第57話 弟と兄
「それにしても、自分の息子を神に捧げるとはとんだ愚か者だねぇ」
白皙の美貌に妖艶な笑みを浮かべる光明に、臣下の青年は言った。
「大王だって、音羽姫を神に捧げてますから」
「あれは別だよ!!」
自分達の一族の繁栄の為に息子を捧げた愚かな女。
一方、光明の場合は妹の命を助けたいが為にその行為を行なったのだ。
「仕方ないだろう?神が、神の花嫁にしないと駄目だって」
「別に音羽姫の中に埋め込まれた神の力を取り出すだけなら、神の花嫁にしなくても良かったと思うんですけど、取り出し方は一つじゃないんだし」
「……」
今までその事に気づかなかったと言わんばかりの顔。
「でも、その時に気づいたとしても、絶対にあの神なら音羽姫を奪い取っていきましたよね、うん」
だってあの神、音羽姫の事をーー。
「そ、そうだよ!だから無理、無理、捧げるしかなかったんだよ!!」
「まあ、結果は同じでも、その経緯は違いますからね」
むしろ捧げなくて良かったのならばこの大王は捧げなかったと思う。そして神と喧嘩したと思う。
因みに、結果的にはきっと音羽姫はどんなに泣いて嫌がってもやっぱり神の物にされていたと思う。
臣下の青年は、神が音羽姫を見つけた時に見せた瞳に宿る狂喜と執着を今でも覚えている。神は見つけてしまったのだ。そしてそんな神に見つけられた事で、音羽姫の運命は決まってしまった。
彼女が本気で逃げるならば、神が来る前に全てを捨て、いや、自分の中の神の力をえぐり出すか、自らの命を絶つしかなかった。
それが出来なかった時点で、彼女は神の物になるしかなかった。
そして音羽姫自身は、神の力の源さえ取り出せば自由になれると思っている節がある。けれど、果たしてそんな儚い望みが叶うかどうか……。
運命は彼女にとっていつも残酷だから。
「あ、でも、音羽からは私が神に売ったとか捧げたとか思われているよね」
「安心して下さい、全力で思われてます」
上層部の女性の一人はきっぱりと言い切った。
「で、でも、他のろくでもない男に嫁がせるよりは神の方が優良物件というか」
確かに、最高の相手だろう。
美貌、能力、才能その他全てにおいて。
しかも、物凄く強い。
どうして阿良斗大王に捕まったのかが今でも不思議でならないぐらいに。
「恋愛偏差値はマイナス値ですけど」
「いや、それは女性とみたら見境無くあちこちに手を出す女好きじゃないというか」
「体の関係は恐ろしいぐらいありますけど、大半が男ですけど」
「しかも受けです」
他の女性陣も援護射撃した。果たしてそれが援護射撃か分からない。とりあえず、光明の心は激しく抉った。
「知ってます?音羽姫の好み」
「男らしい方なんですよ」
「それも筋肉むきむき系とか」
「色々とご苦労されましたから、こう包容力のある男性が好みなのも納得です」
「それ、誰から」
「磐長姫様達からです」
「恋愛ムキムキ話で盛り上がったそうです」
光明は絶叫した。
「ちくしょう!!筋肉なんて!筋肉なんて!!」
毎日両手を使った腕立て伏せ千回、片手の腕立て伏せ千回ずつ、指での腕立て伏せ千回、腹筋千回、正拳突き千回、蹴り千回、その他諸々の筋力運動を欠かさず行い、空いている時間は宮殿の敷地内を走り回り、重たい物だって自分の手で運ぶ努力家な光明。
しかし、どう頑張っても筋肉は付かなかった。
筋力と体力は馬鹿みたいについたのに。
「筋肉が恨めしい」
それは、上層部の男性陣一同の思い。ムキムキの筋肉など、もはや敵だ。
「諦めましょう」
「この私の中に諦めるとう言葉はないよ」
「人間の寿命には限りが有りますし、ある程度になると老化して筋力が低下します」
「その前にムキムキになるよ!!あと、磐長姫もムキムキ好きなの?!」
「……」
そんなの当たり前でしょう?ーーなんていう視線を女性陣に向けられた時のこの悲しみをどう表現したら良いだろうか?
