少女は二人旅を開始した*二日目の旅 序盤*
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昔、師匠が訥々と話していた内容にこういうものがあった。当人曰く。
「この世で最も理不尽で、まともに取り合うことすら馬鹿馬鹿しい三点を挙げるとしたら――一つ。権力欲に取りつかれた王侯貴族。二つ。物事の本質を知ることすら面倒だと思って暮らしているくせに、いざとなると周囲に責任転嫁を惜しまない愚かな民衆。そして最後が――――」
「朝起こしてね、と言っておきながら。いざ朝になって起こしに行くと、何故か逆切れする知人……確かそう言っていたっけか。うん。今思い返しても、あれはただ師匠が嫌いな人種をランク別に挙げていただけの話だったなぁ……」
けれども今なら、その気持ちも分からなくはない。逆切れこそされていないが、状況としてはあながち遠くない。むしろ似てる。就寝前には確実に伝えていた早朝出立の旨。それに対して「うん、分かったよ」と言っていたのはどの口だったのか。おかしいなぁ。そもそもだよ。仮にも軍人だろう。早朝訓練とか日課だろう。どうしてここまで絶望的に寝起きが悪いのだ。そろそろ脳裏が疑問符で溢れそうなんだけどね。
「ねえ、聞いているかい? 君、君だよ。寝るなら勝手にすればいいさ。好きなだけ寝ればいいよ。それは個人の自由だから止めない。その序に君を置いて出立するだけの話だ。だからね――この掴んでいる手を離してもらえないか?」
「うーん。あと少し……」
「二度寝をする奴が必ず口にする定型句だよ、それ。……はぁ。どうするかな」
親切心など無暗に発揮するものではない。
つくづくそれを実感している早朝だ。正直なところ、無抵抗といって良い状態の人間に対して鉄拳をお見舞いするのは信条には反するんだけどね。否、しかしこの場合は良いのか。良いかな? ――良いことにしよう。うん。
「はー。はー。……よし準備は整った。こぶしを温めると威力は増すのか。その実証実験を兼ねて。せーのっ!!」
「っ……!! いった、痛い!! ――――容赦ないなぁ、全く……ふわぁああ」
物凄い大欠伸だったよ、うん。見応えだけは無駄にあった。そうそう、一言付け加えるなら。痛みに苦悶しながらこの期に及んで尚も手を離さない点に注目したいところ。恐るべき執念だろう? 執念の二文字から想起されるものと言えば……。うん。やはり、あれだ。あれに通じるものがある。薄ら思ってはいたものの、敢えて考えないようにしてたんだがなぁ。やれやれだ。
やっぱり、どこまで突き詰めても気が合いそうにない。鉄拳の威力をして、ようやく目を覚ましたらしいね。ガシガシと頭を掻きながらそれでもまだ眠そうな目だ。虚ろだ。どれだけ眠いんだと聞きたい。果たして焦点はあっているのか……それすら謎だものなぁ。
「……あ、朝だね」
「朝だね、じゃないよ。さっさと拘束を解いてくれ」
今更ながら、非常に不本意な体勢を強いられている現状なんだよな。うん。「ごめんごめん」では済まないからね。少なくともあと一発は覚悟してもらう。これは決定事項だ。覆らない。覆す理由もない。
そもそもだよ、どうしたら寝ぼけて人を寝台に引きずり込むことになるんだ。
反射的に攻撃してしまうという習慣なら、師匠の例もあって頷けるんだけどね。これは全く毛色が違う。それだけは分かるし、それ以外は分からない。
内心を表情に露わさないまでも、もそもそと寝台から脱出した少女。
大きな溜息を付きがてら、寝起きの青年に対して最後通牒を告げる。
「これ以上時間を食うようなら、置いていくが」
「ふわぁああ。んー、良く寝た。――――まぁ、そんなに朝からカリカリしないで。それにしても……ふふ。さっきのあれ、駄目だよ。一般人にやったら頭割れるよ?」
返答の代わりに、先ほどの鉄拳の二倍威力をお見舞いした。そもそもね、何で痛そうなのに若干微笑んでるのさ。まさかの被虐性か。そうなのか。開花してしまったのか君? 起因は自分か? いや、知らない。そんな自覚は要らない。諸々見なかったことにする。
