第1話
天界十三世界が一つ、炎水界にある大国ーー浩国の王妃ーー紫蘭。
実は王妃やるより、他国で下女をやっている方が幸せ一杯な、今日も絶好調な見た目十八歳の彼女。
王妃時代に祖国で何度も自殺未遂をした挙げ句、特殊な記憶障害まで背負った彼女は、全てを忘れても尚、強く生きる逞しい不細工だった。
そんな彼女は、自分を保護してくれた凪国で下女という仕事に付いていた。
本来、他国ーーそれも凪国には敵わずとも大国の王妃が、いくら炎水界では第一位の凪国であろうと下女という扱いはあり得ないだろう。
しかし、それよりも上の位だと浩国の使者に会う可能性があるのだから仕方ない。
幸か不幸か凪国と浩国は同盟を組んでいるので、上女や女官なら使者と顔を合わせる確率は上がる。いや、そもそも他国の王妃なのだから離宮か何かに入れて保護すれば良いという意見もあったが、何でか本神が働く事に意欲満々でどうにもならないといった部分が強かった事、また少しでも浩国王妃という身分を思い出させる様な事はしない方が良いーーという医師達の判断により、結局は下女として働く事を許した。
その結果、もうそれはそれは生き生きと働いていた。
見た目不細工だが、元気に明るく懸命に働く姿を目に留める者達は少なくない。
美しき華は観賞用。
遠くの美神より、近くの醜女。
結婚と恋愛は違う。
庶民であればある程、そういう考えが根付いている地域もある。そしてそういった地域に住まう、現実をよく見る者は美人過ぎる王宮仕えの者達にうっとりしつつ、現実的に結婚相手を探していた。
そんな彼らにとって、働き者で性格も良い紫蘭は理想の結婚相手だった。
「朱詩様、また紫蘭が呼ばれたようですよ」
「ああもうっ!見る目あるけどまたかよっ」
朱詩が配下の者からの報告に、怒りの声を上げた。
紫蘭は既婚者だ。
浩国からの預かり物で、しかも王妃という至高の地位につく存在でもある。それが、他国に保護されている最中に別の男と結婚したなんてなったら大変な事になる。
これが下位の妃で王の寵愛もなければ政治的利用価値もない、すぐに下賜やら離縁やら可能な存在ならばまだしも、あの浩国国王の執着具合を見れば絶対にそれはない筈だ。
紫蘭のそもそもの不幸は、あの浩国国王と出会った事だろう。
別に出会ってすぐに王妃にされたわけではないが、そもそも出会わなければ彼女が王妃にと選ばれる事は無かった。
その後に色々とあって今更自分の気持ちに気づいたあのバカ王だが、ざまあみろ。その時には、すっかりと何もかもが信じられなくなった紫蘭に拒否されまくったのも当然である。
しかし、あの王は自分達以上に粘着質で、なおかつ上層部もまた紫蘭を手放そうとはしなかった。王を止められもしない、愚か者達。
結局、揃って忘れられたのはいい気味だ。
一方、向こうで不遇の日々を送った彼女は、全て忘れ新しい神生を歩み始めた。
だが、そこで問題が起きた。
記憶を全て喪った彼女は、どこからどう見ても働き者の下女だった。と同時に、彼女はある趣味に目覚めてしまった。元々持っていたのか、新たに生まれたのかは分からない。
その趣味の名は、BL。
彼女はBL雑紙を集めるのが好き、書くのが好き、見るのが好き、妄想するのが好きーーという、筋金入りのBLオタクとなってしまったのだった。
現実に存在する相手で妄想するのも大好きで、凪国の上層部やそれに準ずる者達、凪国の一大勢力である煉国の元寵姫達がくんずほぐれつ絡み合う姿を本人達を見て妄想する事もいつもの事だった。
その時の視線など、もはや視姦されているかの如し。
絡み付く視線に、全身が嫌悪感を通り越し恐怖に震えた事など毎回だった。
「ぐへへへへ、今日も良い尻をしているわ」
と、どこのセクハラ親父だーーと言わんばかりの台詞を口にし、涎を手でぬぐう姿に、浩国の将来の前に対象者は自分達の未来が危ぶまれた。
もちろん、自分の妄想の為に何かをしでかすという事はしないがーーいや、自分達でカップリングを妄想し、その妄想を小説やら漫画やらにする事を何もしていないとは言えないし、激しくガン見される事で毎回受ける精神的苦痛がーー。
ただ、自分の妄想を叶える為に、その対象者に女性の婚約者や恋神、結婚相手に危害を加えるという事はしなかった。むしろやるようなバカを自ら制裁していた。
そして度を超したり、相手に危害を加える様な他のBL好きにも直々に制裁し、凪国のBL界を清く正しく、節度と礼儀を持って行なう様に法を整備した立役者だった。
おかげで、凪国のBL界は昔に比べてずっとずっと礼儀正しい品行方正なものとなった。
だが、それとこれとは別だ。
ガン見はやめてくれ、視姦はしないでくれ。
と、そんな女を嫁になんて冗談ではないがーーそういう対象として見られていない男達からすると、紫蘭はごく普通の少女だった。
紫蘭は美形カップリングがお気に入りで、美形ばかり視線で視姦するがの如く妄想する。
それ以外は興味なしと言わんばかりに、普通に接する。視線も和らいだ普通のものとなる。
そうして普通に接して貰える男達に、どれ程怒りと不満を抱いた事か。朱詩なんて悔しさの余り歯ぎしりをした。
ただ、紫蘭がそうやって美形ばかりを視姦するかの如く見て妄想するのは、一種の自衛である事も分かっていた。そんな風に自分を見る女性に近づく男はなかなか居ない。