なんかもう、室内に居る上層部男性陣の中には両手で顔を覆ってシクシクと泣き出している者達さえ居る。
「この世の中全てが筋肉で埋め尽くされれば良いと思います」
「っ?!」
特に筋肉好きな女性陣の一人がそう言う。
「わ、私達だって頑張れば筋肉の一つや二つっ」
果たして筋肉を一つ、二つと数えても良いのかは謎だが、今それについてツッコミを入れている暇はなかった。
「諦めましょう大王。人には向き不向きがあるのです」
「酷いっ!!」
とはいえ、大王の筋肉ムキムキな姿なんて想像出来ない。
「それに大王のムキムキ姿なんて、視覚的暴力です」
「暴力?!」
「一種の暴力の行使です、止めて下さい、絶対に。そしていつまでも筋肉量零のほっそりとした蠱惑的な肢体を持つ大王で居て下さい」
彼女は喧嘩を売っているのだろうか?それとも挑戦しているのだろうか?
そんな言い方をすれば
「見ていろ!いつか筋肉ムキムキになって、皆をあっと言わせてやるからっ」
「普通の人ならば筋肉がムキムキになる量の鍛錬を日々こなしていても無理ならば、これから先もきっと無理だと」
「無理じゃない!!」
そうして怒り出す光明に、臣下の青年は「あ、それじゃあ俺戻ります~」と一応声をかけて退室した。普通なら大王の許可が出るまでは留まらなければならないのだが、そういう所、現在の大王と臣下達の間では緩い所があった。
まあ、締める所はしっかりと締めているし、立場を弁えた行動も取っているので問題とか弊害は今の所は出てはいない。これから先もこの分だと出ないだろう。
廊下に出た臣下の青年は、そのままここに来るまでに歩いてきた道を戻っていく。そして、自分の所属する部署に顔を出し、上司からいくつかの指示を受けた後はこのまま帰宅を許される。
「久しぶりの帰宅だろう?」
「ええ」
五年間、あの一族を監視していた。
といっても、五年間ずっと張り付いていたわけではなく、数ヶ月に一度は自宅に戻っていた。ただ、今回ーー失ったと思われていた身内が戻ってきてからは、一月に一度は帰るようにしている。昔に比べればかなり頻回の帰宅だけれど、全然足りない。
あの一族の居る場所が王都から近い場所で本当に良かったと思う。
でなければ、移動だけで一苦労だ。
とはいえ、この五年で暗部組織の方もかなり力を取り戻し、更に新たな力をつけてきた事もあり、臣下の青年の力になってくれている。
だから、最初の頃に比べれば今はかなり楽になってた。
「ふふふ~ん」
今も、その場所では神が侵入者とドンパチやっていて、音羽姫もその渦中に巻き込まれているだろう。けれど、臣下の青年はそこには行かない。
自分が行く事で事態が悪化する事がある事を彼は理解しているからだ。
それに、見た目的には余裕のある表情を浮かべているが、徹夜も続く監視も長くなればそれなりに体力と精神力を削る。
今はもう、彼はただ癒されたかった。
自宅に戻ると、信頼の置ける使用人が出てくる。
使用人の数は少ないけれど、彼が自分の目で見て選んだ者達だ。
その中で最も古く、彼が信頼している相手が頭を下げて主を出迎えた。
「お待ちしておりました」
「ただいま。にーさんは?」
「はい、中庭に居りますよ」
その言葉に、彼は足早に屋敷の中庭へと足を向けた。
美しい花々が植えられた、屋敷の真ん中に作られた箱庭の様な中庭。広さは決して狭くはないが、それでも限られたその空間に彼の兄は居た。
「にーさん!」
「真仲」
「にーさん、にーさん!ただいまっ」
似てない兄弟だった。
本当に兄弟かと疑う者達の方が殆どだろう。
それ程に、似ている所のない兄弟。
弟は美しすぎた。
女性的な、というより殆ど女性にしか見えない美しく麗しい妖艶な美貌の持ち主だった。
反対に兄はどこまでも凡庸だった。
地味な容姿は、沢山の者達が居ればあっという間に埋没して分からなくなるぐらいに、ごく平均的な平凡過ぎる代物だった。
また弟が非常に優秀で非凡な才の持ち主である反面、兄は何をしても平均的であり、弟と並べばむしろ無能の盆暗扱いされる事の方が殆どなぐらいだった。
しかし、兄は常に人々の関心を集中させ、誰からも可愛がられる弟に嫉妬するのでもなく、憎むのでもなく、彼は彼なりに弟を可愛がってくれた。
両親の関心すら弟に奪われ、いつも一人きりを強いられ寂しそうにしてきた兄。
けれど、弟からすれば両親の愛など偽りでしかなかった。
本当に愛していたならば、どうして阿良斗大王に自分を売った?
