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第43話 葛商会

 葛商会(かずらしょうかい)ーー。

 現在この国で最も名を轟かせる大商会である。

 五年前の政権交代が起こるまでは苦汁を舐めさせられていた元四番目の商会は今、たった五年で押しも押されぬ大規模の商会へと成長を遂げていた。


「来てくれて嬉しいよ、(かずら)

「大王の下命とあらば」


 そう言って最上級の礼を優雅にして見せたのは、葛商会の長だった。今年三十六になる彼は、自分よりも年下の大王に頭を下げる。


 商人ともなれば、腹に一物を抱えながらそれを笑顔で押し隠す者達も多い中で、葛は演技ではない柔らかな笑みを浮かべた。


「奥方は息災かい?」

「ええ。三人目の子を宿しております」

「……確か、二番目が産まれてからそれ程時間は経っていない気が」

「ええ」

「奥方は……確か二十七」

「ええ。頑張ってくれていますよ。もちろん、私も妻のためにありとあらゆる事をしたいと思っています」


 にっこりと笑う葛。


 光明は口元が引きつった。


「確かにこの国の女性の結婚適齢期は他の国に比べると若めで、子を産む事に関してはむしろ二十代の方が母胎も成熟していて良いと思う。三十路を越えて子を産む者達だって居る。だが」


 これだけは言いたい。


「少し間を空けた方が」


 残念な事に、この国での妊婦死亡率はそれ程低くはない。特に、低年齢での出産に関しては。奥方は低年齢ではないが、それでも二人立て続けの年子はかなり体に負担が来るだろう。しかもこの男、子供は五人欲しいとかほざいているので、あと二人は確実に年子で作りそうだ。


「私と妻の愛の結果でございます」


 葛は眉目秀麗な男だ。

 自分達男の娘に比べれば男性的だが、それでも一般からすれば女性的な風貌を思わせる清楚な顔立ちと、商人にしては鍛えられた体付きは女性達の心を掴むだけではなく、その道ではない男達すら惑わせる物だった。


 また商人らしく自分に利のある物に聡い彼は、天から与えられた美貌を磨き、色香を磨き、それを交渉の道具として存分に利用していた。

 そんな彼だが、非常に愛妻家で子煩悩。彼ほどの大商人になれば多妻でもおかしくないのに、ただ一人の妻を愛し続けていた。

 その妻は、彼が苦難の時を、地獄のような日々を味わう中でも見捨てず、彼が再び成功をつかみ取るのを傍で支え続けていた良妻だったのだが。



 その良妻の筈の彼女は、政権交代後して二年が経過するかという頃に突然姿を眩ませた。阿良斗大王や奴隷商人達のせいで、人生どん底に叩き落とされた夫がようやく光明の治世下の元で再起を図り結果を出し始めた頃の事である。


 よく商売に失敗して何もかも失い無一文になって妻に捨てられるといった話は聞く。しかし、この葛の場合は、商売が成功し始めて商会が急成長を始めた所で妻に逃げられたのだ。


 新しい大王の覚えもめでたく、商売も順調に行き始めて未来に光が見え始めた。今まで奪われていた物を取り返し、ようやく人並みどころかそれ以上の生活を妻にさせてあげられると思ったその矢先に。


 彼女は一人息子を夫の元に残して、姿を消してしまった。


「今も思うが、よく探し出せたな」

「ふふーーそれぐらいの甲斐性はありますよ」


 そうしてにっこりと笑う笑みは、商人がよく浮かべる油断ならない底知れぬ物だった。奥方も気の毒だと思う。こんな男に目を付けられて。


 元々、年の差のあった結婚だった。いや、それ自体は珍しくはない。


 しかし、良い所の出の奥方は、血筋的には劣る夫の優しさに甘えて結婚当初は物凄い我儘だったそうだ。それは今思えば、実家で半ば放置気味だった彼女なりの防衛であり、仕事に忙しい夫に構って貰いたいという気持ちの表れだったのだろう。


