少女は二人旅を続ける*二日目の旅 終盤の半分*
*
「……おい。全然追いつかないのは一体どういう事だ。『穴熊』のベリルは兎も角として、その件の娘はどれだけの持久力を持ってる? 湿地帯を抜けるのに半日も掛からないとかおかしいだろ」
「ユギ、あんまり喋って体力を消費しても仕方ないと思うけど? そんなことをしている暇があるなら、少しでも前に進んだほうがよっぽど有意義だと思うな。違う?」
葡萄色の髪を額に張り付かせ、ぜいぜいと喘ぐ青年が『蜂蜜ヶ丘』の入り口で大の字になって伸びている一方、白藍の髪を風に揺らしてそれを見下ろす青年は、至って涼しい顔をしている。
彼らは軍の遠征も斯くやというペースを保って先を行っている筈の『二人』を追っていた。平原を進み、銀鈴の森を抜け、湿地を踏破して。やっとのことで蜂蜜ヶ丘に到着した時には昼を既に回っている。誤解の無いように言っておけば、それでも驚異的と言っていいペースではある。
しかし、その遥か上を行く前方の二人組。それを目の前にした現実。ユギは打ちひしがれていた。絶対に追いつけると高を括っていた精神状態も相まって、普段以上のダメージを受けたと言っても過言ではない。
なんだこれ。マジもんの化け物か。そんな内心はさておきだ。
『始末屋』とも称される白鯨。そこに所属する彼らの追走をして、背中を捉えることすらできていない現状。全くもって笑えないそれを認識した途端、全身の力がずるずると抜け出た感覚があった。
「おーい。こうしている間にも距離は物理的に離れる一方なんだけど。起きて、ユギ。こんなんでへばってたらこの先、生きていけないよ?」
「あーもういい。生きていけなくてもいい。だから先に行ってろ。……回復したら、後を追う」
「えー? だってこのまま置いて行ったら永遠に追いつけないでしょ、ユギ。寧ろこのまま引き返しそうだし。そうなると折角情報を集めてもらった意味も無くなるし。あと、目を離せるほど信頼してないからねぇ」
「……前半も後半も全てにおいて酷い言い草だな、おい」
しかし、正直なところ何も言い返せなかった。実際考えなくも無かったのだ。いや、少し考えていた。今更偽ったところで、何のメリットもない。――そのまま視線を上げれば、逆光で白藍の髪がやたら眩しい。余裕綽々の表情が何とも言い難い苛立ちを覚えさせる。
思えば昔から変わらない。普段は何も考えていなそうな面をしておきながら、肝心な時はちゃっかり見通して釘をさす辺り、これの持つ底知れなさを感じる瞬間だ。
苦笑混じりで、呼吸を整える。やれやれ、だ。凡人を酷使させたらどういう結果を招くか一度その目に焼き付かせておかねばならないらしい。
一際強い風が吹き抜け、野イチゴの花びらが舞い上がる。
その白い花弁が掌に舞い落ちたのを、そのまま握りこんで一気に身を起こす。例え命令違反として、軍規で裁かれるにしても――――どうせここまで来た。やれるだけやってからの方が良いに決まっている。残りは極めて個人的な理由だ。顔を拝みたいと思ったのだ。
『白藍の悪鬼』を返り討ちにしたという、その少女の顔を。
「ふふ、ユギのそういう諦めの悪いところは嫌いじゃないなぁ。……まぁ、僕に好かれたところで何もいいことは無いけどね」
「自分で言ってて空しくならないか、それ……」
苦笑し、愛用の銃剣を支えに立ち上がる。
間に合わないかもしれないなどと、言っている暇はない。今は、ただ進む時だ。間に合わせるために、動くしかない。
腹立たしいが、今回はヒルトの言った言葉が正しい。
正論は人を本当の意味で救うことは無いが、納得させる力は持つ。
