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勇者の最愛はこの大陸に見切りを付けました  作者: 因果論
旧大陸編*新章*
48/51

少女は黒磯の海街を散策する*転*

 *



 ふわりふわりと潮風に揺れる、紅炎(オランジュ)(・ベル)

 これからが本番と言わんばかりの夜の喧騒。

 どこか幻想的ですらあるその光景を眼下に、少女は静かに呟いた。


「……悪くないね、海街」

『食べ物も美味しくて、言うこと無しなの』


 もぞもぞと腕の中で食事中の眠り姫。

 さり気なく覗き込めば、その口の端からは例の如く、見事に茹で上がった紅い蟹の足が咀嚼に合わせて揺れている。

 どうやらご満悦らしい。何よりだった。


『そう言えば、アレはどこなの?』


 眠り姫の言うところの、あれ。一瞬首を傾げた少女はややあって商人のことを言っているのだと気付く。

 そして苦笑混じりに返答をした。


「うん、君の言うところのアレは今、買い出しがてら夜の街を散策している筈だね」

『ふぅん、夜のお散歩ってことなの?』

「うん、一応そういうこと。俺も今の内に身体を休めておかないとね。これから暫くは野営続きだろうし……」

『そう言うことなら、明日に備えてしっかり休むの。明日は美味しい食べ物をしっかり買い占めに行くの』

「……買い占め、ね。保存食なんて味は大体二の次だと思うけどなぁ」

『!!』


 見る見るうちに淡黄色(ミモザ)の双眸が悲嘆の色を宿し、腕の中でブルリと身震いしたのが伝わってきた。

 分かりやすい事この上ない。

 しかし、である。野性に戻って舌の肥えたこのモフモフは果たして生きていけるだろうかと内心、不安要素すら感じ始めている現状。

 うーん、実に心配だ。知らない内に餌付けし過ぎただろうか。


「まぁ、今回は商人殿もいることだし。一応美味しい保存食がないか聞いてみようか?」

『それが良いの!』


 現金である。あれほどまでに同行に否定的だった雰囲気が一掃され、ワクワクと灰色の羽毛を膨らませている姿に、少女は苦笑を返した。

 機嫌を良くしたせいか、心なしか重量が軽くなるモコモコを抱え直し、再び視線を眼下へ落とす。

 扇状に広がる街の中、大通りに沿って紅炎燈が届ける仄かな明かり。

 ゆっくりと端から端まで視線を巡らせ、翡翠の双眸がふと止まる。

 港へ続く三つの大通り。その内、港に最も近い中央通りの南端の明かりが、微かに点滅しているのだ。


「……光源の不調か?」


 無意識に呟くのと、腕の中のモコモコが微かに身じろいだのはほぼ同時のことだった。

 ちらりと視線を落とせば、困惑と不快を半々で割ったような不機嫌そうな声が伝わってくる。


『すごく嫌な感じなの……。全身を沼蛭に這い回られてるような、そんな感じに近いの』

「……凄い例えだなぁ。でもそれだけ言われて、無視も出来ないね」


 休息もほんの一時。

 一部屋ごとに備え付けの、竜樹で出来た濡れ縁。本来は景色を楽しむだけの用途のそこから身を乗り出し、ざっと竜樹の枝ぶりと方向性を確認した少女は「よし」と独り言ちる。


「たまには宵の物見遊山にでも出かけてみるかな?」

『食後だから適度にしておくの』

「ん、適度でね」


 とは言え、見知らぬ土地も同然の夜の街。両手は出来るだけ空けておきたいと今更ながらに少女は唸る。

 そこでふと、思い至った。

 物理的な接触が必須と豪語するモコモコとは、海釣りの際にロープを介して繋がった仲である。

 となれば、この状況においても有効なのではないだろうか。そう――さながら命綱代わりに。


『いやな予感しかしないの』


 ごそごそと袋を漁り、おもむろに取り出したのは水蜘蛛のロープだ。ちなみにこれ、孤島で買い足した分である。

 水糸の守のカイル少年が太鼓判を押した逸品であるだけに、その信用性はかなり高い。


「夜風に当たりながらのお散歩、なかなか魅力的だと思うけど?」

『……吐くの。絶対吐いちゃうの……』

