第51話
「おい、大丈夫か?」
「こっちは平気です」
ガラガラと調理器具が散乱する厨房では、ようやく事態の収拾がつき始めていた。
「それにしても、凄かったですね」
副料理長の言葉に、料理長は頷いた。
「一気に来たからな」
今から少し前の事だ。
突然、厨房内にある竈全てから火が噴き出したのだ。
それは厨房内を赤く染め上げる程の代物だったけれど、不思議な事に厨房を焼き尽くすどころか、その場に居た者達に火傷一つ負わせる事はなかった。
まるで意思を持ったかの様に竈から突如吹き出した火は自由自在に動き、まるで風が吹き抜ける様に厨房内を駆け巡った。それから暫くしてようやく火は消えたが、突然のあり得ない光景にその場は騒然となった。
下っ端の者達に至っては、慌てて逃げだそうとして壁にぶつかったり、作業台の上の物をまき散らしたり、とにかく凄い有様となった。
調理器具は一度全て煮沸消毒しなければならないだろう。今からやって、夕食まで間に合うかどうか。
しかし、調理場を預かっている者達の長としては、そこは決して手を抜けない。
とはいえ、ひげ面の強面で、顔には大きな傷跡が走っている大柄の男である料理長は、その外見に相応しい剛胆さを持っていた。だが、今回の発火事件には流石に度肝を抜かれた。
と同時に、その炎が決して自分達を傷付けるつもりではなかった事を理解していた。
そうでなければ、とっくの昔に自分達は黒焦げになっていただろう。
(あの方の力か……)
その火に触れた瞬間、彼は炎を発生させた原因をはっきりと認識していた。
あの方であれば、確かに絶対に自分達を不用意に傷付けたりはしないだろう。
まあ、驚いた末に転んだとかそういう二次被害はあったけれど。
「料理長!さっさと片付けないと食事に間に合いませんよっ」
「ああーー」
何かが起きている事は確実だ。
堕神が宮殿の二箇所に侵入しているという情報も得ている。なのに、堕神の気配は三つ。
けれど、この場に待機を命じられ、更には料理長という地位を得ている自分に出来る事は、限られている。そう、今の自分に出来る事は、今回の件で走り回ってお腹を空かせる仲間達の為に美味しい料理を作る事である。
「さっさと片付けて、美味しい料理を作るぞ」
今の自分に出来る部分で全力を尽くす所存の料理長はそう言って、厨房内を片付ける料理人達と共に厨房内を全力で片付けて行ったのだった。
安全地帯に撤退した仲間達を最後まで見届け、そして自身も雛美姫を抱き抱えて炎の壁の外側へと脱出した黄牙は今も燃え続ける炎の壁を見上げていた。
迫り来る侵入者達を蹴散らしてようやく辿り着いた黄牙と淑宝の前に、この炎の壁はそびえ立っていた。その前で、立ち尽くす上層部仲間の姿を数名見つけた黄牙は、彼らを叱咤激励した。
そしてその空高く燃え上がる炎へと飛び込めば、驚く事に炎は黄牙達に熱さを感じさせる事なく道を開いてくれた。
かき分ける様にと言うよりも、炎の方が黄牙達を通してくれたのである。
そうして目の当たりにしたのは、あり得ない光景だった。
音羽姫ーー
自分達が大切に大切に守ってきた皇女が、血まみれ姿となっていた。それだけで卒倒寸前なのに、そんな音羽姫を更に痛めつける元凶たる青年が居た。
いや、元青年と言うべきか。
だが、青年の体を乗っ取った堕神も愚かものだった。
あの神の前で、音羽姫を傷付けたのだ。
それでなくとも、その前から血まみれだった音羽姫に、どれだけ痛めつけられたのかと想像するだけで吐き気がこみ上げてきた。
怒りの余りに目の前が真っ赤になった。
何故だ?!
何故、女性に、しかもまだ二十歳にすらなっていない女性にあの様な事が出来るのか?
もちろん、男なら良いというわけでもないし、年齢が高い低いも関係無い。重要なのは、何故ああも血まみれにさせる位の暴力を振るえたかという事だ。
音羽姫がお前に何をした?