「この先は、『浮島』へ向かうルートでいいんだな?」
「うん、確実にそちらへ向かっている筈だよ。それに――――多分だけど、面白いことになってる予感がするんだよねぇ。だから急ぐよ、ユギ。ほらほら」
「……はいはい」
ささやかな休憩を挟んで、再び駆け出した彼ら。
背後でのんびりと草を食んでいた仔馬たちは、物凄い速度で丘を駆け下りていく二人の人間を奇異なものを見るような視線で見送っていた。
こうして『蜂蜜ヶ丘』に再び平穏が訪れる。
*
「……ごめん、状況が全く理解できない。そもそもね、じいちゃんは何で飛竜の口に咥えられたまま、そんな暢気に手を振ってるの。小舟が半壊しているのは何で? 誰か経緯を説明して」
少年、シディアンの疑問は尤もだった。そこにいる誰もが、その疑問を当然だと感じていただろう。しかし、ここに至る経緯を説明するとなるとそれなりに手間だ。
灰色の塊を腕に抱えたまま、少女はうーんと曖昧に笑って横に立つマスターを見上げる。うん、不自然なくらい自然な動作で目を逸らされたよ。どうする自分。味方はどうやら皆無だ。
「クェ」と腕の中でタイミングよく鳴いた灰色。視線を落とせば、もぞもぞと器用に寝返りを打って再び丸くなってしまった。うん、期待した方向がそもそも間違っていた。やはり味方はいないらしいね。現実はかくも厳しいものだ。
「ごほん。纏めるとだね……まず、この灰色が舟の縁に落ちてきた。そこから全てが始まって、同時にそれは一連の顛末でもあったという話だな」
「…………ベリル兄さん、代わりに説明して」
「ほら、ご指名だよ。マスター」
よし、上手くいった。流れは此方に微笑んだのだ。女神は日ごろの行いをよく見ている。これで証明されたと言っても過言ではないね。
表面上は落ち込んだ様子を張り付けて、この複雑怪奇な状況を一から説明するなどという苦行を放棄した少女。恨めし気なマスターの視線など何のその。先に裏切ったのはそちらだ。うん、自分はそれほど悪くない。
「……なんて強かな子なの。はぁ。……まぁ良いわ。さくさく説明を進めて、その後はどの飛竜で飛ぶか決めましょう。何せあれだけの頭数をここまで引っ張って来たんだもの……」
げんなりという表現がこれほど似合う場面、なかなか無いと思うな。マスターの視線の先にはその言葉が示すとおり、居並ぶほどの頭数の飛竜たちが水面に浮かんでぷかぷかしている。ちなみに彼らは全部オスだ。飛竜のメス(成体)は真白。オスは灰白色。つまり、幾分くすんだ色をしていればオスと判別が可能だ。
「今、ルーアちゃんが抱えている灰色のヒナがいるでしょう。それね、飛竜の女王の直系なのよ。つまり次代の女王竜と言うことになるわね」
「……いや、あの。何その超展開。ベリル兄さん、つくならもっとましな嘘は無かったの?」
「――――シディ? 説明が要らないと言うなら、ここで終わらせるわよ。わたしが無用な嘘をついてまで時間を浪費するような馬鹿に見えるのかしら?」
「ごめんなさい。僕が間違ってました」
いや、分かるよ少年。君の信じられない気持ちは尤もだ。声にするとややこしい事態を招くから表立っては庇えないが、全力で君を応援している。しかしそれは内心の話だったりもする。許せ、若人。
「――ここを出発して、暫くは何事も無かったわ。だけど、その灰色が気付いたら舟の縁に止まっていたの。全く状況がつかめないまま、わたしたち二人は取り敢えず『浮島』へ向かった。そこで、何の威嚇行動も挟まずに飛竜たちが群れで襲い掛かって来た訳よ。突然のことだったし、今まではそんな経験が無かった。だから咄嗟に動けなかった自分に代わって――要するにルーアちゃんが実力行使に出たのよねぇ……この子、馬鹿強いわ。わたしなんて終始観客で終わったもの」