 それは夫によく似た長男が産まれた後も続いた。その為、夫ーー葛は周囲から第二夫人、第三夫人の話を勧められたが、彼はそれを拒否し続けた。


 そんな中で、彼は商売に失敗した。

 それは彼の美貌に目を付けた奴隷商人の策略だった。


 多大なる負債。

 それは到底、返しきれる物では無かったし、奴隷商人はそうなる様に仕向けてさえいた。

 しかも、奴隷商人は彼によく似た彼の長男にも目を付けていた。


 そうして全てを失い地獄の日々が始まる中で、せめて妻だけでも守ろうとした葛に、その我儘な妻は決して頷かなかった。


 そればかりか、彼女は自分の実家の家督を父から奪い、その奴隷商人を牽制し始めた。今まで我儘で高慢な女としか周囲に思われていない彼女が、夫と我が子をその身を挺して庇ったのだ。

 もちろん、彼女を殺そうとする奴隷商人が向けた刺客は止むことなく送られ続け、また彼女が家督を奪った実家の親戚からも非難轟々という有様だった。


 それでも、彼女の家は少し特殊でーー当主にたてる証を持つのは、その当時は彼女だけだった。


 そうして、それまで守られるだけの幼い娘は、夫と子を、そして夫に仕えてくれていた者達を庇い続けたのだった。


 そんな生活が五年続いた。


 その中で、彼女は出会う。



 たった一人の姫にーー



 あの日も、彼女は自分から夫と子供を奪おうとする奴隷商人の刺客を退けた彼女は、腕に傷を受けた。それは、毒を持っていた。



 その毒は非常に厄介で、解毒薬も特殊な素材を使用した。



 彼女は死ぬ筈だったのだ。



 あの日に。



「音羽姫様にと、隣国の有名な絹を持って参りました」

「それは嬉しいねえ。でも高いんだろう?」

「献上品でございます」

「あの絹を?流石に普通はないよね?そんなの」

「音羽姫様は特別でございます」



 そう、葛にとっては特別だ。



 死ぬ筈だった自分の妻。

 毒を受けた事を知った葛が妻を見つけた時、彼女はその手に解毒薬の材料の中で最も入手が難しい物を握り締めていた。


 紫真珠ーー


 真珠の中でも、ごく僅かしかとれないそれは、一介の商人である葛はおろか、彼女の実家でさえ手に入れる事は難しかった。


 それを、当時食料を手に入れる為に母の装飾品を王都に売りに来ていた音羽姫は、いとも簡単に毒でしにゆく彼女に渡してしまったのだ。


 本当は、それで食料を手に入れる筈だったのに。



 見る者が見なければ、ただの黒真珠にしか見えないそれ。

 けれど、しっかりとした鑑定眼を持つ者達にとっては、震える様な最高級の紫真珠を渡してしまった。



 妻が、それを貰えないかと口にしたとはいうが、それでも音羽姫はあげてしまったのだ。



 後に調べれば、それを妻に渡した事で、音羽姫の食事はそれから一週間はかなりひもじいものとなったという。



 紫真珠のおかげで、妻は助かった。



 そんな妻は、それからも音羽姫に時々会っていたという。



 妻は彼女の前だけでは、本来の自分を取り戻せた。

 我儘な娘ーーいや、それよりもずっとずっと前、まだ愛を欲しくてたまらなくて、愛に飢えていた子供に。


 音羽姫は不思議な皇女だった。


 音羽姫も自分より年上の女性との、時々ではあったが、その再会を喜んでくれたという。



 そんな音羽姫が、斎宮に選ばれた。

 そして殺された。



 妻はその時点でもう、色々と限界だったのだろう。



 いや、それ以前からもうーー。



 妻は家督を奪い取った。

 けれど、それは一筋縄ではいかなかった。


 あの短期間で、奴隷商人から夫と息子、そして仕えてくれる者達を守る為に彼女は。



 自分の体を使ったのだ。



 自分の父から、娘婿と孫をむしろ奴隷商人に売り渡そうとした自分の父を蹴落とし、彼女は家督を奪い取った。その為に、彼女は他の数人の有力な男達と体の関係を結んだのだ。


 もちろん、男達は彼女に夢中になる事などなく、むしろ彼女を傀儡にして利権を奪おうとしていた者達だった。そんな男達に体を明け渡し、そして奴隷商人と戦う中で利権争いにも興じてきた彼女は少しずつ壊れていった。


