第54話 神に捧げられた子供
彼が十四になって間もなくの事だった。
彼の母親が長年の恨み辛みからなる暴挙を暴走させたのは。
いや、とっくの昔に母は暴走していた。
側室達の子供を全て毒殺した時から。
それよりもずっと前から。
「貴方もようやく私の役に立ってくれる時が来たのね」
だから、母の命令によって男達に囲まれた時も、彼はある意味達観していた。どうせ、もうこの母には何を言っても駄目なのだ。
母からの愛情はとっくに諦めていた彼。
けれど、それでもほんの少しだけ、目にも見えない程の僅かな部分は、未だに母の愛を求めていた。
どこまでも未練がましく諦めきれない醜い心。
愛して欲しかった。
側室達の子供達が羨ましかった。
出来が悪いから?
能力が低いから?
だから、母は愛してくれないのか?
欲しかった
愛してくれる存在が
愛せる存在が
そうーー彼は愛せる、愛したい存在すらも悉く奪われていった。
「初めまして、主様」
父が、あの自分には無関心な父が付けてくれた従僕が居た。優秀だと言うが、どこかおっちょこちょいで鈍くさくて、でもへらへらと笑ってばかりの少年だった。
彼がどれだけ我儘を言っても、喚いても、暴力を振るっても彼の笑顔は消える事なく、彼の後をついて回った。
根負けした。
彼は横暴に振る舞っていたし、こらえ性がない部分もあった。けれど、本当の、生来の気質は横暴とは対極の位置にあった事を知る者達は居ないーー彼も含めて。
そんな彼は、どれだけ冷たくしても自分の後をついて回り笑顔を向けるその従僕を憎めなくなっていった。
「やる」
「え?」
ある日、従僕が怪我をしていた。
母からの折檻が彼も及んだのだ。
母は外面は良いけれど、自分に仕える者達の扱いは酷いものだった。そして息子の従僕すらも気に食わず、母は時折彼の従僕に酷い暴雨を与えた。
もちろん、母の手ではなく、母の命令を受けた者達に。
彼はそれを知っていたけれど、今までは何もしなかった。
彼がそれを止められる可能性は零だったし、下手に入れば余計に逆上した母が何をするか分からない。
それでも、彼はその時、従僕に彼が母に折檻を受けた後に使う傷薬を渡した。
「その顔で後ろに立たれたくない」
そう言いながら、一般市民が手に入れるには高価な傷薬を従僕に押しつける。
「ーーあ、ありがとうございますっ」
それから、少しずつ従僕との距離が狭まり、次第に色々な話をする様になる。
「ずっと、ずっと主様にお仕えしたかったのです」
始まりは気まぐれだった。
そんな気まぐれが、まだ幼かった従僕の命を救った。
「本当ならば殺されていた私を、貴方様が救って下さったのです」
それは本当に単なる気まぐれだった。人の命を救いたいという崇高なる気持ちなどもなかった。
それなのにーー
「ありがとうございます、私は貴方様のおかげで今も生きているのです」
初めての感謝。
初めて、自分という存在を真っ正面から見てくれる存在に、彼は泣きたくなる程の感情を覚えた。
きっと、従僕が居てくれれば、彼はそのまま突き進む事はなかっただろう。
けれど、彼は突き進んでしまった。
そう、その大切な従僕を失ったが為に。
「お母様、何故っ」
「この従僕は貴方を惑わします。しかも、こんな下等な屑が私の息子の従僕だなんて、あの方はどこまで私を馬鹿にすれば気が済むのかっ」
従僕の家は決して名家ではない。
けれど、名家の家に仕える古くからある家の一つだった。
今は昔に比べれば没落に近くはなっているけれど、それでも従僕となった彼が自分に仕えれば、そして自分が誰もが認める偉大なる存在になれば、きっと、従僕も。
なのに、母はそんな従僕を、殺した。
やはり、母の命じた者達の手で。
「さっさとその塵を捨ててきて」
母の命令を受けた者達が、従僕の遺体を引きずっていく。
「待て!!」
その言葉を発した瞬間、彼は母に逆らった事になった。
母は激怒し、自分の息子を男達に激しく殴打させた。
彼は、従僕の形見すらも手に出来なかった。
それから彼は、全部で三度大切な者達を奪われた。
次に奪われたのは、彼がほのかな恋心を抱いた下働きの少女だった。あの従僕の少年に似たどこかおっちょこちょいな少女は、意地悪だけれど時折優しさを見せる彼に笑顔を見せてくれた。
そんな彼女は、母の命令を受けた男達に穢され、殺された。
そして最後はーー
「……」
迷い込んだ迷い犬。
小さな子犬を、彼は隠れて飼っていた。
彼のぎこちない愛情を受けた子犬は、彼によく懐いてくれた。
人は駄目だ。
けれど、この犬ならば。
小さな体を抱き、彼はその温かさに癒された。
なのに、母はそれさえも奪い取った。
「そんな汚らしい犬畜生っ!!」
貴方には相応しくない、貴方には似合わない、貴方にはーー
では、何なら自分は奪われないで済む?