「やれやれ。だから食べ過ぎだって忠告しただろ?」

『そういう問題じゃないと思うの』


 結局、ロープを巻くことには同意させたものの、宙ぶらりんは断固として拒否したモコモコを外套のフード部分に押し込むことで、互いに折り合いをつけることとなる。

 眠り姫を高い高いする要領でそのままポンと頭の上に乗せてみれば、するりと髪の上を滑り、フードの中へ落下した。

 更にはフードの一番深いところにモゾモゾと潜り込むや、スヤスヤと寝息を立て始める。


「……全く、逞しいなぁ」


 鼻先で一笑した少女は、竜樹の幹に手を添え「よいこらせ」と夜陰に乗じて動き出す。

 竜樹を土台として発展してきたと謳われる街だけあって、ほぼ全域に渡って竜樹の幹や根が張り巡らされている黒磯の海街。

 宿から見下ろす分には微かであった喧騒が、やがて耳を突くほどのそれに変わっていく。

 軽々と幹を伝い、夜街へと繰り出した少女はそれから程なくして遭遇することとなる。


 ――血まみれの顎と、無数の平坦な影。そして、それらに獲物として真っ先に喰われることとなった憐れな余所者たちの狂騒と予期せぬ災厄に。



 *



 灰色の装束を纏った数名の男たちは、海街の暗がりに溶け込むようにして移動していた。

 その身のこなしは俊敏の二文字に相応しく、実際のところ非常に高度な『視覚阻害』と『色彩同調』の組み込まれた外套を銘々に羽織っていた為に、常人の視界ではその姿を捉えることすら出来ない。

 彼ら――岩間の先兵たち――は一様に意思の欠如した昏い眼を周囲に走らせ、平坦な殺意を垂れ流す。

 もし彼らが既に行動を開始しており、その両手に刃を握っていたならば周囲は一面血の海と化していただろう。

 けれどもまだ、彼らはその命を下されてはいない。それ故の、紙一重の均衡。

 活気にあふれる夕暮れの海街は未だ、偽りの平穏に満ちていた。


『集合しろ、鼠ども』


 ビィン、と弓なりのような振動が外套を通し、それぞれの耳へ意味を伴った音として届けられる。

 一斉に向きを変えた男たちは、灰の外套を深く被り直して駆け出す。

 その行く先は、海側の一点。南の端であった。

 彼らを待っていたのは、二人の男だ。

 一方は薄く微笑みを浮かべる、様相だけはまるで聖職者の如き長髪の男。

 もう一方は灰色の外套を纏った三半眼の男である。

 聖職者のような男が長身なのに比べ、三半眼の男はまるで子供を思わせるほどに小柄だ。


「全員、欠けることなく戻っていますね? ……結構。では、早速今後の計画についてお話しするとしましょう」


 柔らかな声色で口火を切ったのは、聖職者の外套を纏った男だ。

 しかし、男を知る者たちはそれがあくまでも見せかけの衣に過ぎないことを承知している。

 その実際は、敵と見定めた悉くの息の根を止めることにしか喜びを見いだせない快楽殺人者だ。

 時にその長髪を血に染め、狂喜の表情で戦場に立つことから男は仲間内で『赤髪』とも呼ばれている。


「待て、赤髪」

「どうしました、黒羽?」


 黒羽――小柄な三半眼の男は、感情の感じられない視線を順に『鼠たち』へ向けていき、一匹の鼠に目を留めた。

 そして一言も発することなく、外套の裏に吊っていたダガーを投擲する。

 過たず突き刺さると思われたそれは、他ならぬ鼠自身の手で防がれ、その手に微かな掠り傷を与えるにとどまった。

 灰色の装束の中から、微かなため息が漏れ出る。


「……ふふ、予想外。ここまで早くバレるなんてね」


 それは年若い女だ。ダガーを受け止めた手をだらりと脇にたらし、フードから零れ落ちた髪をうっとおしげに払いのけながら、印象的な金の眼を細めて微笑む。

 鼠でないことが露見した時点で、女は纏っていた灰装束を脱ぎ捨てることに躊躇いを持たなかった。

 豊満と言ってよい肢体に纏うのは、深紅の軽装鎧である。一見して端整と言っていい容貌の女であるにも関わらず、その鎧の異様さが見る者に畏怖を与えるのは無理からぬことのように思われた。