 何よりも夫に散々我儘を言って迷惑をかけ、更には夫を裏切る毒婦の様な自分に愛想を尽かしていた。


 それが音羽姫の死の報せと共に、一時的にも保っていた筈の崩壊が進んだのだ。



 そうして彼女は、夫が新しい大王の元で商人として復活し、商会を成長させていく姿に安心した。彼女はもう大丈夫だと思った所で、夫と息子の傍から離れる事にした。



 そして彼女は、夫と息子を残して政権交代してから二年目のある日に、姿を消したのである。



「是非、音羽姫様にも我が家に立ち寄っていただきたく存じます」

「確約は出来ない。でも、その内にね。ただ、あの子に記憶は」

「存じております」


 葛は少しだけ悲しげに微笑んだ。


「世界を創る、その行為はそれ程に姫様のお体にご負担をかけたのでしょう」

「そうだね」


 葛は、上層部やそれに準ずる者達以外で音羽姫が世界を創造した事に関して真相を知る、数少ない者達に属して居た。


「ですが、例えあのお方が忘れていても、私にとって妻の命の恩人である事、息子にとって母の命の恩人である事は変わりません」

「……そう言ってくれると嬉しいよ、本当に」

「妻も、きっと音羽姫になら」



 そう呟いた葛の瞳に、苦しみの色が滲んだ。



 葛は、居なくなった妻を探した。


 妻に守られた者達、また商会の者達もこの失踪には困惑しかなかった。無一文になって妻が逃げるならばまだしも、夫が成功し始めているのに逃げるなんて何があったのか。


 妻への暴力か?と逆に葛が疑われたが、何があっても第二夫人、第三夫人を娶らず、むしろ奴隷商人から妻を守る為に離婚しようとしてまで妻を守ろうとした男がそんな事はしないな、とすぐにその疑いは晴れた。


 とはいえ、本当に混乱した。


 特に捨てられた形の葛は愕然とした。


 いつもは母に対して反抗心を見せていた長男も、呆然としていた。母に対して幼小時から反抗的だった長男だが、本当は母の事が好きで、母に関心を持って貰いたくて、ただそれが上手く行かなくてつっぱねていた息子だった。




 新しい妻を迎え、幸せになって欲しい

 長男を可愛がってくれる、優しい人を迎えてほしい




 そんな書き置きだけが残されていた。



 呆然自失となった葛は、下手すればそのまま全てを失ってもおかしくはなかった。

 もしこれが妻による、夫に衝撃を与えて商売人として失敗させる為の行動であれば、これ程素晴らしい手法はないだろう。


 しかし、そんな葛を叱咤したのは神だった。


「いつまでもそれなら失うぞ、本当に」


 神は光明に協力して国の統治に必要な情報を集める中で、葛の妻に関する情報も集めていた。そして、葛の妻が何を犠牲にして、どんな代償を支払って夫と息子、そして仕えてくれる者達を守り続けていたのかを知った。


 また夫の商会に属する商人達の妻子が奴隷商人達や横暴な身分や地位ある者達に狙われた時に、どの様にして守り続けていたかも知った。


 それを、葛や、商会の者達に暴露したのである。


 神としては、選択肢を提示したつもりだったのだろう。



 実際、その選択肢は葛を助けた。



 葛は妻を探し、見つけた時には粗末な小屋で男にのし掛かられていた。



 死に場所を探す中で、親の居ない孤児達を拾い育てていた彼女は、泥まみれになりながらも美しかった。いや、今までの苦労が彼女に更なる美を与えたのだろう。


 それに目を付けた、とある農村の有力者の息子が彼女を手込めにしようとしていたのだ。


 葛は怒り狂い、その息子を殴り飛ばした。そして、泣いて嫌がる妻を無理矢理連れ戻したのである。彼女に育てられていた孤児達も、そっくりそのまま連れてきて商会で保護する事になったが、それは孤児達を可愛がる妻に対する保険の様な所もあった。