美形に嫌な目に遭わされ不幸にされた彼女は、そうやって美形達を遠ざけているのである。
それを知ってからは、朱詩は紫蘭に同情したがーーそんな紫蘭の無意識の企みどおり、その視姦されるが如くの絡み付くような視線に慣れる事は無かった。
そして話は戻り、現在紫蘭にアタックするのは、そんな普通顔の青年達である。彼らは紫蘭の妄想の犠牲になる事もなく、ごく普通に紫蘭と接し、彼女の内面の美しさを知った。
紫蘭は妻にするならば、かなりの優良物件だった。
働き者で明るく気立ても良い、上からは可愛がられ同僚や後輩からの信頼も厚いなんて最高ではないか。
家事洗濯も得意だし、料理上手。生活力も高い。
ああいう子をうちの嫁にしたいねぇーーそんな風に王都の下町で言われているのを、朱詩は知っていた。
だからこそ、まずい。
向こうは本気だ。
そして紫蘭は忘れてしまっているが、すっかり王妃とか王族とかそういうものに疲れている。忘れていても本能が覚えていれば、それに従い王侯貴族以外との結婚を了承してしまうかもしれない。
そもそも、彼女は自分を独身だと思っている。
「くそ……本神に知られないように神妻だと言う噂を流すか?」
「本神に知られても良いので流して下さい」
音も無く、気配すら消して自分の後ろに立った存在に朱詩は悲鳴を上げた。思わず斬りかからなかった自分を褒めて欲しい。
それは、紅葉だった。
浩国上層部が一神にして、凪国に保護された紫蘭の監視役。紫蘭の情報を浩国に流す役割を持った彼女は、凪国の許可を得て王宮仕えに扮する。
彼女は美しい笑顔を浮かべていた。しかし、その笑顔は恐ろしいものだった。
「我が国の王妃様に懸想する男どもの気持ちも分からないでもありません。しかし、それでも許される事と許されない事があるのです」
「いや、うん、はい」
「早急に、紫蘭の周りから男どもを排除して下さい」
「は、はい」
でも、美形の周りに出没するのは止められないと思うーーという朱詩の心の言葉は、心の中だけで呟かれた。
それから間もなく、紫蘭は暫く洗濯業務だけ任される事となった。
「ゴシゴシギュッギュッランランランラン~」
紫蘭は歌を歌いながら洗濯板で洗濯物を洗う。洗濯は好きだ。汚れているものが綺麗になっていくのを見るのはとても気持ちが良い。
紫蘭はとても真面目に仕事をした。午後の分の洗濯も午前中に終わらせてしまった彼女は、少し遅めの昼食を取る事にした。食事も食堂ではなく、洗濯場の端に設けられた休憩所で食べる。
そうして一神、遅めの食事を取ろうとしていた紫蘭の所に下女仲間が来た。
「あ、紫蘭、ようやくお昼?」
「うん。ちょっと時間がかかっちゃって」
「そっか~。あ、でも午後の分も終わったなら少しはゆっくり出来るわよね」
地味な容姿だが、働き者で元気が良い所が地味に異性に人気のある友神に、紫蘭は頷いた。
暇な時間ーーやはり、BLウォッチングか?!
だが、あちこち歩き回るなと上司から言われている事もあり、そのウォッチング範囲はごく狭いものになるだろう。ああ、誰か集団で来てくれないだろうか?上層部とか上層部とか上層部とか。
そこで紫蘭は、友神の手にある物に気づいた。
「あれ?それ、新刊?」
BL仲間だが、恋愛小説系も大好きな友神はよく王都に降りては本屋に出向いていた。この前も、お気に入りの恋愛小説の感想を延延と紫蘭に語ってくれた。
「そう!っていっても、今回のは新しいシリーズよっ!」
「へぇ~」
恋愛物より、BLだ。
いっそ清々しい程に、紫蘭の好みは決まっていた。
けれど、異性同士の恋愛物も嫌いではないので、嬉々として説明する友神の話に耳を傾ける。
「あ、もう一冊買ってあるから貸したげる」
そう言って、既に読んだからと本を貸そうとしてくる友神に、これは何を言っても駄目だと理解した紫蘭はそれを受け取った。余計な争いを起こさない為には、時には引く事も大切である。
そうして受け取った恋愛物の小説を、紫蘭は就寝前の寝台の上で開いた。明日は休みなので、少々寝過ごしても構わないだろう。久しぶりの連休は、BLのイベントもないのでゆっくりと休むつもりだった。
そういえば、出入りの商神の一神から声をかけられていたっけ。
その、良ければーー
なんかどこかに付き合って欲しいとかーーまあ、特に予定もないのでそれ位なら良いだろう。明日の夕方にもう一度来るとか言っていたけれど、それには流石に間に合うだろう。
紫蘭は本を開いて中身に目を通していく。
それは遠い遠い古代のとある国の話。
主人公は、一神の姫君でーー。
文字を目で追っていく紫蘭の視界が、ゆらゆらと揺らいでいく。
「え?」
思わずその本から手を離そうとした紫蘭の耳元で。
誰かが囁く。
ーーれ
指が、手が本から離れない。
勝手にページを捲ろうとしていく。
しかも急速に眠気が襲ってくる。
それでも、紫蘭の目は文字を追っていた。
止めたいのに、目が文字を追う事を止められなかった。
まるで、吸い込まれる様に次々と飛び込んでくる文字の羅列を理解しようとする自分と、それを拒絶しようとする自分が居る。
ーーれ
拒絶する自分が叫ぶ。
けれど、もう一神の自分がそれを理解していく。
紫蘭は、悲鳴を上げた。
文字の羅列が織りなす、その物語。
それは、それはーー
この話の中の少女は、私だーー
瞬間、パンッと何かが弾け、紫蘭の意識は急速に薄れていった。