「……ほぅ、それはもしや悪食の鎧ではありませんか。では貴女は……」

「初めまして、ね。岩間の間者ども。私は『青鹿(ローディエ)(ヘステ)』のエダ・ベルテーン。散歩の途中で鼠たちが楽しそうに駆け回っていたものだから、興味深くてちょっとお邪魔させてもらったの」


 微笑みを崩さない『赤髪』の言葉を半ばで遮るようにしながら、自らの名を名乗った女。

 この街においては数少ない優良案内人に数えられる彼女は、いつしか周囲を一部の隙も無く『鼠』たちに囲まれながらも、焦るどころか笑みを深めていく。

 まさしく舌なめずりをしている、という表現がひどく似合う表情だ。


「……うふ、鼠なんて言うからもっと食べ応えのない相手を想像していたのだけれど、貴方達は思ったよりも美味しそうね。ワクワクしちゃう」


 悪食の鎧――そう称される深紅の鎧は、一言で言えば『魔鎧』の一種である。

 ただ、聖騎士たちが所有する『聖硬鎧』や高位の騎士たちの誉と名高い『守護鎧』とは異なり、異端の鎧として名高いそれであった。

 一目見ただけでも、その異様に身を震わせるものは少なくない。

 その様相を言葉で例えるなら、鎧そのものがまるで鼓動を打っているかの如く、蠢ているのだ。


「さぁ、食事にしましょう?」


『悪食のエダ』――美しい容貌に似合わぬ、禍々しい笑みを浮かべて彼女が告げた、開戦の合図。

 その言葉を待っていたかの如く、立ち込める殺気の渦。

 周囲を囲んだ鼠たちから一斉に放たれた暗殺器――黒く鋭い毒の刃が、標的を誤ることなく軌跡を描いた。

 鎧はそれを弾くことなく、刃全てが突き立つ。

 纏う鎧ごと、無数に突き刺されたその姿は思わず目をそむけたくなるほど痛々しい。

 どんな生き物ですら、耐えきれるはずのない致命的な一撃。俯いた女が、ぐらりと半身を揺らし――


 そしてその口許に、艶笑を浮かべた。


「あぁ、たまらないわ……痺れちゃう。刺激的なのは大好きよ」


 吐息と共に、身震いするエダ。

 彼女が舌なめずりすると同時に、ドクりと鼓動を打った鎧。表面が、歪み、撓んで、変化していく。

 沸々と煮立つように、無数に表れる気泡のようなもの。それはやがて――無数の『口』へと変化する。


「……噂には聞いていましたが、凄まじい光景ですね」

「ちっ、気色悪いな」

「うふふ、つれないことは仰らないで? 最後まで私と遊びましょう?」


 鎧の表面に現れた『口』が、一斉に刃を飲み込み、ゴクリと嚥下する。

 満足げに弧を描くそれらと共に、微笑む女。

 なかなかに背筋がゾッとする光景であった。


「……黒羽。あなたの持つ銃身で鎧ごとあの女を破壊することは、可能でしょうか?」

「持ち合わせている分だと、多分足りねぇ。半端に弾を打ったところで、餌になるだけだろ? それはそれで腹立たしいな」

「鼠どもを囮に、一旦引きますか?」

「まぁ、妥協案としてはまずまずだな。だが、丁度いい。土産代わりにこいつを置いていくとするか」

「……黒羽、それはまだ試作品の段階だと聞いていましたが」

「ふん、あの気色悪い変態が『貸し』だと嘯いて無理やり押し付けてきやがった。さっさと手放したかったが、折角だ。使える場面で有効活用した方が良いだろ?」


