しさはある者達には良いでしょう。ですが、それ以外の者達を酷く苦しめる」
「苦しめ……」
「そう、彼女達の帰りを待つ者達の心を」
「帰り、を?」
「ええ。罪人だろうとなんだろうと、彼女達の帰りを待つ者達は居るのですーー私もその一人」
「黄牙、も?」
はいーーと、黄牙が微笑む。
「どうか、彼女達の帰りを待つ者達の為にも、その様な我儘を言わないで下さい」
「我儘……」
「そうです。優しい我儘ですがね」
自分の決意を我儘と言われた私は、言葉に詰まる。
我儘、なのだろうか?
泣きじゃくる磐達の為を思う私の気持ちは。
確かに、彼女達の帰りを今も待ち続けている者達が居るならば、私のやろうとしている事はその人達を悲しませる事になるだろう。
ようやく帰ってこられる様になったのに、また何年もーー今度は今の大王が退位しない限りずっと続くのだ。数年なんて単位ではない。
兄の年齢が間違っていなければ、その在位はきっと長く続く。
色々と恨まれていた父とは違い、黄牙の言葉からも兄は多くに望まれた大王だ。
だから、その斎宮となれば、私は、私達は。
死ぬまでここから出られないかもしれないーー
「どうか、一時の想いから先を見誤らないで下さい」
「私、は」
「貴方様はお優しすぎる。ああ、本当にーー純粋で優しいお方だ。だからこそ、都にてお守りしなければ。この様な辺境の地に貴方様の様なお方は合いません」
「……」
何も心配する事はない。
そう告げる黄牙の声は、思わず頷いてしまいそうな程の力を持っていた。
頷いてしまえば良い。
一体何を心配するのか?
一体何を不満に思うのか?
磐達が泣いている?
磐達が怯えている?
それでも、長く外の世界と切り離されていたからで、少しずつ、少しずつならしていけばきっと彼女達も分かってくれる筈。
頷け
頷いてしまえ
頷いてしまうべきだ
「私、は」
頷け
頷いてしまえ
頷いてしまうべきだ
なのに
「……私は」
「貴方様が斎宮を続けるとして、未来ある者達の時間を奪うつもりですか?」
「っーー」
「中には、貴方様を慮っている者達も居るのでは?斎宮様の意見には従わなければならないとして」
「……それ、は」
「どうかご理解下さい。貴方様が尊く、そして貴方様の意見一つで多くの者達の未来が変わる事を」
私の、意見で
「貴女の、せいで」
私の、せいーー
「やめて!」
それまで部屋の隅で控えていた磐が、私を庇う様に飛び出してくる。
「音羽姫様を苛めないでっ」
「苛めるなどとは心外ですね」
「姫様、姫様、もう十分です」
「磐」
「もう、良いのです。ありがとうございます、ありがとうございます、姫様」
「磐、私は」
「良いんです、もう」
そう言いながら、必死に流れる涙を堪えようとする磐に、また私の中にあの奔流が生まれる。
磐の、皆の、心の声が。押し隠し押しつぶそうとしている、その声が。
ここに居たいーー
「斎宮が解任される際、一つの願いが叶えられると聞きました」
「斎宮様?」
それは、まだ幼い頃に斎宮という職について説明された時に聞いた事。
そうーー大王によっては、人生の殆どを斎宮として費やす姫君の為に、たった一つだけ大王はどんな願いでも叶えるとされる。
それは、私にも有効なはずだ。
「私達がここに残って暮らす事を許して頂けるようにお願いします」
その願いは、叶えられるはずだった。
新しい斎宮が来たならば、その宮の為に仕えても良い。いや、仕えてきちんと仕事をする。私だって仕事をする。
だから、この場所にーー。
「ーーそれが、貴方様の嘘偽りない気持ちですか」
一気に冷えた声音に、私は気圧されそうになる。けれど、今だけは譲れない。
「はい」
その答えが、どんな結果を導くかもその時の私は分かっていなかった。いや、分かっていたとしても、果たして対処のしようがあったかどうか。
「……出来れば、使いたくなかったのですがね」
「ーーえ?」
思わず見惚れる様な笑みを浮かべた黄牙に、私がキョトンとしたその時。
謁見の間の入り口ーー扉が破壊され、数人の男達が侵入してくる。
「何を!」
「この国において、大王の命令は絶対です。貴女様には何が何でも来て頂きましょう」
「やめーー」
「そう、この宮に仕えている者達全てを伴って」
男達が私達を捕えようとして近付いてくる。
その光景に、私の脳裏に似た様な光景がよぎった。
「あ……あ」
「音羽姫様!」
磐が、私を庇おうとして前に立つ。
「傷付けずに確保しなさい」
黄牙が男達に命じる。それに従い、男達が動き出す。
「ーーっ!」
私を庇おうとした磐に男達の手が触れようとした瞬間、私は絶叫していた。
「ああ、なんと素晴らしい力です。これ程の力を、たかだか人の身で操るとは」
気づいた時、謁見の間とされるその場所は大きく変わっていた。
いや、壁は吹き飛び天井はなくなり、パラパラと木くずが落ちてくる。
そんな中、黄牙はクスクスと笑いながら立っていた。
「素晴らしいですよ、斎宮様。我が神に力を頂いていなければ、流石に防げなかった」
「あーー」
「さて、どうしますかーー」
黄牙が何かに弾かれた様に、後ろを振り返る。
粉塵が舞う中、黄牙が振り向いた先に人影が見えた。
それがゆっくりと、こちらに歩いてくる。
「まさか、貴方様がーーいえ、自ら足を運ばせてしまい申し訳ありません」
黄牙が恭しく頭を下げ、その前を一人の女性が歩いてくる。
女性ーーいや、少女?
年齢が若い事だけは分かるが、どのぐらいの年頃なのかはっきりとしない。
大人の女性が持つ円熟した色香と、少女が花開こうとする際の何とも言えない色香が入り交じった様なそれを纏ったその女性。
長く膝まで伸びた艶やかな黒髪はさらさらと歩く度に靡く。
煙る様な長い睫毛に囲まれた黒い瞳は黒曜石の様に輝いていた。
白く艶めかしい肌は、思わず吸い付きたい程の魅力を放ち、周囲を魅了する。
だが、何よりも美しいのはその美貌ーー
頭の先から爪先まで、髪の毛の一本までが完璧な比率の元に作り上げられた精巧たる美。
それはもう、神が造りたもう美の化身。
私はこれ程美しい人を見た事がーー
あれ?
何かが、脳裏に
身につけている華やかだが、清楚な気品を感じさせる衣装の裾と袖を翻しながら、まるで女王の様に周囲を圧倒する雰囲気を纏って彼女は歩いてきた。
彼女?
あれ?
そして、私の前にその存在が向かい合うようにして立つ。
「ふ~ん、相変わらずの不細工面だね」
「五月蠅いわね!!」
パンっと空気を切り裂く音を耳にした時、私の手がヒリヒリと痛んだ。
そこで私は初めて何をしたのかに気づいた。
「あーー」
「……はは、あはははははははっ!!」
「っ?!」
「やっぱり、やっぱりだ!!見つけた、見つけたああぁぁぁっ」
麗しい、それこそ皇后すら敵わぬ気品と高貴さを称えた女性が高らかと笑う。
「長かったよ、本当に」
磐が何かを叫んでいる。
けれど、私の意識は。
「ようやく見つけた」
その言葉を最後に、薄れていった。




