第22話
涙ぐむ私に、未緒がより強くしがみつく。
「ごめんね、未緒。心配をかけて」
その背中を優しくさすりながら、私は顔を上げる事が出来なかった。気づいてしまったから。
分かってしまったから。
私の存在が、私が母のお腹に宿ったのがそもそもの不幸の始まりなのだと。
「音羽姫様」
淑宝が、黙ってしまった私に声をかける。
「大王を苦しめたのは、先代大王です。あの獣が光明大王を苦しめた元凶です。なのに、どうして貴女様が苦しめた等と」
「お母様」
私は淡々と答えた。
「お母様は私がいなければ、もっと早くにお兄様を助けようとされた」
「音羽姫様」
「けれど、私がお腹に宿ったからそれも出来なかった。お腹の子まで殺す事は出来なかった。だから、お兄様がどれだけ苦しんでいても、どれだけ悲しんでいても、辛くても恐くても、お母様はお兄様を抱きしめてあげる事が出来なかった」
そして兄が苦しみ恐怖の時間を過ごす中で、私は母に守られていた。
「お母様は、最後までお兄様を心配していた」
奪われた我が子に何も出来ない自分を憎み、恨み。
最後まで、息子の事を心配しながら逝った母。
「私は」
私が絶対に、お兄様を助けるから!!だから泣かないで、お母様ーーっ!!
「あの畜生と差し違えてでも殺すべきだったのよ、もっと早くに」
両手で覆った顔。
口元が、歪む。
殺すべきだった、そう、殺すーー
ドクンと、心臓が脈打った。
「あーー」
胸が早鐘を撞くように高鳴る。
体中の血管に激しく血が流れるのを感じる。
そしてーー
「姫様!!」
全身に激痛が走った。
「あ、っ……」
「姫様!どうなされたのですか?!」
未緒が悲鳴を上げた。
ああ、また未緒を怖がらせてしまった。
私は未緒の頭を撫でようとしたけれど、腕が上手く動かない。喉も麻痺した様に言葉が出なくなる。
「ーー」
「みやさま、しなないで」
未緒はおかしい。
この程度で死んだりする筈がないのに。
けれど、未緒は必死に私に縋り付く。
「淑宝様、これはっ!」
侍女の一人が、胸をかきむしる私を見て目を見開く。
「なっ……まさか、そんなっ」
淑宝の顔が絶望に染まる。
「……だから、なのですか?だから、これ程までに貴女様はーー」
「ーー」
淑宝の名前を呼ぼうとしたけれど、上手く行かない。
「姫様ーー」
淑宝の顔から、ストンと全ての感情が抜け落ちる。
「大丈夫ですわ、もう」
「ーー」
「ええ、大丈夫。もう、何も心配する事はありません」
そう言って私を赤子の様に抱きしめる淑宝の温かさに、私の意識はいつの間にか途絶えていった。
「そうか、確認したかーー」
意識を失った後、懇々と眠り続ける音羽の傍に座った神に報告が為される。
「……やはり、隠れていたのか」
「御意」
今はもう何も無い、その白い胸元。
斎宮の宮に居た時にはもっと日に焼けていた肌は今、高倉に長く居る事で白くなった。
「……どうして」
淑宝が、あの女傑が両手で顔を覆って泣き崩れていた。
「どうして、なのです?どうして、この方ばかり!!」
「……」
「許せない、許せない!!」
「……こいつが倒れたのは、確かにーー先代大王への殺意を露わにした時なんだな?」
「……はい」
全身を激痛に支配され、苦しみに悶える大王の妹姫に百戦錬磨と言われていた彼女付きの侍女達は何も出来なかった。
呼ばれた医師さえも。
「これは、病ではありません」
長くこの国に仕えてきた医師はそう言った。
彼の息子夫婦は先代大王に殺害され、孫は妃として奪われた。その時に、彼の中で先代大王への細く今にも切れそうだった忠誠は完全に潰えたのだ。
「……神よ」
「なんだ?」
「どうか、お覚悟をお決め下さいませ。これまで、貴方様はあの手この手で引き延ばし続けてきた。けれど、もうーー」
「……なんだろうな」
「神?」
「こいつは、一体何のために産まれたんだろうな?新しい美しい玩具を欲したあの獣の為?それとも、兄を助ける為の隠し球?何の利用価値もない蔑まされる為だけの皇女として?神の力を安全に消し去る為の器として?それともーー」
神の口から出た言葉に、医師が唇を噛み締めた。
「どうして、こいつばかりなんだ?こいつばかりが、こんな目に遭わされ続ける?ーーおい、聞こえているのか?」
神は彼女のーーへとドスの利いた声で言い放った。
「まさか本当に隠れていやがったとはなーーだから、あんなにもさっさとくたばったんだな?あぁ?」
「……」
医師は何も言わない。
淑宝も。
そして、すぐ傍まで来ているが、高倉に入れないで居る、光明も。
「許さない」
神の口から呪詛の様な言葉が紡ぎ出される。
「俺はお前を絶対に許さない」
ざわざわと空気がざわめく。
高倉の、彼女を中心に風が生まれる。
