第32話 淑宝の鬱憤
今日は朝から雨。
窓は雨が入るからと開けることを許されず、いつもより湿った空気が室内を満たす中で刺繍を進めていた私は恐る恐る口を開いた。
「淑宝、どこか調子が悪いんですか?」
私の前で同じように刺繍を行なっていた彼女の美しい顔はいつも通りなのに、そのほっそりとしながらも出る所は出た悩ましい体から発せられる禍々しいものが室内を満たしていた。
「まあ姫様、私はどこも悪くありませんわ」
にっこりと微笑むが、それが黒い笑みに見えてならない。
この時ばかりは、私は命の危険性を感じた。
「ーーまあでも、少し気持ち的にもやもやしている部分はありますわね」
「……誰かに苛められたんですか?」
そう言った私に、淑宝は目を瞬かせた後、心底楽しそうに笑った。
「まあ姫様!この私が誰かに苛められる様なか弱い女に見えますか?」
「苛められるのに性別は関係無いし、何がきっかけになるか分からないです。それに、淑宝はとても綺麗で仕事も出来てーー嫉妬する人達は多いと思います」
「姫様……」
淑宝は感激したと言わんばかりに体を震わせると、私に抱きついてきた。もちろん、互いの刺繍布と針は淑宝によって一瞬にして安全な場所へと放り投げられた上で。
「なんてお優しいのでしょう!正しく、大王の妹姫様ですわ!ああ、私は貴女様に仕えられて幸せです!」
「そんな、大げさなーーでも、そう言ってくれてありがとう」
否定すれば彼女の心を傷付けてしまうとして、濁す様に礼を言った。
「でも、淑宝ならきっとどんな所でも働けた筈だわ。それに、私よりもずっとずっと美しくて聡明で素晴らしい皇女達は多く居るわ。大王と母を同じくするのは私だけだけど、高位の妃を母に持つ皇女達も居るし、そういった姫達に仕えていてもおかしくはないわ。むしろ、私に仕える事にみんな衝撃を受けたんじゃないですか?」
衝撃というか、反対されたんじゃないだろうか?絶対に。
「そんな事はありませんわ!そもそも、大王より是非にと請われましたし」
ああ、兄が至らぬ妹を心配して淑宝を付けてくれたのだろう。
それに、前に大王より派遣されたとか何とか言っていたし。
けれど、淑宝ならば他の皇女達がこぞって自分の侍女にと欲しがっていた事は容易に想像が出来た。それ程に、とびっきりの逸材なのだ。
私は余り人を見るには優れてはいないけれど、淑宝が素晴らしく優秀で有能な女性である事ぐらいはいくら節穴の目しかない私でも理解出来た。
そして彼女が優秀であると理解すればする程、私みたいな落ちこぼれに仕える事になった彼女を哀れに思う。
「ですが姫様」
淑宝が、私を正面から見つめる。
「もし大王からのお話がなくても、私の方から姫様のお付きになれる様に懇願したと思いますわ」
「……え?」
「ずっとずっとお側に上がりたかったのです、音羽姫様。だから私、幸せですわ」
絶世の美女にそう請われて喜ばない男は居ないーーあ、私は女だけど。ただ、幼少の頃は母を除けば誰からも必要とされず見向きもされず、いらない物として扱われていた私に淑宝の言葉はかなりの威力を発揮した。
「本当であればもっと早くに、それこそ姫様がこちらに来られた時に侍女として上がるはずでした。そうであれば、あのような者達など側に近づけなかったのに」
それが誰を指すのかは、いくら私でも分かった。
「そ、その、彼女達は彼女達なりに仕事をしてくれていたわ」
前の侍女達を指して、私は言う。
嫌々さ加減が丸わかりで、影で嘲笑するなら可愛い物。
表だってこちらを嘲笑し、侮蔑と蔑みの言葉を吐き捨てられる事もしばしばだったけれど、それでも最低限の仕事はしてくれた。
母を亡くした後は、それさえもなく私は放り捨てられ放置されたのだから。
むしろ、今の方が至れり尽くせりで、何と言うか、落ち着かない。
いや、この生活に慣れてしまいそうな自分に恐怖すら覚えていた。
一寸先は闇。
明日どころか、少し先の事すらどうなるか分からないのが現実だ。
この生活に慣れてしまう事で、突然昔の様に放り投げられてしまえば、その時に受ける絶望は更に大きい物になるだろう。
慣れてはいけない。
このぬるま湯の様な環境に染まってはいけない。
母を失った瞬間、最低限の事すら奪われた。
そしてーー斎宮の宮での生活も、あっという間に壊れてしまった。
同じように、再び私を取り巻く環境が一変してしまうかもしれない。
全てを奪われ、放り出され、何もかも失って地面に崩れる自分の姿が容易に想像され。
もしまた、慣れてきた環境が変わってしまえば、私はどうなってしまうだろう?