いや、そんな遠い目をされたら非常に居たたまれない。そして少年の驚愕の眼差しが痛すぎる。更に言うと、未だに飛竜の口に咥えられたままのお爺さんがこちらに向かって親指を立ててくる。いや、そんな意思表示はいらないんだよ、お爺さん。それが余計『何その追い打ち』的な心証を加速させるよね。全くもって求めてない。うん、本当に勘弁してほしいなぁ。
『浮島』での乱闘は今思い返しても、非常にシンプルなものだった。
襲い掛かって来る飛竜を、躱しては昏倒させ。昏倒させた飛竜の背を足場にして次の飛竜を混沌させる。その繰り返しだよ、うん。時に危険濃度の『黒玉』を容赦なく投げつけながら、透明な水面上でひたすらに駆け回ること――そうだね。時にしておよそ半刻ほどだったろうか。
正直、今だから言えることもある。きっちり昼食を食べていた訳では無かったため、二十頭以降に入ってからは容赦なく急所ばかりを狙った。鬼畜? いやいや。スタミナ切れを起こしては目も当てられないからね。結果的には秒単位で状況は目まぐるしく変わることになった。
その乱闘の最中、件の灰色の塊は「スピー」と規則正しい寝息を立てていた。きっと将来は大物になるだろう。大物と言うより巨大竜と言った方が正しいのか。うん、細かいことはさておき話を進めろと。尤もだね。結果から伝えよう。水面に浮かんだ飛竜(後から分かったが、これは全部オス)は、数えること約三十ちょいだった。流石にきっちり数えられるほどのゆとりは無かったんだな、これが。
乱闘の末に、結果的に積み上げられた飛竜たちの山――――もとい、第二の浮島。その上で静けさを取り戻した周囲を見渡して、ぱんぱんと手を打った少女。スタミナはぎりぎりだったが、背に負う荷物が無かったこともあって身軽さは増している。「終わりかな」と。呟き終えるか否かのタイミングで、大気が震えた。
それは、真白の翼を羽ばたかせ、飛沫一つ立てずに舞い降りた。
静けさを取り戻した水面に、最後に降りてきたその一頭。それがまた、桁外れに大きな飛竜だった。蓄えている魔力が桁違いであることに加えて、放っている風格もまるで違った。「あ、こいつは厄介なのが出てきた……」と溜息を隠すのに必死だった。寧ろそれ以外の思考は殆ど追いついていなかった。
舞い降りてきたその竜は、未だに臨戦態勢を解いていなかった自分へ襲い掛かるでもなく。ただ、じっと淡黄色の双眸を合わせてきた。向こうが動かない以上、先手を取るよりも次の動向を待つ方を優先した自分を今は褒めたい。良かった、冷静なままで。あれで襲い掛かっていたら、事の収束までに相応の長丁場を経験することとなっていただろう。本当に良かった。全面戦争を避けられただけでも意味はあったと思いたい。
それはさておき。
無言で見つめ合うこと暫し。ある定説によれば、竜の眼は直接見ない方が身のためだという。年経た竜の種族は稀に『魔眼』と称される能力を持つとされていることが所以だろう。
正直、逸らせようかと迷いもした。でも、迷いと同時に記憶の底から浮かんだ師匠のある日の一言。
師曰く。「古のイキモノはヒトなんて気にも留めないよ。そもそも彼らにとってのヒトは脆弱な存在で、それ以上も以下も無い」と。
それが辛うじてその動きを留め、結果としてはまずまずのところに収まったのだろう。
『すまん、どうやら我らの勘違いだったようだ。許せ、娘』
――――ん?