悪いのは、雛美姫を無理矢理連れ去ろうとしたお前ではないかーー。
黄牙は女子供や老人に暴力を振るう者が嫌いだ。
弱いからと、抵抗出来ないからといたぶろうとする者など大嫌いだ。
そして何よりも、弱い相手を痛めつけて悦に入っている者など、全力でぶちのめしたいとさえ思っている。
渚を強引に連れ去り監禁しているお前が何を言う?!と思われるかもしれないが、そこの部分は黄牙はいつでもぶちのめされる覚悟を持っていた。もちろん、まだやるべき事があるから簡単にはぶちのめされる気はないけれど、いつか報いを受ける時が来ると思っている。渚になら地獄に叩き落とされても仕方ないとすら思っている。
けれど、今はーー。
「淑宝、泣き止め」
「だ、だって!!」
淑宝もまた、音羽姫の血まみれの姿を目の当たりにしていた。そして、自分達が最初に見た時よりも更に酷い怪我を負っていたという事態に、本気で泣き崩れてしまっていた。
「姫様が!姫様がっ!」
「淑宝」
「何故ですの?!どうしてですの?!何故姫様があの様な目に遭わなければならないんですの?!うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ」
音羽姫を心の底から可愛がり溺愛している淑宝にとっては、確かに衝撃的過ぎる光景だっただろう。黄牙だって倒れたかったし、一緒に目撃してしまった他の上層部仲間達も同じだった。
「許さない」
淑宝が、禍々しさを含む艶めいた声で叫ぶ。
「あのーー」
そこから紡がれる呪詛の数々と共に、淑宝の体から黒い靄が出始める。それに気づいた仲間が、慌てて淑宝を宥めにかかった。
「落ち着きなさい」
「落ち着く?か弱い女子をあそこまでボコボコにした愚か者をのさばらせておけとでも?音羽姫様は私とは違うのですよ!!」
その通りだーーと口にしたらたぶん殴られるので黄牙は黙っていた。他の者達も黙っていた。
「それに心配しなくても、神が音羽姫様の無念を晴らしてくれるって」
と、のたまった者も居たけれど。
「姫様はまだ死んでいませんわ!」
と淑宝に殴られていた。
いやいや、無念は別に死んでいない相手でも使う言葉だから、使って良い言葉だから、たぶん。
「それに神も酷いですわ!!どうして、どうして姫様を私達に託して下さらなかったのですか?!」あの様な危険な場所に姫様を置いておくなんて」
ハラハラと涙を流す淑宝に、男性陣は思った。
1.単純に逃がす時間がなかった
2.雛美姫を真っ先に抱き抱えていたのにそれについて無反応で衝撃を受けていた
3.先に堕神をボコろうと思っていた、むしろそれしか無かった
4.混乱していた
5.音羽姫にかっこよく男らしい所を見せたかった
「「「「「5?」」」」」
五番目だけは、音羽姫が傍に居ないとどうにもならない、マル。
そんな冴え渡りすぎた思考結果だったと言うのに。
「ご?!ごって何ですの?!」
淑宝には伝わらなかったし、他の女性達にも伝わらなかった。そして全力で怒られた。以心伝心の極致にまではまだ自分達は達していないらしい。
自分達もまだまだだと精進不足に反省しつつも、そんな自分達が結構失礼な事を神に対して考えている事には言及しない男性陣だった。
神と呼ばれるが、それが種族の総称である事は光明達は知っていた。けれど、恐れ多くて神の名前を口に出来ないし、出来たとしてもしたくない。
まあ、真名を教えるつもりはないけれど、字ぐらいは別に構わないと教えていたにも関わらずにだ。
とはいえ、神が本当に字とはいえ名を呼んで貰いたいと思えば、昔なじみを呼べば良い。
そうーー神にだって、自分がそれなりに親しく付き合う同種族の者達が居る。むしろ居ない方がおかしい。
とはいえ、成神してからは長らく会っていないし、そこまで無理して会いたいとも思わない。まあ、どこかで会えば少し話をするぐらいだ。
そしてそういった昔ながらの付き合いの者達は、光明達以上に神の事を良く知っていた。
だから、こんなに嫋やかで清楚可憐、神秘的な巫女姫の如き美貌をしていようともだ。
血や暴力といった事に縁遠そうに見えても、それこそ高貴や上品としか言いようのない気品がこぼれ落ちていようともだ。
外見は裏切る為にあるから!!
