第5話 迷い人の帰還
阿良斗大王が逝去した。
その話を聞いた渚は、ぽっかりと心に穴が空いたようだった。
けれど、次代があの聡明な光明大王で、彼がその光明大王に仕える官吏だと知り、歓喜がこみ上げてきた。
彼の傍には居たくない。
早くここから居なくなって欲しい。
自分の罪を見せつけられるようで、身勝手にも渚はそう思ってしまった。そしてそんな事を思う自分を嫌悪した。
彼をここから追い出してどうしようというのか。
彼が帰るべき場所は、帰らざるを得ない場所はあの阿良斗大王の所だ。
阿良斗大王のお気に入りだった彼が、今ここにこうしているだけでもおかしいのだ。もしかしたら今もあの大王は必死になって彼を探しているかもしれない。いや、探している筈だ。
なのに彼をここから追い出せば、彼はまたあの大王の所に戻らなければなくなる。
それは余りにも非道すぎる仕打ちだ。
けれど、いつまでも逃げ続けていられるわけがない。
阿良斗大王は必ずや彼が此処に居る事を突き止めるだろう。
そうなれば、彼を匿っていたとして、此処に居る者達はーー。
しかし、此処に居る者達を救う為には、彼を見殺しにするしかない。
彼を大王に捧げるしかない。
結局最後はその考えに至り、そんな自分を渚は絶望した。
本当に、身勝手だ。
卑怯で身勝手で酷い。
自分達の安穏な生活を守るために、ただでさえ酷い目にあってきた彼を見捨てようとしている。
自己嫌悪で壊れそうだった。
それでも、何とか理性は踏みとどまって。
彼にそれを伝えないで居られた。
傷が治ったら出て行ってーー
その言葉を伝えずに済んだ。
傷が治らなければ良いのに。
そう思う自分が居る。
傷だらけだったから、その傷が治るまで静養させていたーーそれならば理由が立つだろう。だから、治らないで。
治らなければ、少しでも長引けば彼がここに留まれる時間が長くなる。
例え帰らなければならないとしても、少しでも彼が安らかにいられる時間が長くある様に。
それぐらいしか祈れない渚は、自分の不甲斐なさを嘲笑った。
そんな渚に、大王交代の報せが来たのだ。
あの横暴で残忍な阿良斗大王ではなく、聡明だとされる光明大王様。その方に、彼は仕えているという。
彼ならば、あの阿良斗大王の様な扱いはしないだろう。
光明大王であれば。
光明皇子が大王の地位に居てくれるならば。
「良かったーー」
それなら、彼が帰っても、ここから出て行っても彼は苦しむ事は無い。
話では、高官の地位についていると聞く。
ならばここに居るよりもずっとずっと豊かな暮らしが向こうでは待っているだろう。それに、それ程の高官であれば、元々家柄も良い彼の事だ。多くの女性達が妻になりたいと願う筈だ。
地位と身分が高い程、多くの妻を娶るこの国だ。
既に妻が何人か居るかもしれない。
それでも自分を忘れずに居てくれた彼。
いや、この卑怯者に復讐する権利があった筈なのに、彼は渚を酷い目に遭わせようとはしなかった。本当に、本当に優しい人なのだ。
だから、せめて遠いこの地から、彼の幸せを願おう。
ただ心残りは、未緒の事だ。
未緒は、黄牙の妹である未緒は幼い頃に家族を失い、兄と引き離された。その頃の記憶はあまりなく、黄牙の事も兄によく似た青年と思っている。
未緒は自分が連れてきてしまった。
だから、未緒だけは彼と共にーー。
けれど、そんな渚の心を読んだかの様に、未緒は言う。
「私は渚ちゃんと居る」
真剣な眼差しで、彼女は言うのだ。
「渚ちゃんは私のお姉ちゃんだもん」
そう言って、自分を抱きしめる未緒を渚は抱きしめ返した。
本当に、本当に卑怯者である。
この温もりを手放したくないなんてーー。
彼ーー黄牙が斎宮の宮を出て森の出口を通り抜けたのを見送った数人の女性達は、複雑な面持ちを浮かべていた。そんな彼女達の後ろから、磐が現れた。
「本当に良かったの?」
そう聞く女性に、磐が溜息をついた。
「返すしかないでしょう。あの方は大王様にお仕えする高官です」
一ヶ月も行方不明ならば普通は捨て置かれるかもしれない。しかし、現在の大王は彼を探させていた。そして斎宮の宮を囲む森の外までその捜索の手は迫っていた。