それは何の兆候も無く、するりと脳裏に入り込んでくる声だった。横目でマスターの様子を窺ったが、どうやら聞こえていないらしい。それだけ確認した後は、再び視線を交わした。
おそらく対象を固定し、その上で強制的に『意思』を届ける魔法式。桁違いの魔力を持つ飛竜であるからこそ、為し得る意思伝達なのだろうね。咄嗟に考えられたのは、それくらいだ。少なくともその時点では、他に何も思いつかなかったし、色々考えているゆとりもなかった。
その間も、此方の戸惑いなど気にする素振りも無く、飛竜の言葉は続いていたのだ。
『そこの灰色の幼竜は、我の娘にあたる。それは飛竜の中でもとりわけ睡眠欲が旺盛でな。日当たりの良い場所を求めて失踪することが多いのだ。今日は普段以上に長い時間姿を消したせいで、これは自発的なものでは無くヒトの手によって連れ去られたのではないかと――――要するに、早合点してしまった』
――――なるほどね。それであの騒ぎか。
『うむ、すまなかった。今は全てが勘違いであったことも、そなたたちには何の咎も無かったことも承知している。詫びになるかも分からぬが、望みがあれば最大の誠意をもって応えよう』
つまり、一連の騒動は今もまだ舟の縁で器用に眠り続けている灰色の幼竜。その『家出騒動(最適な寝床を求めて)』に偶然巻き込まれた結果の、親竜の謝罪劇。そういうことらしい。
未だに呆然とした面持ちを隠せないマスターへ、ひとまず何を伝えたものだろうかと考えあぐねた。何をどう話したところで、一度では納得してもらえない絶対の自信がそこにあったからね。うん。正直なところ、これ程無駄な体力を消費した経験は過去にも思い至らない。
これ以上無いくらいのタイムロスを出している現状で、正直あんまり説明に時間を割きたくない少女。
悩みに悩んだ末に、捻り出した答え。それは悩んだ割にどうしようもない一言だった。
「マスター、選ぶのは任せた」
「……」
マスターが絶句したのも無理はない。今になって思い返しても、あの発言は正直言って無かったな。うん、一応これでも疲れていたんだ。結果的に頭が働いていなかったんだという言い訳。それを挟んで事なきを得た。良く回る口に、初めて感謝の念を抱いたよ。
女王竜には、少しの間待ってもらうことにした。その間に、マスターへ嘘みたいな本当の経緯を説明。頭を抱えている暇はないんだと、やっとのことで説き伏せたよ。ようやく冷静な思考を取り戻して来たマスターとそうして協議した結果を、ありのまま女王竜へ伝えた。
「一頭貸出し願います」の旨だ。
女王竜はそれを承知し、さあ目的は達せた。後は舟を返しに戻ろう、と。
踵を返そうとしたところで、気付いてしまった。というよりも、気付かざるを得なかった。
――――件の幼竜が、舟の縁で熟睡状態にあることが判明。女王竜がその爪を伸ばして幼竜を引き剥がそうとしたものの、どうやっても剥がれない。梃子でも離れない。
『すまない。本当にすまない、娘』
そう言って項垂れた女王竜に、交渉を託されることになった。つまり、舟ごと譲ってもらいたいという話だ。舟は借り物で、持ち主に確認を取らないとならないと伝えれば。
ならば頼む。是非とも頼む。その代わりと言っては何だが、転がっている飛竜を全部連れて行ってもいいとの大盤振る舞い。
いや、正直一頭で十分だ。そう再三にわたって伝えたのだが、頑として譲らなかった。最終的には根負けした。ひとまず船着き処まで三十二頭(ひとまず数えてみた)のオスの飛竜を従えて戻ることにした経緯は、女王竜の自棄が原因だよ。何がどうしてこうなった、という話だ。
さて、ここまでが複数等の飛竜を連れて戻った理由だ。残りのお爺さんを途中で拾った顛末、ならびに船の縁から梃子でも離れなかった筈の灰色の塊が、なぜ今は少女の腕へ移動しているのか。その二点についても語らなければなるまいね。うん、やはりそれは省略しては話が進まないと。