再び寝台へ逆戻りしていた青年を背に、少女は床に置いていた荷物を抱え直して歩きだした。時間は有限だ。これ以上無為には使えないよ。それでなくとも今日はやるべきことが山積しているのだからね。
奇麗に磨かれた板張りの廊下を進み、階下へ降りたところで宿の主人と目が合った。改めて見ても、相当強面な容貌だ。道ですれ違ったら、少し遠巻きにされるタイプと見た。一見しただけなら回れ右する宿泊客もいそうだ。ただ、その外見と内面はまるで相反しているみたいだけどね。実際に言葉を交わせば、それに気付くことも出来るだろう。何事も経験して、自分の目と耳で確かめてみなければ分からないものだよ。これは嘘じゃない。経験則に基づく確かな言葉だ。
少女は階段を降りたところで、再び肩の荷を背負い直す。そのままカウンターに歩み寄り、爽やかな朝の挨拶を交わした。
「おはよう。嬢ちゃん、昨夜はよく眠れたかい? 巻貝行路一帯は、夜間の騒音が他に比べても多い。なるべく不快な思いをしないよう、夜間の見回りも増やしてはいるんだが……」
「おはよう、ご主人。その心配りのおかげで、非常に快適に過ごせた。気遣いは無用だよ。ここは本当に素敵な宿だから」
「はは。そう言ってもらえると、こっちも張り合いが出るってもんだなぁ」
花鶏亭の主人が浮かべる穏やかな表情に、見ているこちらも穏やかな気持ちにならざるをえないね。要するにこれが、相乗効果というやつだろう。
因みに、宿に入ってからも男装は変えていない。それどころか、男装であることも説明済みだ。わざわざ明かした理由は何かって? そうしなければ、彼の青年と兄弟と思われても仕方ない状況だったんだな、これが。あれと兄弟とか本心から御免被る。
詰まるところ、こういう次第だ。
兄弟で別の部屋を取りたいと申し出れば、小さな宿では事情を話さざるを得ない。それは結果として、宿側へ無駄な手間を掛けさせることにも他ならない。昨晩、宿までの道を歩きながらそれに思い至った後。辿り着いた『花鶏亭』の入り口で、初めから『自衛』の手段として男装をしている事実を包み隠さず伝えることにした。すると、当初考えていたよりも宿側の理解は早く得られたと。正直これには驚きもした。けれども『花鶏亭』を営むご夫婦は「そういうこともあるだろう」と。たった一言で受け入れてくれたばかりか、他に配慮することがあれば伝えて貰いたいとまで言ってくれた。
正直――心が洗われるような心境にもなるさ。これでも幼少期は、各地を回ってあらゆる人間を目にしてきた。それなりに目は肥えている。思い返すに、けして良い思い出ばかりではないけどね。それでも人格者と呼ばれる人たちは確かにいたのだ。少数ではあるが、いることはいた。この宿の主人と女将さんには、それに準じた空気を感じる。『花鶏亭』は良宿。この評価はまさに正しかった。
「これから海都へ行くんだったな? ……道中、くれぐれも気を付けるんだぞ。巻貝行路は治安自体、悪くはないが……それでも破落戸もいることはいるからな。ん、そういや昨日一緒に同行してた兄ちゃんは何処にいるんだ?」
「あれは知人と言うだけで、今日はまだ眠ってますよ。昨晩、深酒し過ぎたみたいでね」
「……おいおい、何とまあ情けないこった。そうなのかい。……ん、ちょっと待て。じゃあ、嬢ちゃん一人で行くのかい?」
驚いた様子の後に「そりゃあ、駄目だ」と。親身になって同行者を探すようにとアドバイスしてくれる花鶏亭の主人に、暖かな気持ちにもなるよ。人情味あふれる、と言う言葉があるけれどね。それはきっと、こういう人たちの為に存在しているのだろうな。
ふわりと、自然に笑みも零れる。
「心配はいらないよ、ご主人。同行に関しては、既に他に頼んであるんだ」