「お前を、絶対に」
彼女の体から、黒い物が吹き出す。
「刃向かうかーーだが、全てがお前の思うとおりに行くとは思うな」
神はそう言うと、彼女の額をトンッと叩く。と同時に、彼女の体からまき散らされていた物が消えてなくなった。
「神ーー」
「……お前は、こんなにまでなっても」
神の目にだけは見えていた。
彼女が、それを大切に抱えている事を。
あれに蝕まれていく中で、姿を見せたあれが一気にその触手を伸ばそうとする中で、それを拒み守り続ける姿を。
それはきっと、彼女自身すら気づいていない。
ああ、だからーー
だから、引きはがせなかったのか。
「覚悟を決めた」
神は誰に言うでもなくその言葉を紡いだ。
「お前をーーる為なら、その為なら俺は」
温かいーー
嬉しいーー
楽しいーー
温かかった。
温かくて、優しい、光。
粉々に砕かれた自分に、優しく染みこんでいくそれに神は少しずつ癒されていった。
神にとって、彼女は最初から被害者だった。
そして、神にーーくれた存在だった。
だから、少しでも、少しでもーーそう思った。
いや、違う。
神は、彼女にだけは酷い事をしたくなかった。
「……恨めばいいさ」
本当はもうずっと前に、いや、最初からこうするべきだったのだ。
「だが、例え恨まれても憎まれても、俺は絶対に止めない」
残された時間は、もう少ない。
彼女の中のあいつがこちらに気づかれた事で、動き始めた。
そしてまき散らされた瘴気に、彼女の魂はより疲弊した。
だから、もう手段など選ばない。
「神よ……本当に、何も伝えないのですか?」
「諄い」
好々爺の様な医師の言葉を、神はばっさりと切り捨てた。
「お前はこいつを殺す気か?」
「……ですが、この方は何も知りません。何も」
「だから、縁が出来ずに済んでいる。縁が出来てこれ以上絡み付けば、こいつは間違いなく死ぬぞ?」
「……」
「もう、残された方法は無い。いや、あったなーーごく簡単な方法が」
それを選ばずに来たのは、自分の甘さだ。だが、それをどうして選べただろうか。
そして、もう一つの方法も選べなかった。
神は願ってしまったから。
望んでしまったから。
彼女に、ーーたいと
「奴は暫く動けない。だが、それもいつまで持つか」
「神……」
「俺が力を取り戻せれば、全てが上手く行く。上手く、行かせる。だから」
その為には、何だってするーー
神の覚悟に、医師達は、そしてこの場に居ずともその言葉が伝わった者達は静かに覚悟を決めた。
だが、神が実際に彼女にそれをする為にはまだそれから少しの時が必要となる。それ程までに、彼女の体と魂が弱り切っていたからだ。
今のままでは、そのまま死んでしまう。
だからもう少し、もう少し、体と心を癒す。
せめて、それに耐えられるだけの力をーー
そうして待った期間が、より彼女の心を深い底へと転がさせていくとすら気づかずに。
そして悲劇の時は少しずつ近付いてきたーー
「……外に行きたいな」
私はぽつりと呟いた。
未緒の前で倒れてから一週間。
前回の毒で体が弱っていた事もあり、私は寝床での絶対安静を命じられていた。ただし、今回は神は毒の時のように入り浸らず、代わりに淑宝達が私の世話をしてくれていた。
「不細工、調子はどうだ?」
それでも、神は毎日来ては私をからかっていく。いや、罵っていく?とにかく、不細工と呼んでは私の顔を覗き込んできた。
「まあ、何とか大丈夫です」
「そうか。もう少し食え、そして肉を付けろ」
「食べてはいるんですよ」
ただ、食欲が余りわかず、相変わらず食事量は少ないままだが。
「未緒が泣いている」
「……努力します」
私が余りにも頻繁に寝込むものだから、未緒が会いに来たくてもこれない状況となっている。私は別に良いのだが、そんな骸骨みたいな顔を見せるのか、お前はーーそう言われてしまえば反論出来ない。
ただ、骸骨は言い過ぎだと思う。
「とっとと、起き上がれるようになれ」
「……努力します」
それから暫くして、神は高倉を去って行く。ただし、その前にいつもの様に神は私に一本の花を押しつけてきた。
「やる」
「はぁ」
青い花のそれは、神秘的な美しさを放っていた。
「知っているか?それは踏まれても何をしてもどんな状況下でも生き延びる花だそうだ。お前は元々体だけは頑丈の脳筋だからな。全身の筋肉を鍛えて、そんな風に殺されても死なないふてぶてしさでのたうち回れ」
「喧嘩売ってるんですか」
どうしてそう余計な事を言うのか。
「ふんーー」
神は私から視線をそらせると、そのまま高倉を出て行ってしまった。
「誰が、脳筋ですか」
「まあ!素敵な花ですね!やはり見舞いには花ですわ。それに、とても熱く甘い告白まで」
「……」
どこら辺が熱くて甘いのだろう?