……さてさて。
まず、お爺さんを『回収』した経緯を話そう。その経緯を話す序に、灰色の塊が舟の縁から自分の腕に移動した理由も明らかになるからね。
それは浮島から船着き処へ戻る途中。ギイギイと櫂が立てる音はまだ良かった。問題は水面が波立つほどの風圧。威圧感満載の羽音たち。傍から見れば訳の分からない光景だろうな。飛竜の群れを引き連れて進む小舟。襲われているようにしか見えないね。櫂を操るマスターも終始「一体これはどんな悪夢なの……」と漏らしていた。そんな最中だ。浮島一帯を進む小舟と三十二頭の飛竜たち。その一行が遭遇することとなった事態は想像をはるかに超えるものだった。
初めに気付いたのは、おそらく三十二頭いた飛竜たちの前列にいた五頭だ。不意に舞い上がったかと思えば、その場でぐるぐると旋回を始めた。上空で頻りと鳴き交わしている。
言っていることがまるで分らんと当然と言えば当然のことを思いつつ、少女が見上げるばかりだったのに対して。
それを見て、状況を素早く察したのは直前まで抜け殻のようになっていたマスターだった。
「――――今日は何の厄日なのかしらね。全く……ルーアちゃん、縁にしっかり掴まっていなさいね」
それは助言通り、灰色の塊が乗っていない方の縁へ手を伸ばした直後だった。
言い表しようのない、浮遊感。その原因は小舟を囲んだ四頭の飛竜によって小舟ごと上空へ引き上げられた結果だった。彼らからすれば、自分たち二人はおまけだろう。要するに、縁に止まって熟睡したままの次代の女王竜。それを避難させる為の行動だったのだろうね。
舟ごと空へ舞い上がるという、ややファンタジックな経験はさておき。直前まで浮かんでいた水面を上から見下ろす形になって、ようやく飛竜たちが『何』から避難したのかが理解できた。
それは巨大な影だ。
飛竜たち一頭一頭も相当な大きさではあるが、比較にもならない。桁が違う。浮島一帯を飲み込めると言われても信じてしまえそうな『何か』――――それが水面に浮上し、次の瞬間には全貌が露わになる。
「まさか……信じられない。大陸にはもう残っていないと……」
「……稀少図鑑でも、把握し切れていなかったんだろう」
マスターの呆然とした呟きに、少女の期待に満ちた言葉が重なる。
彼らの眼下には、今や幻のイキモノに分類されて久しい『それ』の食事風景が広がっていた。
――――巨大貝。しかも二匹だ。
クジラの食事風景にも通じるものがあるだろうか。一気に水面へ浮上して、その際に水面にあったあらゆるモノを区別なく、渦潮のようにして飲み込んでいく。恐るべきは、渦の広大さ。二匹が並んで食事をしている水面は、まるで荒海の如し。
うん、沢山連れて来て正解だった。飛竜一頭だけで小舟を引き揚げ続けるのは流石に辛いものがあっただろう。
備えあれば患いなし。まさにその通りだと頷いていた時までは良かった。問題は、その後だ。
「……え。いや、ちょっと待って。あの船まさか……」
「……船?」
見る見るうちにマスターの横顔は蒼褪めていく。マスターが見下ろす先を辿って、渦の途中に確かに船らしき物体を見つけた。限界まで帆を張り、必死に舵を取ろうとしているようだが……正直このままではどうやっても呑まれる。巨大貝の胃袋へ一直線のルートだ。
「船着き処の、先代……つまりシディアンのお爺さんが乗っている船よ」
「……成程ね。先ほど言っていた漁の帰りに巻き込まれたんだろう」
「――――ルーアちゃん、先に言っておきたいことがあるの」
「察するに、助けに降りる気だね? ……うーん。非情かも知れないが一言だけ。十中八九、飲まれて終わると思うなぁ」