 一見したところ手榴弾にも似たそれは、最新式の魔術式を組み込んだ兵器である。

 作り手当人が『魔導炎弾』と名付け、今はまだ市場にも出回っていない。

 漆黒の外装に、張り付けられているのは一枚のメモ。でかでかと赤字で『使いどころをくれぐれも間違わないこと!』と書いてある。

 一瞥しただけで吐き気を催すような、のたうつ悪筆だ。


「……相変わらず、凄い字ですね」

「これを見る度、頭痛が止まない。さっさと手放したい俺の気持ちが分かるだろ?」

「ちょっとー。お姉さん、無視されてすっごく寂しいわぁ。もしかしてもう手数は終わりなのかしら?」


 白い繊手を伸ばし、手近にいた鼠を一人いつの間にか捕らえたエダ。

 もがく鼠を鎧越しに抱きしめて、無数の口で咀嚼する様は、一般人が見たなら一生のトラウマになりそうな光景である。

 今この場に、そんな繊細な精神の持ち主はいなかったことが唯一の救いと言えば、救いか。


「心配するな、悪食。お前が望んでいた刺激とやらを存分に与えてやるよ」

「うふふ、嬉しいこと言ってくれるじゃないの。お姉さん、あなたみたいな童顔も意外といける口なのよ? そっちのお兄さんも、どんな味がするのか楽しみだわぁ……」

「残念ながら、今この場で貴女に差し上げられるのはここにいる鼠どもだけですよ。我々と踊るのは、次回以降のお楽しみということでご了承ください」


 赤髪が微笑みながら、そう告げた直後。

 エダは深紅の口許に笑みを一層深く浮かべ、脈打つ魔鎧に広域解放の文言を告げようとし――

 黒羽は外套越しに、手元にありったけの試作品を構えた――


 一呼吸後に訪れるのは、周囲一帯を巻き込む爆炎と夜陰に散らばる無数の鮮血。

 不可避であった、その光景。

 鮮血の火蓋は、切って落とされるはずだった。

 実際、その方がまだ幾らか救いがあったと言えるのかもしれない。

 現実は、得てして非情である。


 ――綻ぶ因果の隙間から、転げ落ちてくるのは悪夢。

 本来、訪れうるべき因果を折り曲げる様にして介入することに躊躇いすら覚えない狂った因果。

 存在するだけで、周囲を凄惨へと変えるもの。

 異質としか言い表せぬ存在だ。


「ねぇ、さっきから随分愉しそうなことをしてるじゃない。折角だから、僕も混ぜてよ?」


 悪食のエダが。

 赤髪が。

 黒羽が。

 順に視線を上げた先に、それはニコニコと微笑を浮かべて座っていた。

 朱の満月を背に、蠢く何かに胡坐をかき、黒髪を靡かせるその姿は思わず息を呑むほどに美しく。

 けれどもその双眸はどこまでも歪み、仄昏い。

 直視を躊躇うほどの、深い闇。

 その少年は、静かに嗤っていた。



 *



 それは言ってしまえば、殺戮劇と言うべきものだろう。

 宵の喧騒から一歩、二歩入ったところで鼻に届く血臭は、その濃さをしてまるで戦場を思わせる。

 外套を深く被り直し、頭の上にモコモコを乗せて、猫のように身をかがめて進んでいった先。

 少女は思いがけず、嫌なものに出くわしてしまった。

 無数の黒い顎が地面から伸び上がり、いたるところで人間が喰われている。言ってしまえばそういう状況であったが、耳に絶え間なく響く断末魔は心臓に悪いし、惨劇が継続中の街道はまさしく血塗れである。