一族の繁栄と引き替えに。
泣き叫ぶ彼を守ろうとしてくれたのは、兄だけだった。
ともすれば弟を憎んでもおかしくない兄だけが、彼を守ろうとしてくれた。
真仲は知っている。
赤ん坊の頃から、ずっと自分に複雑な気持ちを抱いていた兄を。
赤子の時から、いや、それよりも更に昔の胎内記憶を今も持ち続ける真仲は覚えている。
どんなに苦しんでも、辛くても、怒りを覚えても。
それでも、とっさにその手を差し伸べるのがどれだけ難しいのかを知っている。
兄は、必死に弟を憎まない様に自分を律し、そしてその手を差し伸べてくれた。
優しい兄、可哀想な兄。
そんなんだから、真仲みたいな欠陥品に執着されてしまうのだ。
別に真仲は兄を自分の物にしたいとか、兄と結婚したいとかは思わない。兄には兄を大切に思ってくれる女性と結ばれるべきだと思っている。別に男性でも良い。
ただ、真仲は兄がこれ以上傷つくのを良しとしない。
兄を傷付けるものなど、全て消えてしまえば良いのだ。
真仲もまた、兄が焼き殺されそうになるのを目の当たりにさせられた。いや、あの時は焼き殺されたと思っていた。
けれど、兄は無傷で戻ってきた。
全ての傷を癒され、大切に大切に保護され、そして真仲の手に戻ってきたのだ。
「にーさん!!」
兄に飛びつく。
身長だけは、兄の方が少し高い。
それでも男としてはそれ程高くもなく、体付きもがっちりとは言えないそれは兄の劣等感の一つだった。
首筋で縛る背中の中頃まである髪も、真仲に比べればゴワゴワとしている。
この国では、男も髪を伸ばしている者達が多い。
女性ほどではないが、髪の美しさは男性にとっての美男子の基準の一つだった。
兄は、悉く美男子の基準から外れていた。
それでも、真仲にとっては唯一のかけがえのない兄だ。
今もこうしてーー
「……お帰り、真仲」
色々と思う所はあっても、真仲に言葉をくれる兄の優しさに、彼は思いきり甘えた。
「にーさん、ご飯はきちんと食べてた?少し痩せたみたいだよ?」
「食べてるよ、ちゃんと」
「本当?顔色は……まあ、悪くはないか」
「俺の事は良いよ。それより、真仲はご飯は食べていたかい?色々と大変なお役目を貰っているんだろう?」
「俺の事を心配してくれてるの?にーさん大好きっ」
そう言って抱きつけば、兄は困った様に苦笑いを浮かべた。
「真仲はいつまで経っても子供みたいだな」
「にーさんにだけだよ」
真仲は兄に抱きつきながら言う。
「にーさんにだけ。だって、にーさんだけが俺の特別だもん」
「……真仲」
「それ以外は知らない」
「一族は」
「俺達を売り飛ばした塵がどうしたの?」
真仲は兄に抱きついたまま、絶対零度の声音を紡ぎ出す。
「まーー」
「一族の繁栄の為に俺をあの変態に捧げ、俺を助けようとしたにーさんを庇いも助けもせずに放置した塵じゃん。そうでしょう?」
一族を守る為?
一族を滅ぼさない為?