もう二度と立ち上がれないかもしれない。
私は心の中で、今の環境が長く続く事を願っている自分に気づいていた。
あの斎宮の宮での生活を壊され、女性達を奪われーー本当なら憎しみと怒りで一杯になっていてもおかしくはない筈なのに。
斎宮の宮とはまた別の、穏やかな時間が流れるこの高倉で。
ああ、おかしくてたまらない。
この場所に私は閉じ込められているも同然ーーいや、実際に閉じ込められている。
自由を奪われ、外に出る事も許されず、会いたい人達とも会えず。
連れ攫われた女性達や磐達が酷い扱いをされているからもこの目で確かめられず、ただ彼女達が少しでも心健やかに暮らせていられる様に祈る日々。
衣食住で怯える事はない。
その代わりに、自由を失った。
人によっては、なんて不甲斐ないと怒るかもしれない。
人によっては、所詮は安穏とした生活を取ったのかと蔑むかもしれない。
人によっては、私の今の状況を罵倒し、嘲笑するかもしれない。
あの斎宮の宮での生活を壊した者達の与えた物に満足し始めている、愚か者。
奪われた女性達を誰一人として取り戻す事も出来ない、無力な私。
それでもーー
未緒をあんな風にしたけれど、それでも私は気づいていた。
叶斗は叶斗なりに彼女を大切にしていた。
他の者達の、他の女性達や男性達を囲う者達の事は詳しくは知らない。
けれど、淑宝や黄牙はきっとそれぞれの相手を大切にしているーー彼女達を見てそう思えた。
そして、彼女達がそうであれば、他の者達もーー。
愚かな事である。
彼女達がそうであるからといって、全ての者達がそうだとは限らない。
だから、これは私の願望。
けれど、それでも願ってしまう。
どうか、幸せにーー。
奪われた斎宮の宮を取り戻し、彼女達を取り戻し、地中に眠らせた男性達に謝罪する事も出来ない力無しの私には、ただそれを願うだけしか出来なかった。
とんだ他力本願だ。
運命に流される、弱い存在。
一方、淑宝は、あの獣の様な父に妃として囲われ、愛しい人を罪人とされて殺されかけ。
それでも彼女は諦めず、兄と神の反乱によって前政権が打ち倒された後、自身の才覚でもって新たな道を切り開いた才女だ。
辛い運命を乗り越え、必死になって生きてきた、強い女性だ。
そんな彼女が行き着いた先が、この私の侍女という地位。
なのに優しい彼女は、私に仕えられて幸せだと言ってくれる。
それが酷く申し訳ない。
そして、私自身が私に価値がない事を知っているからーーだから、前の侍女達のあの態度はある意味当然だと思っていた。
だってそうでしょう?
ここまで仕えがいのない、皇女なのだから。
ただ皇女という地位と身分があるだけの、何の役にも立たない娘。
皇族の端くれにその名が連なっているだけの存在。
本来仕えるべき皇女が優れていれば優れている程、それに仕える者達の名誉と権勢は高まっていく。周囲から羨望の眼差しを向けられ、羨ましがられるのだ。
反対に、仕える皇女がパッとしなければ、周囲からは蔑みの眼差しと嘲笑を向けられる。出世街道からも遠く離れるだろう。
私に仕えるという事は、後者なのだ。
本当であれば、美しく聡明な皇女に仕えられた筈なのにと彼女達が嘆き怒るのは当然である。
彼女達には本当に悪い事をしてしまったーー
彼女達が本来もっと能力を発揮出来る場を奪い、私の様な落ちこぼれに仕えさせてしまった事で、彼女達の貴重な時間を長く奪ってしまった事に、私自身憤りを覚える。
彼女達に投げやりで適当な扱いをされ、嘲笑と罵倒を向けられ悲しく思ったけれど、今思えばそれらは全て彼女達のやりようのない怒りと悲しみ故の事だったのだ。
もっと早くに大王に願い出て、彼女達の能力が発揮出来る場所に職場変更をしてあげるべきだった。
「彼女達も新しい職場で元気にしているかしら?」
私はこの時、彼女達は新しい職場で働いているものだと思っていた。私の所を退職したのだから、別の所で働いているのだと。
俯いたままその言葉を口にした私は、淑宝の浮かべた表情を見る事は出来なかった。
「それより姫様、私の事を気遣ってくださりありがとうございます。ふふ、私は本当に良い主に仕えられて幸せでございます」
その言葉に、私はくすぐったい物を覚えた。
「もちろん、他の侍女達もですよ」