 臓物が飛び散る中で、喰らう側が歓喜の声を上げていた。

 スプラッタにも程がある。

 物見遊山など、思いついた自分が馬鹿だった。

 慣れない事をした代償は、思いのほか大きい。


「……何だかなぁ」

『阿鼻叫喚なの』


 さしもの眠り姫ですら、この雰囲気の中で暢気に寝ていることは出来なかったらしい。

 断末魔を傍らに眠りつづけられたら、流石に一言くらいは物申さないとならなかっただろう。そういう点で、安堵の気持ちは拭えない。

 正直な話、道徳的指導とか向いていないのだ。これでも割と、薄情なところがあるからね。

 そんな少女の気持ちを察した訳でもなく。

 フードからひょこりと頭だけを覗かせたモコモコ。

 淡黄色と翡翠が見交わされる。

 憂鬱と眠気を半々。ほんのり嫌悪にも近い意図を込めて、少女へと伝えてきた。


『あのちっこいの、やばいの。気付かれる前にさっさと離れるに限るの』


 その双眸は、珍しく焦燥の色を隠さない。

 まぁ、無理もないと少女は思った。次代の女王竜とはいえ、今はまだ未成熟な飛竜。『あれ』の相手をするのは無謀と言わざるを得まい。

 その異質さは、群を抜いているのだ。

 カルーア自身、片手間で相手が出来る様な存在でないことは一目で分かる。


「……周囲に顕現させているのが古き怨霊の類なら、形を与えるだけでも相当な代償を払うだろうに。よくまぁあれだけの数を出して……」

『のんびりし過ぎなの。さっさとこの場を離脱するの』

「はいはい」


 目と目で意思を交わしながら、少女と一匹は血生臭い殺戮現場を背に、宵の喧騒へ戻ろうと踏み出す。

 しかし、思わぬ形でその一歩目は挫かれた。

 ガチリ、と噛み合わされた黒い顎。その反動で、勢いのままに宙を舞った人の腕。

 断末魔と鮮血の軌跡は、見事なアーチを描き、石畳へと跳ね墜ちる。

 それはまさしく、少女の目と鼻の先へと。


「……あーぁ。黒いのに見付かった」

『勘弁してほしいの』


 滴り落ちる涎と血。

 顎の間に覗くのは、噛み裂かれた人の骸。

 漆黒のそれは、歓喜の声を上げ、新たな得物に向かって口を開いた。


「おい、まだ食べ残しがあるだろうが」


 一目散にフードの奥へ身を潜めた眠り姫の動きを感じつつも、少女は呆れた声を隠さない。

 限界まで開かれた巨大な顎は、そのまま閉じられれば間違いなく少女をそのまま丸呑みできる大きさだ。

 さりとて、大きさだけで呑み込める獲物には限度がある。

 例えばそれは、互いの力量差。

 あるいは、単純に相手にならないという事実。


 溜め息と共に、振るわれた拳。

 まるで躾のなっていない犬を相手にするかの如く、さして威力の籠らないそれは――地面から伸び上がった黒い顎を文字通り粉砕し、砕かれた牙と残骸が宙を舞う。

 黒い顎から最後に発せられた断末魔に似た叫びは、それはもう無駄に大きいものだった。

 それ故に、訪れる静寂。

 気配を隠し、見なかったことにしてこの場を去ろうとした努力はすべて水泡に帰した。

 微かな呻き声と咀嚼音以外、すべてが静止し、向けられる視線は一点に集約されている。


 外套を深々と被り直し、ひとまず足場を整える。

 隙間から覗く翡翠の双眸は、隠し切れぬ諦観の色を滲ませていた。


「……凄いね。もしかして今、僕の眷属を拳ひとつで砕いたの?」


 月明かりに照らされた巨大な海蛇の頭から、するりと地面へ降り立つのは小柄な影。

 血塗れの石畳を気にする素振りもなく、ゆっくりとした歩調で歩み寄ってくる。

 一方の少女はと言えば、ガタガタと震えるフードの奥の眠り姫を片手でぽんぽんと落ち着かせながら「大丈夫」と囁く。

 その声を聞いて、歩み寄ってきた影がぱたりと足を止めた。

 闇と狂気を孕んだ葵色の双眸が、ほんの僅か見開かれる。そこには小さな戸惑いすら滲んでいた。


「……もしかして、女の人? 魔力は感じられなかったけど……」

「申し訳ないが、答える義理はないな」

「いつからここに?」