「……ならいいんだ。あんまり無茶はしてくれるなよ、嬢ちゃん。海都も副都に近接している土地柄、けして治安のいい場所とは言えないからなぁ。その点、辺境は穏やかなもんだろう。用事を済ませたら、早めに戻るのが最良だ。悪いことは言わねぇ、人生の先達からの言葉と思って心の隅に留めておいてくれよ。騙されたと思ってな」
その真剣な表情に、本当にそう出来たらどれほど良いだろうと思いもする。――けして戻れないことを、他でもない自分が覚悟した上で出た旅路ではあるにしろ。その半ばで、この言葉を聞けただけでも改めて無為には終わらせたくないと思ったよ。朝から目頭が熱いのは、本当に参る。でも有難いな、と。そう思ったのも事実だからね。誠意には誠意で返すだけだ。
「ありがとう。心に、留めておくよ」
早朝の、肌寒さの残る空気の中へ手を振って歩きだした少女。
宿を出て見上げた空は、雲もちらほら流れていくものの、澄み渡るような快晴だ。よし、悪くない。抱いた感慨に頬も一層緩みもする。奇しくも昨晩、酒場に入る前に思っていた通りの結果(寝落ちさせ、朝にはおさらば構想)を得られた現状だ。街道を往く少女の足取りは心なしか軽い。さながら背中に翼を得たように。
「マスターと店の前で合流後は……平原まで歩くかな。寄合馬車を掴まえる手もあることはあるんだろうが……。ふむふむ、一先ず相談して旅程を組まないと」
つらつらと考えながら、昨晩来た通りを逆に辿ってゆくと。やがて見覚えのある通りに出た。しかし、『穴熊』の店先は昨晩とは様相が変わっている。恐らく店主が旅支度をした結果だろう。店先の左右に釣り下がっていた例の紫炎燈は見当たらない。また、看板の上に注意書き宜しく張り付けられた紙。近づいて見ると『旅行中』と書き殴ってあった。そこは『休業中』の方が当たり障りが無さそうだがなぁ、と。少なくとも少女自身はそう思いはしたものの。店の前で手を振って迎えてくれたマスターの姿を見て、わざわざ伝えるほどの事でもないと考え直した。
「……あら。やっぱりヒルトは起きられなかった? あの子、昔から極度の低血圧らしいわ。まあ、当人がそう言っているだけだから本当かどうかは分かったもんじゃないけどねぇ……」
朝日の下で見ると、余計に精悍さが際立つなぁ。そんな感想を抱きながら、早朝の一幕を語って聞かせるとマスターは例の如く、目を細めて頷いてくれた。途中途中で挟まれる相槌に、少なくとも今回の処置が的確であったことを賛同するような色が見え隠れしていた。例えば「それは仕方ないわよねぇ……むしろ万死に値すると(その後は上手く聞き取れなかった)」等々。
マスターは抱擁未遂を犯すことすら無ければ、文句のない同行者なのだけどね。残念ながら、その欲求は留まるところを知らないらしい。
宿場街を抜けるまでの合間も、四回くらいは離れて進まざるを得ない状況が生じた。これは結果的に、地味なタイムロスになった。精神疲労も二割増しだ。
「もう、本当になんて忌々しいくらいの俊敏性なのかしら。欲求不満もここに極まれりだわ。うう……抱きしめたい」
「そこは我慢で」
色々残念すぎるマスターを適当に宥めつつ、結局平原までは徒歩で向かうことにした。宿場街を出た後は、横並びで木立を抜ける。両者共、足取りに無駄はない。朝風が木々の葉を揺らす、その隙間。見上げる頬に木漏れ日が差し込み、その眩しさに思わず目を細めた少女。同じように眩しそうに手を翳していたマスターがこう零した。
「今日は晴れそうね。良かった。わたし、こう見えて雨に降られやすい体質なのよねぇ。今までも出掛ける度に雨なんだもの。気も滅入るってものよ。その点、きっと貴女は太陽に好かれているのね。羨ましいわ」
「……そんなものかな」
雨に降られやすい体質って、そもそもどういう仕組みがあったらそうなるのか。零れ落ちそうになる疑問を、丸ごと蓋をしてやり過ごす。ここで無暗に掘り下げれば、長くなる予感がした。今はさくさく進めたい場面だ。となれば、兆候回避に全力を尽くすのみ。
開けた道の両側には豊かな緑地が広がっている。ちらほらと獣の気配を目端に感じ取りながら、再び視線を空へ上げれば平原鷲の飛影が見えた。