食事の用意の為にこの場を離れている残りの侍女達も同じだと言われ、私は気恥ずかしいものを感じた。
「こ、こちらこそーーでも、本当に大丈夫ですか?侍女という仕事は色々とやる事があって大変だし、常に私の傍に居て……少し休んだ方が良いのかもしれません」
思えば、神が追い払う以外は、淑宝は私の傍に居た。
まあ、監視役も兼ねているのだから仕方が無いと言えば仕方が無いのだけれど、流石にずっとでは疲れてしまう。他にも侍女達は居るのだから、交代で。
「姫様で私はご飯三杯はいけます」
「え?はい」
両手をガシッと握り締められ、熱い熱い告白を受けた。
きらきらとした眼差しを向けられ、甘やかな笑みを向けられたのが男であればーーいや、女でもくらりと来て道を踏み外してしまいそうになるだろう。
けれど、私は淑宝の言い放った言葉が気になって道を踏み外すどころではなかった。
「あ、あの」
「まあでも、色々と精神的苦痛はありますわね」
「それって」
やっぱり私に仕える事でーー
「姫様のせいじゃありません。あの男のせいです」
「あの男?」
「そう、あの、黄牙!!」
あ、これなんかまずい物を掘り起こした気がするーー。
私は急いで話題を変えようとしたけれど、出来なかった。そもそも、聡明で博識な淑宝を私如きが誘導出来る筈もない。
「私が黙っていれば、ピーチクパーチク、なんて五月蠅い男なのかしら!!ふんっ!姫様のお側にいるこの私に嫉妬しているからって、懐の小さい男だわ!!」
「え、あの、いやそれは」
「この前だって、姫様の前で私に恥をかかせて」
それはあの取っ組み合い事件の事を言っているのだろうか?
いやいや、別に恥などかいていませんから。
「でなくとも、色々とこうるさいのですよ?!もう!!まあ、的を射ている時もありますけれど、それだってグチグチグチグチとっ!!ああいう女々しい所が渚に嫌がられるのですわっ!」
「え?そうなの?」
「まあ、後宮に居た男達は皆、【女】として言葉遣いも立ち振る舞いも強制的に矯正されているのですから、仕方が無いといえば仕方がありませんけどね。刺繍とか、女性の嗜みも全て叩き込まれておりますし」
「黄牙、凄かったですよね。あの刺繍、本当に素晴らしかったです」
「姫様の方が素晴らしいです!それに、渚の刺繍の腕前に比べれば黄牙の刺繍などただの粗悪品ですわっ」
渚の刺繍の腕前は確かに凄かったのは斎宮の宮で生活していた時に知っていた。
けれど、黄牙の作品が粗悪品だとは思わない。
「というか、男性でありながら女性の立ち振る舞いや言葉遣い、嗜みも全て出来るって凄いですよ?だってそれは、男性と女性両方の事を出来るって事ですから」
「姫様、なんてお優しい!ああ、本当にあの性格悪くて根性も悪い男を近づけさせたくはありませんわっ」
「いや、黄牙は性格も根性も悪くはないと思います」
そう言ってから、私は考えた。
渚を囲っているのに?
いやいや、今はそれとこれとは別に考えよう。
「まあでも、確かにあの男は【女】としては一流でしょう。他の【女】として囲われてきた者達、特に後宮出身の男達の中でも、とびっきりですわ。ふん、そのせいで同人誌では必ず受けにされている事を考えれば、少しは溜飲が下がるってものですわ」
「……どうにんし?うけ?」
聞き慣れない単語に、首を傾げた私。
その私の目に映った淑宝の目が、キラリンと光ったのが見えた。
え?人の目って光るの?
「ふふ、ほほ、お~ほほほほほほほほほっ!」
なんか凄く高笑いしている。
「あ、あの」
「ああ姫様!姫様はなんて汚れのないお方でしょう!ふふ、今や、王都に住まう女子のおよそ八割がその道に染まっているというのにっ」
「え?」
「そう、同人誌!貴重な紙も、その為には惜しまず使用されている現在!」
「え、えっと、あの」
「姫様は男色という言葉はご存じですよね?」
「は、はい」
私の父がそうでしたからーー。
あと、父の時代の上層部とかその他周りもそうでしたからーー。
「まあ同人誌には様々な分野や種類がありますし、受けと攻めの組み合わせもありますがーー今、この王都を支配し、各地方にも物凄い勢いで勢力を広げているのが」
淑宝は力強く言った。
「腐女子達の聖典ーー男色同人誌なのです!」
婦女子? 聖典? 男色? どうにんし?
私は熱く語る淑宝の言葉の一割も理解出来なかった。




