*挿話 霧雨の領主家*
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雨が止んで尚も、しとしとと耳を打つのは幻聴か。或いは、疲労によるものか。
未だに成人の儀すら迎えていない若き領主――レイ・ブールドネージュはひっそりと溜息を零しながら、窓から見える曇天を仰いでいた。
「おや、我らが君主はどうやらお疲れのようですな」
それは不意の呟きであった。
カタン、と小さな音と共に開けられた窓と、ひょいと顔を覗かせた白髪の老爺。
直前まで気配すら掴ませぬその手腕に呆れた方が良いのか、感心するべきか。
そんな少年の内心に気付く様子もなく、そのまま窓枠を乗り越え、異国の文様が施された絨毯の上に着地してみせた小さな体躯。
ついでにポンポンと膝のあたりを払いつつ「おぉ、長年の疲れが腰痛と共に堪えますなぁ」などと嘯くあたり、大分ふざけている。
ふざけていると、思いはするのだが。
その姿に安堵に似た何かすら覚えて、ほんの微か口許を緩めた彼は素直に呟いていた。
「よく五体満足で戻ってくれた、シディアン」
「ただいま戻りましたぞ、我らが領主殿。ふふ、久方ぶりに見えるその御顔、より一層の苦難に満ちておいでのご様子。どうやら問題が一つか二つ、増えたようですな?」
「……相も変わらぬな、お前も」
「ええ、無論のこと。儂は変わりませぬよ。変わらずにいるのが役目のようなものですから」
カラカラと笑声を響かせる老爺に対し、少年はオーク材のテーブルを立ち、紅い目を細めて束の間微笑む。
「シディアン、状況はあまり良くはない」
「ほぅ、あまりとは随分柔らかな物言いを選んだものですな。実に、と言い換えた方が宜しいのでは?」
「そなたの心労を無駄に増やしたくないと思ってな、つい」
一見すると、冷酷に見える灰髪と赤銅の双眸をもつ当主が零した呟きに、老爺は目を丸くした。ついで、口許に笑みを刷く。
微笑と嘲笑、二色の意図を込めて。
「赤眼」と畏怖をもって呼ばれてきた黒曜の領主家、ブールドネージュ。
唯一、先代から領主家代々の相貌を受け継いで生まれたレイはあと二年でようやく成人を迎える。
「……相も変わらぬ、とは逆に貴方のような方にふさわしいですな。いや、全く」
ポツリと呟いた後、小さく口元で『解呪』の印を紡ぐ。
たちまちに輪郭は曖昧となり、瞬きの後には、老爺の立っていた場所に全く造形の異なる人物が佇んでいた。
「……そちらの姿は数年ぶりに見たな、シディアン」
「仕方なかろう、レイ。儂も好き好んで本来の姿など現したくはないが、今回ばかりは片手間で相対できる
相手ではないからな」
プカプカと煙管をふかしながら、憂鬱そうな笑みを手向ける赤髪の美丈夫。
その体躯は思わず見上げるほど高く、伸びた背筋まで溜息をつくほどに美しい。ただ、眇められた双眸の奥だけが、隠し切れない諦観と憎悪の濁りを混じらせている。
「それで? すべてを粛清して鮮血の領主となる覚悟はもう済ませたのか?」
「……いや、それだけはどうあっても避けるべきだと思っている」
「ふん、相も変わらず甘いことよ。そなたの両親も、祖父母も手にかけたのが『奴ら』であろう。まさか忘れた訳でも無かろうに」
「たとえ私心で復讐を成し遂げたところで、俺が本当に得たいと思っているモノは……もう手元に戻ることはないと知っている」
静かに告げたられた言葉は本心でありながらも、すべてではない。
プカプカと煙を燻らせながら、シディアンは小さく嗤った。人間とは、かくも愚かである。
しかし、そうでなくては面白みがない。
「そなたのそれが優しさと呼べる代物でないのは、分かっているつもりよ」
「では、お前ならばこの感情にどのような名をつける?」
「ふん、まぁ精々が……茶番、といったところか」
「お前には敵わない、シディアン」
自嘲の笑みを一時浮かべ、瞑目した若き領主。
そんな今代の領主を眺める守の獣。
代々の領主家当主にのみ仕えてきた彼は思う。レイほど領主に向かぬ者はいないと。
同時に、レイ以外の誰にも領主家を継げる条件を満たしていない今代においては、他の誰にも彼は仕えることを望まない。
この巡り会わせは、喜劇であり悲劇でもあると内心で評し、秘めやかに獣は笑う。
「ふん、岩間の者どもと海の無頼モノが手を組む前に事の収拾にあたることよ。急がねば、竜樹に幾多の血を吸わせる羽目になろう」
「……だが、あの二つの種族の間には過去の諍いが今もまだ根深い。早々に纏まることはないと思うが」
「さて、どう転ぶか……。物事というものは常に変化し、流動するものよ」
「何か、掴んだのか?」
「はっきりとは言えぬ。だが、占のカナリアが嘗て言っておったことが、近頃になって何となく思い出されてならぬのよ」
――占のカナリア。
思いがけず出てきた言葉に、レイの表情が微かに強張るのを見逃さなかった獣は、にたりと笑う。
「ほぅほぅ、未だに我らが君主はかの女傑を畏れてやまぬと見えるな?」
「……畏怖もするのだ。あれは、我らとは異なるものを見て、異なることを思う者であるがゆえに……」
「まぁ、そうはいってもあれも最盛期の能を失って久しいのだぞ。二年ほど前に顔を合わせた折は、じきに視力そのものも因果に喰われて失われようと、自ずから言って笑っておった」
「……因果、か」
しん、と静まり返った領主の執務室にふぅーとシディアンが煙を吐く音だけが揺蕩う。
「おぅ、因果よ。人外だろうと、人の理に存在する者であろうと、等しく因果からは逃れ得ぬ。故に、それを知る者だけが足掻くことも出来る。そうして足掻く者に、我もまた手を貸そうぞ……?」
呵々と笑いながらも、その目だけが色を変えることはない。
足掻いてみせよ、と。
代々の領主へ向けて、同じ文言を繰り返してきた守の獣。
けれどもその根底にあった慈悲、豊穣の意思は失われて久しいのだ。
レイはそのことを、誰よりも自覚している。
嘗て、『彼』はその時々の領主を支え、慈しみ、曇りなき眼でその治世を、命を守る獣であった。
――けれども、先代の領主が最期の時を迎えた時にその因果は歪んで元の形を失ってしまったのだ。
憎悪と失意の果てに、濁った眼。
そこから一筋零れた、血の色の涙。
愛していたからこそ、心から慈しんでいたからこそ、その憎悪は計り知れぬ深みとなった。
時によって癒えるどころか、月日を経るごとに濁りを増していく緋の双眸。
その眼差しを見据えたまま、レイは静かに息を吸いこむ。
「あぁ、足掻けるだけ足掻いてみせよう」
「それでこそ、我らが君主よ」
曇天の空を仰ぎ、若き領主は揺らぐことのない決意を守の獣に誓った。
時の歯車は絶えず、回り続ける。
それより二日の後、辛うじて保たれていた均衡の一角は崩落した。
領主の館へ齎された報せを、憂いと共に領主はその手に受け取ることとなる。
それは東の境界線、白狼の峡谷砦が岩間の種族の奇襲によって占拠されたという凶報であり。
黒磯の海街に、暗雲が徐々に立ち込めようとする前触れでもあった。
長らく、筆を休ませて頂いておりました。
ここまでお読み頂いていることに、ただ感謝です。