「……心配しなくても何も特別なことは見聞きしていない。邪魔をするつもりもなかったよ。さっきのは自己防衛だから、非難される謂れはない」

「自己防衛、ね。なるほど……」


 話をしている間に、少しずつ戸惑いは薄れたらしい。

 口許に笑みを戻し、止めていた足を数歩前へと踏み出したそれは建物の陰を抜け、月明かりの下に立った。

 その顔貌を見るなり、少女は溜め息を吐きたくなる。

 紛れもない既知感であった。

 色彩こそ違えど、整いすぎたそれはあまりにも『あれ』に酷似していた。


「こんばんは、お姉さん。改めて自己紹介させてもらってもいいかな?」

「いや、知り合う気は毛頭ないから別段名乗られても……」

「僕の名前はクロウ・ヒルデガルド。実は暫く向こうの大陸の王都の地下に幽閉されていたから、最近の情勢には全然詳しくないんだ。それで、お姉さんの名前は?」

「……全然人の話を聞いていないね、君も」


 溜め息を返し、少女は態勢を低めた。相手が相手なだけに、油断など出来る訳もない。

 闇を孕んだ双眸を三日月のように細めながら、それを見詰める少年。

 周囲の空気がゆっくりと渦を巻き、中心に立つ少女を囲うように大海蛇と食事を中断した顎たちがじりじりと距離を狭めていく。


「教えてくれないの、お姉さん?」

「悪いが、信頼の出来ない相手にはあまり名を名乗らない主義でね」


 少女の返答に、少年の艶笑は絶えるどころか一層深まった。

 それは紛れもない興の色。

 いつの間にか掲げられた少年の指が、パチリと音を立てて鳴らされる――その間際。


「やれやれ、どうして貴女という人はこうも面倒事に好かれてしまうのでしょうね」


 柔らかな声が、耳朶を震わせる。

 その直後、地上を吹き抜けたのは一陣の風だった。

 勿論、ただの風ではない。

 抗う術もなく、切り裂かれた黒い顎。

 大海蛇の三つの首が宙を舞い、首を一瞬のうちに失くした胴体が自重を支えきれずに地響きと共に倒れ伏す。

 竜樹の根元はその衝撃に耐えきれず、周囲を巻き込んで倒壊した。

 今まで立ち込めていた血臭は吹き浚われ、地上を覆いつくす残骸諸々。

 見るも無残である。

 断末魔すら許さない、速やかで絶対的な死の粛清だ。

 濃厚な深紅の気配を纏い、突然立ち現れた影。

 その場を蹂躙した存在に、思わず少女は半眼を向けられずにいられない。


「……容赦の欠片もないね、商人殿」

「貴女の身の安全が第一ですから。それにしても、貴女という人はよくよく面倒なモノを引き寄せて止まないのですね……」


 吹き込む風の中、見知った腕の暖かさを感じ取り、敢えてその場を動かなかった少女。

 抱え上げられるままに任せれば、束の間の浮遊感。

 今はすっぽりと商人の腕に抱え込まれている。

 石畳を見下ろす、屋根の上。音もなく着地したその技量は流石と言えた。

 そこはやはり人外である。

 ちなみに眼下には、血だまりの中で片膝を着く少年の姿。遠目にも、傷一つなく健在な様子が窺える。


「あー、うん。残念だけど否定できないな」

「まぁ、貴女自身も色々と特殊ですからね。無理もない話なのかもしれません」

「……まぁな」

「そうでしょう?」


 道沿いに張り巡らされた紅炎燈全てが明りを失い、月と星明りのみに照らされるばかりの街の外れ。

 幾らなんでも、そろそろ人が集まってきてもおかしくないこの惨状。

 しかしながら、状況は想像よりも遥かに切迫しているらしかった。


「領主の館を中心に、異種族による襲撃が先ほどから始まったようです。警吏たちは軒並みそちらへ対応に回され、街はずれまで人を避ける余裕など無いのでしょう」

「……まるで見てきたように言うね、商人殿」

「ええ。散策ついでに、領主館の周囲はざっと見てきましたよ。領主側がやや劣勢の模様ですね」

「それは厄介この上ないなぁ……」


 街の治安が崩れてしまえば、旅支度にも少なからぬ影響が出る。

 万一にも無頼者たちが勝利を収めれば、略奪やら、暴行やらで街を歩くことすら儘ならなくなるだろう。