と言うぐらいには、お上品でもお淑やかでもなかった。
いや、そもそもお淑やかでお上品な存在が、相手の顔を平手打ちにして後ずらせた後にその顔面に拳をめり込ませて顔面を血まみれにし、更に倒れた堕神の上にまたがりボコボコにするといった所行を行なってくれた。
しかもその間、なんと神は全くといって良いほどに無傷だった。相手に攻撃をさせる隙すら作っていないのだからある意味仕方が無いとも言えるだろう。
とはいえ、何の躊躇もなく、適確に確実に相手を仕留めるやり方はいっその事清々しさを通り越して美しささえ感じられた。ただし、ボコボコにされる側はたまったものではない。
そしてそれを見させられる方もーーいや、音羽姫は意識を失っていたからその光景を目の当たりにせずに済んだのがせめてもの救いだった。
いくら音羽姫でも、いや、音羽姫だからこそ、自分を痛めつけた相手であろうとも血まみれになっていく姿を見たら悲鳴を上げるだろう。
それ以前に、堕神に肉体を乗っ取られたという事で、青年に同情するかもしれない。
神はそれが分かっていたから、さっさとけりを付ける事にした。
しかし、それにしては余りにも一方的だった。
「く、くそっ!」
それでも何とか神の手から逃れた堕神が、距離を取って神を睨み付け。
「に、人間の体を傷付けても良いのか?!」
「どうせ処刑されるだけの体だ。それが早まっただけだと思えば何の問題もない」
「っ?!この人間が哀れだと思わないのか?」
「哀れ?どこが?」
神は吐き捨てた。
「俺はな、理不尽な暴力を婦女子に振るうバカが大嫌いなんだ」
理不尽な言動を音羽姫にぶつけまくるお前が言う台詞じゃないわーーと、光明が居たら神を全力で説教していた事だろう。
しかし、残念な事に今、それが出来る者はこの場には居なかった。
「それにな、お前は間違いを犯した」
「間違い?」
「そこの不細工に手を出した事だよ。いいか?あいつに触れても良いのは俺だけだ。すなわち、あいつをボコボコにして良いのも俺だけなんだよ!」
神は同種族の中でも聡明と謳われていた。
実際、頭の回転はずば抜けていたし、その観察眼や洞察力も素晴らしい物があった。そして、その巧みな話術で他者を上手に自分に対して都合良く動かす術にも長けていた。
にも関わらずのこの残念発言。
この神は決して婦女子に暴力を振るう事を楽しむ様な輩ではなかったし、そういうのは嫌いな方だった。
音羽姫だけが別かと言われればそうでもない。
きっと、彼と付き合いの長い同種族達が居ればこう口を揃えて言っただろう。
幼少期の少年特有と言われる異性に対するそれなのだと。
そうーー気になる子ほど、扱いが酷いあれだ。
そっち方面の情緒が残念すぎる程に成長が遅い神。それは神だけのせいではない、神だけのせいではないけれど、相手となる異性が余りにも哀れだった。
しかし、これまた少年特有の悩みで、そういった自分の気持ちを他者に相談するには恥辱とか屈辱とかそういった物が上回りすぎていた。
そして本人は、本人は至って真面目であり、真剣なのだ。だからこそ余計に始末が悪かった。
そして今回の場合、触れるなと言い放った前半と、ボコボコにして良いといった後半の二つからなる言葉だが、神が一番に伝えたかった事は前半で、後半は照れ隠しも兼ねているというからどうしようもなかった。
後半を音羽姫が耳にしていればどんな反応を示されるか、その回転の速い頭であればすぐに考えつくと言うのに。
しかし、そういった方面では運の良い神は、残念な事にここで強制的にそちらの成長を遂げる事は出来なかった。そしてもし成長を遂げていれば何かが変わっていたかもしれないけれど、それ以前に怒り狂った音羽姫に「離婚させて下さい!!神の力を返した後にすぐにでもっ」と怒鳴られて、それどころの話ではなくなっていたと思われる。
それに、それらはもしもの話でしかなかった。
「くそっ……どうして、どうして神の力の源を失ったお前に、この我が一方的にやられる?」
だが、堕神にとっては別に音羽姫の扱いが酷かろうと何だろうとどうでも良かった。むしろ、酷ければ酷い方が大喜びなぐらいだ。それよりも堕神にとって大事なのは、これだけの差がありながらも自分が圧倒的不利な状況に立たされている事だった。
「何故だ!!何故、この我がここまで圧されるのだっ!!」
「だから、お前は基礎的な事が何もなってない」