「それに、いくらこの場所が知られてはならないとしても、口封じ等という野蛮な事は許されません」
あの阿良斗大王であれば喜んで行なった筈だが、斎宮の宮の女性達はそれを考えても実行しようとはしなかった。
それに何よりも、渚が泣いて懇願した。
彼を元の場所に戻してあげて欲しいとーー
全てを奪われた自分達には決して得られないもの。
だが、それとは別に、彼女達もまた分かっていた。
だって知っていたから。
彼が、ーーであると。
あの阿良斗大王の被害者。
地獄のような日々を送らせられた彼が、ようやく幸せを手にしたのだ。
そんな彼をどうして害せようか。
自分達はただ、今の時間が続いてほしいだけである。
臆病な自分達は、ここで静かに生きて行きたい。
そしてそれさえ邪魔されないなら、それで良い。
それに、彼はここにはもう二度と戻っては来られないのだから。
あの森の入り口を出て行った彼は、もうここには戻る事は出来ない。
「彼は怒られないでしょうか?」
「光明大王様であれば大丈夫」
磐は優しげな笑みを浮かべ、力強く言い放つ。それに、不安気な顔をしていた女性もホッとした様に頷いた。
彼はまたここに戻ってくるつもりで出て行った。だから、もしここに二度と戻ってこられないとなれば、この場所を報告した彼が嘘を言ったと大王に罰せられる可能性もある。けれど、磐が言うなら大丈夫だ。
「さあ、戻りましょう。斎宮の宮様が待っておられるわ」
そうして彼女達は立ち去った。
後に、自分達に降りかかる物など全く気づかないまま。
「黄牙!」
その名を何度呼んだ事か。
けれど、今までは空しく虚空に消え去るのみだった。
しかし今、それに応える声が聞こえる。
「貴方達ーー」
一ヶ月も行方知れずだった黄牙の無事な姿に、仲間達は喜びの声を上げる。彼に仕える者達も涙を流して喜んだ。
だが、そんな彼から聞かされた話に、思わず息が止まりかけた。
「ですから一刻も早く」
「黄牙、お前は何を言っている」
「確かに信じられない事ではあります。ですが、私は実際に見たのです。ええ、そこから戻ってくる間も信じられない気持ちでしたが、実際にこうして貴方達と再会出来た。すなわち、あれは現実の事で」
「黄牙落ち着け!」
まるで何かに取り憑かれた様な黄牙を仲間達が落ちつかせようとする。
「私は落ち着いています!それより、一刻も早く大王にご報告と」
「そんな事がある筈がない!」
聞かされてもまだ信じられない。
ならばと、黄牙がそこに案内すると言って聞かず、それについて行った仲間達は後に激しく後悔する事となった。
黄牙はまだ本調子ではないのだ。
賊に追いかけられ死にかけた彼は、きっと長く傷の痛みと死にかけた衝撃で幻を見ていたのだろう。それが分かっていた筈なのに、彼の気迫に負けたからこうなった。
「な、ぜ」
黄牙の瞳が絶望に彩られる。
そこは見覚えのある場所だった。
焼け焦げた木々が幾つか残っているだけの、荒れ地。
黄牙が言った様な緑生い茂る森などどこにもない。
いや、確かにそこは森だった。
だが、それは七年も前の話である。
「どう、して……」
あれは絶対に幻覚などではない。
どうして、どうして、どうしてーー
これが現実じゃないかーー
「っ?!」
自分の中、奥底に押し込めた声が囁く。あの場所に居た時には、ずっとずっと聞こえないふりをしてきた、その声。
ここがこんな風になっている事なんて、ずっと前に分かっていた事じゃないか
ここはもう焼き尽くされていた
何も残ってなど居ない
ここには確かに【斎宮の宮】があった
でも、もうそんなものはどこにもーー
「違う、違う違う違うっ!」
あの温もりを覚えている。
言葉を交わしもした。
あそこが夢であるならば、どうして自分は無事に生き延びられたのか?
傷を癒し、衣食住に不自由する事なく
あの穏やかな日々はまるで夢のようだったけれど、それでも夢などではない
「違う、あれは、本当にーー」
「黄牙……」
居たんだ
居たんだよ、本当にーー
彼が呼ぶ名前を耳にした仲間達は、悲痛な面持ちで立ち尽くすしかなかった。