 それでは困るのだ。


「……仕方ない。少し向こう側の数を減らしてくるよ」

「貴女の心のままに。ここの後始末はお任せください。後ほど、合流します」

「うん、とりあえずこの場は任せた」

「ご武運を」


 商人の腕からするりと降りて、そのまま屋根伝いに移動を開始した少女。

 ちらりと眼下を見遣れば、未だに片膝をついたままの『それ』が見て取れる。

 また厄介なモノに出くわしたものだと思いはしたものの、まさかこの遭遇が後々まで引き摺ることになる『縁』の切っ掛けとは思いもしない。

 とは言え、その認識の甘さを他ならぬ当人が嘆くまでは、まだもう少しの日を置くこととなる。


『本気で、死ぬと思ったの……』

「んー、まだ起きてたんだな。珍しい」

『あの緊張感で眠れるわけないの。お馬鹿さんなの?』

「……いつになくギスギスしてるなぁ」

『二日くらい寝るの。安眠体勢でお願いするの』


 半分死んだ淡黄色の双眸には、鬼気迫るものがあった。

 どうやらこの短時間で相当神経をすり減らしたらしい。

 半ば気圧される形で少女が頷いて返すも、モコモコは既にフードの奥底。

 丁度首の裏と両肩あたりで落ち着いたらしい。それにしても器用な寝方をする。

 殆ど間を空けずに、スースーと規則正しい寝息が聞こえてきた。

 マイペースにも程があるよ。


「安眠体勢ねぇ……」


 ポツリと少女は呟きつつも、屋根と竜樹を伝って最短距離を駆けていく。

 屋根のないところは、竜樹の幹を伝い、ふわりふわりと曲芸じみた移動となった。

 これがどうして、なかなか楽しい。

 やがてその視界には、どうやら焼き打ちを受けているらしい街の中心部が映り込んでくる。宵に赤々と照らし出されるのは、平穏とは遠い光景だ。

 自然と零れ落ちる、溜息。

 利き手は、すでに腰の双刃の一方に掛けられている。


「好き好んで争いに興じる様な輩なら……手加減の必要もないね」


 緋色の刃は、相対する側の殺意に応じて切れ味を変える特性を持つ。

 蒼の刃とは異なる、その異能。

 闇の中に赤々と照らし出された刀身は、刻々と目を瞠るほどの鋭さを纏ってゆく。

 眼下に悲鳴と怒号、破壊の気配を感じながら、ふと目の端に過る朽葉色。

 考える前に、ひらりと屋根の上から身を躍らせた少女は――そのままの勢いで刀身を滑らせ、両断していた。

 噴き上がり、地面を染めるのは深紅だ。

 見知らぬ男の背中、その向こう側。

 見開かれた双眸に、どうしてだろうね。少し胸が痛む。


「ごめん、リースエラ。嫌なものを見せてしまったね」


 少女は自嘲を込めて微笑し、それから小さく吐息を零した。

 一瞬の瞑目。

 周囲から襲い来るのは複数の足音。

 緋の刃が鋭さを増し、朱銀の輝きを宿す。


「さぁ、殺し合いの時間だ」


 ひらりと振り上げられた刃は、するりするりと首を狩る。

 抵抗など、少しも感じない。

 噴き上がる鮮血を横目に、少女は通り沿いに駆け出した。

 背後から彼女を呼ぶ声がしたような気がしたものの、振り返ることはない。

 向かい来る首だけを堕としては、舞うように駆けていく。

 純粋な殺意を向けられる度、刃の鋭さは鈍るどころか増すばかりとなり、刃に触れた首は尽く地面へと落ちた。

 紅い紅い一本道が、そうして伸びる先。

 やがて辿り着くその場所は、領主の館。

 炎と黒煙に煙るそこで、少女は悲鳴のような叫び声を耳にした。


「失いたくないからこそ、最後まで足掻くのよ。例えこの命かけようとも、守り切ってみせるわ!!」


 蒼髪の少女――フラウティーナの決意に満ちたその声に。

 偽りのない眼差しに。

 全身を深紅に染めた少女は微笑み、その刃の先を据える。


「――その心意気や、良し」


 どうやらここが、終着点らしい。

 少女は安堵にも似た溜め息を零し、刃を横に薙ぐ。

 リィンと響く、甲高い音と共に。

 今にもフラウティーナに突き立てられようとしていた漆黒の刃を受け止め、刃越しに翡翠の双眸を細めて見せた。