神が親しくしていた同種族は多くはないが、少なくもない。
その中で、「基礎は必須です。何事も土台がしっかりとしていなければ崩れますし、それには正しい手順が必要となります。基礎が出なければ応用なんて笑止千万。基礎、基礎、基礎、とにかく基礎を徹底的に学びなさい、それから応用を学べば良いのです」という友人、いや、友人?友人……らしき者が居た。
神はその友人の言葉を疑問に思ったり、不満を覚えた事もあったけれど、その度に叩きのめされてきた。一度も勝てなかった。だから、その友人の言葉は正しいのだ。
とにかく基礎や基本的な事を大切にしつつ、「常日頃から努力しなさい、努力する屑は未来の天才ですが、努力しない屑は屑のままです。いいですか?貴方は人より顔が良すぎて色気もありすぎてそっち方面の才能と能力に溢れすぎているのですから、奴隷にされて一生囲われた囚われの神生を【女】として送らされたくなければ、努力し続けなさい!!」という叱咤激励の元、日々努力し続けた。
「奢っては駄目ですよ?頂点を極めたら後は落ちるだけですからね?日々謙虚に生きなさい。一生を奴隷として過ごしたくなければね!!」
残念な事に、奴隷と言うよりは、愛妾とか寵姫とか寵妃とかにさせられてきた時間もそれなりに長くーーいや、今まで生きてきた神生の半分以上の時間はそれに割かれてきた神だったけれど、全ての時間をそれにさせられなかったのは、きっと彼が日々努力し続けてきたからだろう。
それもあって、ある時期からは神を狙う者達で来ても簡単に追い返せる様になっていた。とはいえ、やはりどこかで慢心があったのだろう。
神は阿良斗大王の手に落ち、【神の御玉】を奪われ、愚かな男の【女】として、【皇后】として囚われてしまったのだから。
更に精進を重ねなければーー
一見して何でも出来そうーーいや、実際に一度聞いて見れば大抵の事は出来てしまう神ではあったけれど、彼と付き合いの長い同種族達からすれば、隠れた努力家と言われていた。
実際、彼は見えない所で本当に努力していた。
言動は偉そうだけれど慎重派で用心深く、かといって大胆に出る所はきちんと出る。
そして自己反省と自己分析を日々行ない、出来ない所を修正し続けている神。
それに比べて、自分の才能に奢り、出来ない所を他者のせいにするばかりで遂には堕神となった存在が戦って敵う筈がなかった。
といっても、神も音羽姫の事に関しては自己反省と自己分析、そして修正が本当に行なわれているのかと周囲は疑問に思うのは間違いないが。
ただ、それ以外の事に関して神は自分に厳しかった。
だからこそ、不平不満ばかり言って努力もせずに恨み言ばかりを延々と口にする様な輩に、自分の物をボロボロにされたという現実が許し難かった。
「何故、何故、何故だ!!」
「お前の事はどうでも良い」
「なんだと?!」
神は、ボキボキと腕を鳴らしながら一歩ずつ堕神に近付いていく。
「お前が強かろうと弱かろうと関係無い。俺は全力でお前を殴るだけだ。というか、神力の殆どを失っている俺に術一つ放てないのか?ふんっ、いくら術には時間がかかるからといったって、やりようによっては詠唱時間なんて殆どかけずに術を発動させる事が出来る筈だ。それすらもしていない身でこの俺に喧嘩を売ろうとは本当に良い度胸だな?」
「だ、黙れ!!ただの人間と変わらない身で」
堕神の横っ面に拳がめり込んだ。
神は全く神力を使わなかった。
にも関わらず、やはり神の力は圧倒的に堕神に勝っていた。
「くそ!!」
堕神が拳を繰り出すが、それは余りにも軽く、そして大ぶりなものだった。神は容易くそれを避けて、殴り返す。反対に、神の拳は鋭く速く、それでいて重たかった。そして対象物を適確に捉えていた。
「全く動きがなってないな」
神力が無ければ無いなりの戦い方をすれば良いーーそれを神はしっかりと実行していた。
そもそも、基礎体力からして違うのだ。
日々体を鍛え、なおかつ実用的な筋肉の付き方をしている神はその筋力を最大限に発揮出来た。筋力だけではなく、瞬発力、走力、跳躍力、腕力、握力、その他様々な身体能力自体が堕神とは雲泥の差だった。
見た目は嫋やかな美女にしか見えない容姿と、蠱惑的な曲線を描く肢体の持ち主だとしても、その内面に秘められた力が違った。
だから
「がはっ!!」
堕神は絶対に神には勝てないのだ。