何ならーー
「本来私は後宮に、大王の後宮に入って居た筈!!なのに、この様な弱小貴族の正妻に収まらなければならなかったなんて!!ああ、憎らしい!ああ、なんて腹立たしいっ!」
母は全てを恨んでいた。
自分にこの様な境遇を強いた全てを。
にも関わらず、側室達を持ち、母を忌避する父を呪っていた。
そして自分は、そんな母にとっての駒の一つでしかなかった。いや、駒ですらなかった。
「良い事?!貴方はこの母の息子!!貴方に相応しいのは最高の物です!!」
母の言葉は絶対だった。
母が認めなければ、自分の手には入らない。
全て奪われる。
ああ、何なら良いのか?
何なら、母は、喜んでくれるのか、認めてくれるのか。
何であれば、奪われずに、済むのかーー。
「おにいちゃん、ないてるの?」
小さな小さな少女が居た。
まだ幼女とも言える幼い少女。
大王の宮殿に出入り出来る程には強力な力を持つ母の一族の後押しで、宮殿に出入りする頃の事だった。
その日も母の癇癪の的になっていた自分は、疲れ果てていた。
そして周囲の目を盗んで、彼は辿り着いたその場所にうずくまった。
そんな彼が顔を上げた時、そこには小さな少女が居た。
「ないてるの?」
少女、いや、幼女?
その小さな手を伸ばした彼女は、幼いながらもとても美しい顔を悲しそうに歪ませた。
「なかないで、いいこいいこ」
「……五月蠅い」
自分に近寄るな。
自分に近寄れば、この娘もまた母に消される。
だから、近寄るな。
従僕も、あの下女も、あの子犬も、自分さえ近付かなければ死ぬ事はなかった。
もっと早くに遠ざけるべきだった、いや、近付かなければ良かった。
お願いだから、近付かないで、お願いだから、もう、もうーー
「いいこ、いいこ」
小さな手で、彼の頭を撫でてくれる。
三角座りをして、めそめそとしている彼を馬鹿にする事もなく。
「……ありがとう」
気づけば口から出ていた言葉。
お礼なんて、いつぶりの言葉だろうか?
そう……従僕が、下女が、死んでから一度も。
その幼女との出会いは一度きりだった。
母には当然の如くばれたけれど、母は怒らなかった。むしろ、狂喜乱舞していた。
「でかしたわ!!ああ、私は今ほど貴方が可愛くて愛しいと思った事はありませんっ」
あの母が、自分を可愛い、愛しいと言う。
あの幼女は、現大王の皇女だった。
名を雛美と言い、数多居る皇女達の中でも一際美しく優れた姫君だと言う。まだ幼いけれど、将来有望な姫だと。
「母親の血筋にいささか不安がありますが、父親は大王。我が一族の花嫁となるには合格でしょう。ふふ、いいですか?何が何でもあの姫を手に入れなさい」
そう言った母に、自分は彼女が奪われない存在だと理解した。
そう、母にもう奪われないーー
なのに
「母上、雛美姫がっ」
あの、男好きとして有名な阿良斗大王は、女でも美しければ手を出していた。それこそ、自分の娘だろうと血が繋がっていようとも関係無い。
そして、雛美姫がその美しさから父である阿良斗大王から性的な虐待を、性的な関係を結ばされている事に気づいた。それこそ、まだ幼いが故に父との交わりこそ逃れているが、それも成長と共に父に女にされる運命だと、父に孕まされ子を産む運命にあると知った。
遠くから見たあの幼い少女の顔は凍り付いていた。
そんな少女を、あの阿良斗大王は見せびらかす様に連れ回し、その体をなで回し、なめ回す。
それでも、清らかな乙女でいられるのは、生娘でいられるのは、ただ幼いが故に。
自分の花嫁にと望んだ母ならば激怒するだろう。
いや、もしかしたら阿良斗大王からあの少女を助け出すのに協力してくれるかもしれない。
けれど、そんな希望すら打ち砕かれた。
「阿良斗大王が?それがどうしたのです?」
「は、母上?」
「阿良斗大王も困った事。でも、多くの妻を持つのは嗜みです。それに、あの美しさですからね、あの皇女も」
「は、母上」
「ですが、あの皇女も悪いのですよ?あれ程の美しさ。むしろ、大王を惑わせるなんて、なんてはしたない娘なのかしら?ふふ、本当に母親にそっくり」
そう言う母は、完全に雛美姫を下に見ていた。雛美姫の母親すらも。
「本当に、なんて下品なのかしら。まあでも、大王の皇女なのだから、いくらはしたなくても貴方の様な出来の悪い息子には相応しいわね」
母はクスクスと笑いながら、息子すらも見下す。
「それに、子が産まれたならば産まれたで好都合よ。ふふ、皇族の血を引く者達が増えるのですから」
母の駒が増えるからですよね?