「この辺りまで来ると、西と東の境を感じざるを得ないね……」
「ふふ、なるほどねぇ。良い視点だわ。確かに地域差は平原を境にして色濃く出ているかもしれない」
うん、いい流れだ。このまま進もう。歩きながら有用な情報を得るべく、さり気無い話題転換に持ち込んでいきたいところだ。動植物然り、人々の服装然り。環境が違えば、その分そこに暮らすモノに影響は及ぶ。生態系と文化の差。それは旅をすることで、ようやく実感を得られるものの一つだろう。
郷に入れば郷に従え。その為にはまず、その土地を知るところから始めるのが何よりの近道だろうね。うん、これぞまさに旅の醍醐味と言えようか。
「海都に至る巻貝行路に沿えば、平原はちょうど折り返し地点と言ったところか。この先は草原地帯――『蜂蜜ヶ丘』が真っ先に見える筈だね?」
「そうねぇ……でも、何か忘れてないかしら? 海から陸へ上がるのは何も巨大貝だけに限らない。――――ほら、御覧なさい。あれが平原名物、『銀鈴の森』よ」
マスターが指を指した先。そこには鬱蒼とした森が広がっている。遠目には普通の森とそう大きくは変わらない。ただしそれも、近づいてみれば様相は一変するだろう。
木々の梢の間を、がさがさと移動する無数の気配。目を凝らせば、四対の足と二本の鋏。
銀鈴の森――そこは要するに『木登り蟹』の巣だ。
森一帯が彼らの縄張りであり、生息地。更に付け加えると、産卵場所でもあるらしい。同じく海から上陸した巨大貝とは異なり、その体格は手の平に収まってしまうほどに小さい。大小の差が凄まじいね。彼らは数百単位の群れで行動するそうだ。身を守るための習性だろうか。実際のところは聞きようが無いので、こればかりは想像するしかないね。補足がてらもう一点。木登り蟹は非常に美しい色彩を持つ蟹だ。実際に目にした事こそ無いが、宝飾品の材料として巷ではそれなりに有名らしいね。かなりの率で木登り蟹の甲羅を加工したものが用いられるそうだ。王都の貴族たちの間ではステータスシンボルとしても挙って買い占める動きが根深いらしく、密猟も横行しているとか。やれやれ、それにしても甲羅一つの為によくやる。――――まぁ、確かに奇麗だけどね。それは否定しない。
木々の間を、蟹らしからぬ俊敏な動作で移動してゆく彼ら。よく目を凝らせば、その甲羅の色彩は個体ごとにも僅かな差があるらしい。濃淡も、色彩も様々となれば稀少価値も当然のように付加されるのだろう。マスター曰く「今の流行は『翡翠色』よ」とのこと。自分の目の色と同じ蟹が高騰しているらしい現状。それを聞いては、複雑な心境にもなる。
一匹一匹が宝石のような蟹達は、思いを巡らせる合間も樹上を行き交う。森を抜けるまでの間に、一帯何匹の蟹を目にすることになるだろうか。梢を見上げつつ、少女はどうせ途中で分からなくなるだろうと思いながらも数を数えていた。
しかし予想と異なり、三百二十六匹目の蟹(因みにこの蟹の色は翡翠色だった)を目で追う頃。
幾らか唐突に、銀鈴の森が開けた。再び広がる蒼穹に向かってそのまま伸びをする。
うん、まさか朝から蟹の数を数えることになろうとは。少しも予想していなかった。地味に目を消耗したぞ、これ。
「さてと、銀鈴の森を過ぎたら早いわよ。湿地帯を抜ければ、蜂蜜ヶ丘はもう目の前。ふふ、眼精疲労に効能のあるお茶もあるわ。屋台で買って飲みながら行きましょう?」
「……三百二十六匹中、翡翠色の蟹は七匹しかいなかったな」
「だからこそ、挙って大金を積む貴族がいるのよ?」
「納得だ」
笑みを交わし、そのまま湿地へ向けて歩を進めた。ここまで来ると空に平原鷲の姿は見えなくなり、水鳥たちが列を為して優雅に飛翔している。泥濘が酷くなる直前で靴を履き替え、程々に悪戦苦闘しながらも。そのペースは依然として桁違いのそれを保っている。
二日目の旅、まだまだ序盤と言えそうな正午前。
見渡す平原は、どこまでも果てなく広かった。