もしかして、神々の熱くて甘い告白は、相手をけなす事なのだろうか?
しかし、私の疑問は程なく解き明かされた。
「お前は相変わらず美しいな」
「まあ、神ってば言葉が上手ですね」
「羞花閉月とはお前の様な者の為にある言葉だな」
「それは神にこそ言える言葉でございます」
「……」
気分転換と、足に筋肉をつける為にと泣き付いて少しだけ高倉の外に出して貰えた私は、遠くで女官に優しい言葉を紡いでいる神を目撃した。
「……へぇぇぇぇぇぇえ?!」
「え、えっと、音羽姫様、その」
私付きの護衛と言うよりは、外にいる間の私付きの監視役の黄牙と叶斗が私の様子に慌てだした。
「ふぅぅぅん?ほぉぉぉぉぉ、はぁぁぁぁあ?」
なんだ、あれ。
私には無体な扱いばかりしているというのに、他の女性達には優しいのか?紳士なのか?というか、お前は誰だ。
「そ、その、ほら、他国にはツンデレとかいう言葉がございまして」
「知らないそんなのっ!」
何ですか、つんでれって!!
「いや、黄牙。神の場合はツンツンツンデレツンツンツンな気が」
「お前は黙っていなさい、叶斗!!」
「……私、間違っていました」
「へ?音羽姫様?」
私の言葉に、黄牙が叶斗から私へと視線を向ける。
「お母様に言われたのです。何が正しくて間違っているか、情報をきちんと取りなさいと。ええ、そうですね。神が私に対する態度は、あれが神の通常使用だと思い始めていましたけれど、ところがどっこい、そんな事はなかったのですね?」
「いや、むしろあれは神にとってどうでも」
「ええ、分かりました。神は本当に美しい相手にはとても紳士なのですね、所詮顔が大事って事ですね!!」
「顔など!!そんな皮膚一枚の事でっ」
「骨格もです!!」
いや、骨格は基本みんな一緒ーーではないけれど、そんな大きくは変わらないだろう。なんというか、筋肉の付き方というか、なんというか、うん。
叶斗は心の中だけで呟く事にした。下手な事を言えば、余計に火に油を注ぐ結果となる事に気づいたから。賢明な判断である。
「人間、実際に見聞きしないと分からない事もあるようですね。百聞は一見にしかずという言葉もありますし」
「え、えっと」
「……私も少し、外を歩く機会を持った方が良いという事ですね」
「いや、それは駄目です!姫様はお体が弱くて」
「毒を盛られなければどうって事はないです!」
私の反論に、黄牙達はウッと言葉に詰まった。
「それに、私、気づきました。心と体を強くしなければ駄目だと」
「ひ、姫様」
「そして、神に引っ張られても全く動かぬ不動の心得を会得して」
「いや、会得だけじゃ無理だと」
「太ります」
「はい?」
黄牙と叶斗が揃って首を傾げた。
「不細工の上に、太れば、神も私になんて見向きもしなくなりますよね?ああ、清々します!」
「は?!どうしてそうなるんですか?!」
「無理ですよ!今でさえ姫様のお顔に対して普通に、あっ」
叶斗は黄牙よりも年下だ。だからなのだろうか?黄牙に比べると失言が多い。
「太ります!!全力で太ります!!」
そうして走り出した私は、高倉へと全力疾走した。
が、当然ながら足の筋肉がそれ程ついていないので、程なくスッ転んだ。
そして更なる悲劇で
「どうしてお前はそんな馬鹿な事をしたんだっ!!」
やけ食いとばかりに食べまくった事で、小さくなった胃が耐えられるはずもなく、私は胃を壊した。
そして寝込んだ私に、神が怒りの声を上げた。
「お前、真性のアホだろ!!」
「神なんて大嫌い!!」
売り言葉に買い言葉。
激しい言い合いは、その後も暫く続いたのだった。
因みに本来なら、こういう時は「え?お前嫉妬したのか?!」、「そんな事、ないわっ」、「バカだなお前は!俺にはお前だけだ!」、「っ!ば、バカっ」みたいになると淑宝が泣きながら講義してくれた。
しかし、それは一般論であると私は断固認めなかった。