「契約違反になってしまうけど、赦して頂戴。もうこれ以上シディアンから肉親を奪う訳にはいかないのよ。これはわたしの我儘であると同時に、見過ごせない一線なの」
強い決意を秘めた琥珀色だった。それに対して、どれほどの言葉を尽くしたところで止まる気配のない。そんな目の色をしていた。
――どうしたものかな、と。正直悩んでいた。一つだけ思い浮かぶ案とは言えないほどに無謀で確率の低い賭け。それに対して踏み出す、あと一歩の部分がその時の自分には無かった。
やむを得ない時が来れば、別だろうけれどね。
そんな内心が、影響された訳ではないだろう。けれども偶然にしては出来過ぎたタイミングで、バキリ、と。何だかとても嫌な音が響いた。
飛竜の爪が、鋭すぎたのか。それとも小舟が老朽化していたのか。
もしくは――バランス云々の問題だったのか。縁を中心に、亀裂が入った。そして落下していく小舟の縁。そして、灰色の塊。
もれなく縁とともに落下した『それ』が目の端に映った瞬間。反射的に伸びていた手が、空を掴んだ。その反動で体勢を崩し、少女はそのまま落下していた。真っ逆さまに、渦巻く水面へと。
上からマスターの呼ぶ声が聞こえたが、最早どうしようもない。やれやれ試してみるしかない、と。
『あと一歩』――――つまり、やむを得ない時を迎えて。思考は澄み渡る。視界は開けて、周囲の位置関係も存分に見渡せる好条件。
まず少女が『回収』したのは灰色の塊だ。これを逃せば、全てが呑み込まれて終わるだけ。賭け金も無しに賭博は出来ない。まずは限界まで腕を伸ばし、灰色の塊を抱き寄せることから始めた。――――結果、少しだけゆとりが生まれた。そして思うのは。こいつはこんな時でも薄目を開けているだけなのか。そもそも睡眠欲が生存本能を遥かに上回っているのではないか、と。
要するに観察して、呆れていた。落下し続けているという状況で観察する余力がある少女自身、呆れる資格があったかどうかは疑問だ。とは言え、次の段階に入る。
次は『位置』を確認した。それぞれの『駒』が一直線上に並ぶ瞬間を、ぎりぎりまで見定める。そして、「ここだ」と確信が持てた瞬間。そのタイミングで、同じく降下してきていた飛竜の背を蹴って、渦の中できりもみ状態となっている船の甲板へと着地。これでようやく、最終段階だ。
「……シディアンのお爺さんで間違いない?」
「……そうだが。坊主、お前さんは一体……」
こうなってもまだ、舵を取りつづけようとしていた姿勢に感服もする。並の船乗りなら、諦めて虚空を仰いでいてもおかしくはない絶望的な状況。
けれども、絶望は絶望のままで終わらせない。具体的には、灰色の塊が手元にいてくれたお陰で打開の道筋に至れるというものだ。うん、何事も無駄にはならないものだね。
普段は気付けないだけで、きっと全てのことに、意味はあるんだろう。
少女は揺れる船の上で、頭上に差す『影』を見上げて安堵の息を漏らす。
序にマスターを見習って、注意事項を伝えることにした。
「少し揺れると思うから。しっかりと船の縁……いや、頑丈な部分に掴まっていてね」
言い終りと同時に、飛竜たちの爪が船の左右をがっしりと捉えて舞い上がる。
渦潮から解放され、同時に命の危機からも解放された面々は飛竜たちの翼の下で帰路についた。
「――――とまぁ、そんな次第ね。分かったでしょう? 今回無事に全員が帰り着けたのは、その灰色の塊が舟の縁に止まったから。それが始まりにして、終わり。ルーアちゃんが言いたかったのはそういう事ね」
「無茶苦茶にも程があるよ……」
日の傾き始めた、正午過ぎ。結果的に生き延びて、桟橋で語り合える現状を謳歌するべきだろう。そう、本来ならばね。
ただ、問題が一つ残っている。それは腕の中に視線を落としてもらえれば分かるだろう。聞こえてくる寝息に、少女の溜息が重なった。