 葛の妻は泣いて拒んだ。

 合わせる顔がないと泣き崩れた。


 そんな妻を葛は宥め説得したが、それでも駄目だった。



 このままでは妻が死んでしまう。



 だから葛は、孤児達を実の子の様に育てる優しい妻に枷をつける事にした。



 それから二年ーー葛は妻を孕ませ続ける。



「私の希望としてはあと三人欲しいのですが」

「真性の鬼畜的所行だな」


 それも年子でと言うのなら、こいつは本当に鬼畜だ。奥さんを休ませてやれよ。子供産むってどんだけ大変だと思ってんだよ。


 光明はその育ちは異常だけれど、考え方は常識的で、女性に優しい男だった。


「まあでも、確かに少し間は置いた方が良いですね」

「明日は吹雪か?」

「失礼です、大王」


 大王に対して失礼と言い放てるこの男もたいがいだと光明は思った。


「……妻も音羽姫様がご無事と聞いてから、とても調子が良くて」

「……」

「何を言っても答えを返してくれず、ただぼんやりと遠くを見ていた妻が」



 あの日、音羽姫が生きていたと知らされた日に、妻ははらはらとその瞳から涙をこぼした。そして、音羽姫が大王の宮殿に帰ってきたと知らされた日、妻は「良かった」と泣き崩れた。



 それからだ。



 妻は、少しずつ、少しずつ、自分の殻から出てくるようになったのは。




 音羽姫は特に妻に対して何かを言ったわけではなかった。

 けれど、妻が誰にも吐露できなかった心の闇を、音羽姫はただ静かに聞いていた。





 大変だったね


 辛かったね


 凄いね


 頑張ったんだね




 そうして相づちを打ち続けてくれた。


 それだけで、話を聞いてくれるだけで、救われた。




 夫と息子、そして仕えてくれる者達を、商会の商人達の家族を守る為に、一人きりで戦った彼女が、唯一愚痴をこぼせた相手。



 それは葛にとっては恩人であると同時に、嫉妬の対象でもあった。

 その嫉妬も、妻が苦しい時に、ただ守られるだけの存在しかなり得なかった自分への不満と妻への罪悪感の裏返しとも言えるだろう。


 でも、恩人であるのだ。


 妻の命を救い、心を繋ぎ止めてくれた存在。



 音羽姫が居なければ、きっともっと早くに妻の心は壊れていただろう。



 勿論、新しい大王としてこの国を安定させてくれる光明も、その皇后として、また葛を叱咤激励して妻を取り戻す力をくれた神も、葛にとっては恩人である。



 だから葛は、葛の商会は大王に協力する。


 利に聡く、自分に都合の良い者に付き、利益を生み出す事を信条とする商売人として、利益や損得を抜きに、葛の商会は大王に協力していた。

 いや、葛の商会だけではなく、今この国で名を馳せている他の二つの商会もまた、同様だろう。



「先日は」

「ん?」

「先日の神との婚姻の時の御衣装では後れを取りました。ですが、次は是非我が商会に」

「……次か」

「【神の花嫁】となるならば、それなりのお披露目は必要でしょう」



 正真正銘の、【神の花嫁】なのだから。



 優美な笑みを浮かべる葛に、光明はくすりと笑った。



「そうだね。まあその時にはーー入札でもするかな」

「是非とも」



 自分を売り込みはするが、入札という言葉に「むしろ望む所」と言わんばかりの笑みを浮かべる葛に光明は微笑んだ。



「だから葛は好きだよ」



 その言葉だけを聞けば、葛商会の美しい長に大王が愛を囁いている様にしか思えなかった。

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