それだけならばまだ良かっただろう。
けれど、俺を変態に捧げた事で得られた報酬に味を占めた一族は、同じ事を数度した。そうして、捧げられた幼い子供達。
そして、一族は得られた報酬をもって、様々な悪事に手を染めていった。
「別に、全員が塵とは思っていないよ?だからちゃあんと、俺みたいに捧げられた子供達はきちんと保護したし、子供達を助けようとした心ある者達も保護した」
あの政権交代時に、真仲は犠牲にさせられた者達を助けたのだーー。
「ああ、ごめんね。もうその塵達は居ないよね」
真仲が全部殺したから。
だから今居るのは、その時助けた者達で作られた
「新しい一族も別かなぁ。ただし、にーさんの次にだけど」
真仲を一族の当主とし、それに付き従う新しい一族にもきちんと愛情は持っている。新しい一族は真仲を裏切る事はないだろう。まあ、裏切られればそれまでだし、真仲も容赦はしない。
「にーさん、にーさん、ごめんねぇ」
「真仲?」
「音羽姫にお会いしたいと大王にお願いしたんだけど、駄目だって言われたの」
「音羽姫様……」
「にーさんが罪人に堕とされて、その後罪人達が一斉に処刑される寸前に助けてくれた音羽姫だよ。そして、あの獣ににーさん達が焼き殺されそうになる中で、にーさん達を助けてくれた音羽姫様だよ」
「……あの方はお元気そうなのか?」
「知らない」
「真仲」
「知りたいけど、俺の勤務地は遠いし、それに会わせてくれないし。でも、淑宝が侍女だし、黄牙や叶斗も居るからね。それに、大王の妹姫だよ?誰が酷い扱いをするの」
真仲はカラカラ、ケラケラと笑う。
「……それでも、悪意を向ける相手はどこに潜むか分からない」
「だよねぇ~、でも、大丈夫。それに、そういうのが居たら俺も黙ってない」
大切な大切な兄を助けてくれた、唯一の少女。
「あの方を傷付ける相手は、苦しめて殺さないとね」
「真仲……」
「ふふ、大丈夫!姫様にはそんな光景は見せないよ。当たり前だろう?姫様みたいな優しい人は、例え塵にすら同情してしまうんだか!そんなの、駄目だよぉ」
「……お優しい方だから」
「うんうん!魚顔だけど」
「……真仲」
「ん?」
「ちょっとそこに正座しなさい」
兄の困惑した顔は瞬時に怒りの顔になった。
「なんで?」
「女性に魚顔なんて言うなっ!!お前は女性を何だと思ってる?!」
「え?じゃあ大王の言う蛙顔」
「蛙も駄目だ!!ーーって、蛙?」
「うん、蛙。大王はご自分の妹は蛙顔だって」
「……」
「え?にーさん?にーさんっ?!」
両手で顔を覆い、その場から走り出す兄に真仲は慌てて追いかけた。その後、相手にしてくれない兄に泣き喚いたが、本気で泣き喚きたいのは兄の方だった。
共に居た時間は、接する事の出来た時間は短い。
女性達に比べれば、ほんの束の間の時間だっただろう。
実際に、兄である青年が音羽姫と言葉を交わせた回数は少しだった。
それでもーー
大丈夫、もう、傷付けさせたりはしなから、絶対に、死なせない
誰もそんな事を言ってくれなかった。
してくれる以前に、そんな言葉なんて誰も。
だから、焼き殺される時も悔いは無かった。
ただ、弟の事が心配だった。
弟だけでも、どうか、いつか自由にーー幸せにーー。
その願いだけが叶う事を願っていた。
そんな中、最後まで諦めなかった音羽姫は。
「にーさん、にーさん!」
自分に縋り付き泣きじゃくる弟の温もりを手にする事が出来たのは、音羽姫のおかげ。
だからこそ、兄は心を鬼にする。
「音羽姫を今後蛙や魚と言ったら駄目だよ」
それだけは絶対にやめろと、弟を全力で窘めた兄だった。
けれど、当の音羽姫本人はその時、そんな真仲の兄の献身に気がつくどころか、予想する暇すらない位に忙しい状況に追い込まれていた。