「こんばんは、フラウ」


 直前の空気からしても、余程の緊迫した場面であっただろう。

 けれども途中参戦の自分にとっては関係のない話。

 刃を受け止めたまま、後方に座り込んだままのフラウティーナと視線を交わすゆとりすらあった。


「……貴女、嘘。もしかしてルーアなの?!」

「やぁ。生きてるね? 怪我は……うん。どっちかというと、そっちの彼の方がやばいかな。ちょっと待ってて。まずは、これを先に片付けてしまうから」

「片付けるって……ちょっと、待って。相手は岩間の統領よ! 相当な使い手で……」


 半ばで途切れた声を拾う前に、ギリギリと食い込む刃を一旦跳ね除ける。

 なるほど。相当な使い手と称されるほどのことはあった。

 なかなかの膂力である。


「……あらあら。突然現れたかと思えば小さな子。まずは貴方から死ぬ?」

「……何だか口調に既知感だなぁ」


 灰色と氷色を半々に混ぜた様な、柔らかな猫毛の男だ。

 その精悍と言っていい面差しに似合わず、何故か女性口調。大陸に必ず一人くらいはいるものなんだろうか。

 地味に気になるところである。


「これは私のアイデンティティよ。盛り下げる様な事を言わないで頂戴」

「あぁ、それは……何と言うか申し訳ない」


 素直に謝罪すれば、ガリガリと頭をかき混ぜて「あーっ」と男が呻いていた。

 そこだけ随分と野太い声である。


「ふん、調子狂うわね。でも銀色の精霊姫をこの手で血染めにする寸前で割り込まれちゃあ、気分も悪くなるわよ。ねぇ、アンタちょっと外套を取って顔を晒しなさいな」

「えっ……面倒臭い」

「そこは空気読みなさいよ! 性別すら分かんないような相手を切り捨てるのは信条に反するのよ!」

「性別は一応、女だけど……」

「一応って何なの?!」


 ポンポンと言い交わしながらも、互いに手は止めていない。

 なるほど並みの遣い手ならば、とうに両断されていても可笑しくない太刀筋。無駄のない、殺傷に適した鋭い刃風を頬に受けつつ、少女はあえて紙一重まで肉薄し、観察をしていた。

 男が振るう漆黒の刀身には、幾つかの魔法式の気配が感じ取れる。おそらく『魔剣』の一種だ。

 そして身に纏う軽装鎧にも、同じ魔術師が刻み込んだと思われる魔法式の気配がある。

 完全に読み取るには、手を触れる必要があった。

 使い手が使い手なだけに、それはやっぱり難しい。

 けれど、何となく読み取る程度ならば肉薄して感じ取るだけでも事足りる。

 その為の、観察。

 するりするりと防戦に徹した後に、緋色の刃をちらりと確認。うん、十分に刺し貫ける程度の鋭利さはある。


「さて、じゃあそろそろ終わらせようか?」

「……全然人の話を聞く気が無いのね、アンタ。いいわよ、止めを刺してあげるわ」


 凍りついたような男の双眸。

 殺気に曇ったそれを見て、ほんの少し残念に思う。

 元々の太刀筋を磨いていけば、この大陸でも有数の遣い手になれただろう。それほどの器。

 でも、もう手遅れだ。

 見る見るうちに凍り付く、漆黒の刃。確かにその魔法式の威力は馬鹿にならない。

 けれども、少女は静かに目を閉じる。

 その場に立ったまま、弛緩する。

 刃を一旦降ろし、迫る気配を全身で感じながら――待つ。

 確実に、命を刺し貫けるその一線を。

 緋色の刃が、深紅に染まる。

 そして振り抜く、一閃。


「……終わったよ」


 真横に崩れ落ちていく男の身体を確認するでもない。

 少女は静かに、呟いた。

 緋の刃もまた鋭さを失い、沈黙する。

 ふぅ、と一息。

 振り返って、まだ茫然としたままのフラウティーナへ苦笑混じりに謝罪した。


「ごめん、お待たせ」

「……」



 後にフラウティーナは独白する。この時ほど、目の前の現実を疑った瞬間はなかったと。


長らく、ご無沙汰しておりました。

ここまでお読み頂き、感謝です。

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