そんな自分の言葉は、声になる事はなかった。
それから、雛美姫を思いつつ、それでも何も出来ない自分を呪い続ける日々が続いた。
そんなある日の事だ。
十四になって少し経ったその日に、母に呼ばれた。
「喜びなさい、貴方が役立つ時がきました」
「え?」
「ついに、ついに完成したのです!」
そう言うと、母の命令を受けた男達が自分を囲む。
「貴方もようやく私の役に立ってくれる時が来たのね」
そう言って笑った母の瞳は狂気に染まっていた。
それが、彼が人として、ただ人として在れた最後の時だった。
目覚めた時、彼は見た目は何も変わっていなかった。
いや、その時の事を忘れていた。
ただ、それでも何かが決定的な変わっていた。
「ああ、貴方は、貴方こそ、最高の子供です!!」
母は言った。
「お前こそ、一族を率いる頭領息子だ!私は鼻が高いっ」
祖父上は言った。
「貴方は選ばれた存在なのです!ああ、これで我が一族に更なる繁栄が見込まれるでしょう」
祖母上は言った。
母は、祖父母は、そして母の一族の者達は言う。
貴方は選ばれた存在なのだと
そう、産まれながらにして選ばれた存在。
下等なる者達とは一線を画す、高貴なる存在。
下々の者達は、そんな高貴な存在の為に居る。
下々は高貴な存在の為に生きて死ぬ。
そう、高貴な存在はそんな下々をよりよく使ってやるのが勤めなのだ。
母達は自分を称え、そして愛を囁いてくれた。
偉大なる存在だと言ってくれた。
選ばれた、この世に二つとない存在だと。
ああでも、でもーー
何かが足りない、何かが足りない
自分は、私は
一体何を忘れてしまったのだろう?
大切な何かが、いつも欠けていた。
狂女が笑い続ける。
「あははははははははっ!これで、これで私の一族は更なる力を持つわ!更なる繁栄を頂くのよっ!」
息子を生け贄に、神を召喚した女。
一族を率いる頭領の娘である女は、女こそが甘やかされた我儘娘だった。
彼女は全てにおいて中心で、歓心を得ていた。
そんな彼女は最高を求め続け、そして大王の後宮に入り皇后になる事を望んでいた。
けれど、蓋を開けてみれば彼女程度はおろか、彼女を越える美しく優秀な女性達は多く、彼女は大王に目を留められる事すらなかった。
屈辱だった。
誰もが彼女を褒めそやしたと言うのに。
彼女こそが、最高の存在だと言っていたのに。
なのに、大王は何の関心も示さず、彼女を無視したのだ。
それどころか、彼女は弱小貴族の妻にされた。いくら、正妻と言えども、そんな事で誤魔化されなかった。いや、そもそも自分の様な女性が弱小貴族の正妻で収まるはずがなかった。
しかも、その貴族には既に側室達が居た。
強力な力を持つ一族の娘を妻に迎えておきながら、側室達を囲う愚か者。自分の父のような偉大な人物ならばまだしも、こんな駄目男が自分を差し置いて側室達の所に通うなんて許せなかった。
そうして激しい屈辱を覚えながら、ようやく子供を産めば出来の悪い息子だった。
彼女は全てが憎かった。
自分にこんな人生を強いた全てが。
彼女が誇れるのは、自分の血筋と一族、そしてその美貌だけだった。
自分を認めなかった全てに復讐がしたかった。
そして次第に一族の力が弱まっていく現実に危機感を覚えた父が神を召喚するという事にも協力した。
そう、その神の依り代として自分の息子の肉体を捧げる事だって厭わなかった。
役立たずの出来の悪い息子だ。
それぐらいは役に立って欲しい。
それに、いくら依り代になるといっても、完全に人格が消えるわけではない。
ここが重要だった。
神の依り代にはするつもりだったけれど、この時には、それなりに使い勝手の良い駒だと自分の息子を認識していた。いくら、出来が悪くても、だ。
だから、完全に人格が消えて神の依り代として尊大に振る舞われるのは面白くない。神が表に出るのは、時々で良いのだ。
彼女はそれがいかに身勝手であるかを理解する事は最後まで無かった。
ただ彼女にあった思いは一つ。
死ぬまで、自分を、母に忠実なる駒として、それでいて偉大なる神の依り代として一族の繁栄に尽くしてこそ、自分の可愛い息子だ。
そうして、彼女は何の罪悪感もなく、実の息子を神の依り代として捧げた。
その神が、既に堕ちた堕神であるとはこれっぽっちも思わず。




