*挿話 黒磯の海街より*船上の少女は彼方を見据える
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旧大陸、またの名を『黎明の大陸』。
一年を通じて霧深く、どちらかと言えば温暖なその台地において、多種族からなる小国同士が常に均衡を取り合いながら日々の繁栄を続けているのは、多くの旅人や商人たちが知るところだ。
昔と比べて排他的、とまではいかないまでも気質は閉鎖的な土地も多く、判断を誤れば命も落としかねない。
要するに、初心者には不向きな土地柄だと言えよう。
故に、初めて訪れる多くの者たちが辿り着いた港でまず行うのが、有能な案内人探しだ。外れを引けば命に関わるとあって、よほどに楽観的ならばいざ知らず、皆が真剣に店を巡る。
店――つまり案内人を仲介する紹介所を。
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ここ数日、黒磯の海街には雨が降り頻っていた。
透明な雨滴が石畳を叩きつけるように濡らし、街は白く煙って見える。
季節風も過ぎ、穏やかな気候がようやく戻って来たかに思われたその矢先。訪れた突然の驟雨に地元民は一様に首を傾げつつも、こんな年もあるだろうと鷹揚な態度を崩さない。
海原を眼前に街を拓き、時に津波の脅威に直面しながらも生き延びてきた彼らの気質は慎重かつ冷静。また内陸に比べて多種多様な人々と関わる事も多い為か、陽気な一面も併せ持つ。
故に、街は一年を通して活気を失うことがないのだ。
また、街は大まかに三区画に分かれている。中央通りに面した商業区、食材や生活用品を雑多に扱う大市場、そして地元民が暮らす生活区だ。
最も賑やかなのは大市場だが、海街の経済の中心は商業区と言っても過言ではない。
何故かといえば、答えは至って簡単。この街における紹介所のおよそ八割が商業区に集中しているからだ。
空に向かって伸び上がる様に建て増しされた商業区の歴史は古く、木造ながらも大陸で最も耐久性に優れているといわれる竜樹を土台に今現在も発展し続けている最中である。
紹介所は基本的に主要都市に軒を連ねるが、一部例外もある。
例えば、海の玄関口にあたる旧大陸の西端。
黒磯の海街と呼ばれる交易の要所においては、土地は狭いが犇き合うようにして複数の紹介所が立ち並んでいる。
名だたる紹介所の中でも、とくに有名な看板は三つ――『金兎の巣』『青鹿の泉』『竜の庭』を抱える黒磯の海街は、知るものぞ知る旧大陸の要なのだ。
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運河を見下ろせる最上階に掲げられている看板の数は三つ。これは街が拓かれた当初より変わらないことの一つでもある。
其のうちの『竜の庭』――その入り口に吊り下げられた緑柱石の呼鈴が涼しげな音を立て、小走りに駆け込んできた蒼髪の少女が一人。
雨で濡れた外套を脱ぎつつ、奥から現れた店主と軽く手を上げて挨拶を交わした。
「おはよう、ドクさん!」
「よぅ、フラウ。こんな雨の中どうした?」
カウンター越しに向き合う二人の体格差は、まるで兎と虎といった風情すら感じさせる。
厳めしい顔と立派な体格――まさに巨体だ――をしながらも、鳶色の目は優しい色を湛えている『竜の庭』の店主にして、所属する案内人たちの統括役でもあるドクトル・マス・エンデ。
親しい者は、皆彼をドクと呼ぶ。
「ヨハンはまだ来てない? ちょっと話しておきたいことがあるの」
「いや、今日はまだ来てないな。あいつのことだ。まだ宿で寝てるんじゃないか?」
「……全く、根っからの低血圧野郎なんだから」
カウンターに寄り掛かかって、大仰に溜息を零す蒼髪の少女。
彼女の名は、フラウティーナ・エル・ストーレ。
街行けば人目を一身に集めて止まないのは、齢十七にして『竜の庭』の優良案内人であるという事実に加え、彼女がとても美しい少女である為だ。
腰まで伸びた蒼髪を銀色の月を模した装飾でさらりと纏め、引き締まった肢体を軽装の鎧で隠しながらも、その可憐さは見る者の魂を奪う。
密かに渾名される『銀色の精霊姫』の名は、ここ数年間で彼女が果たした数々の高難度依頼を経て、黒磯の海街で知る者がいないほどに広く知れ渡っている。
「お前たちが相棒を結成して、もう二年になるか……ふ、初めはどうなる事かと思ったが」
「ね、私も驚きだわ。あんなチャランポランとなんて、絶対に長くは続かないって思ってた」
「フラウは根っから真面目だからなぁ。だが、ヨハンもああ見えて見どころのある奴だ」
「そうじゃなかったら、ここに加入なんて認めなかったでしょ?」
「はは、違いない」
苦笑混じりでもどこか緩んだ笑顔の少女を横目に、店主は快活に笑って返す。
「で、今回はどんな依頼に目を付けてる?」
「……ドクさんには隠せないかぁ。ふふ、聞いてない? 昨日港に着いた三本マストの大型帆船」
「……大いなる双翼号、か」
「深遠の大陸から半年ぶりに着いた大物顧客よ。見逃す手はないと思って」
「まだ依頼は掲示されてないと思うが?」
「あれだけの規模の船で、まさか一件も依頼が出ないなんてことあり得ないと思うけど?」
菫色の目を獲物を前にした猫のように輝かせ、にんまりと微笑むフラウティーナ。
やれやれと肩を竦めて見せたドクトルは、ごく自然な動作で少女の頭をぽん、と一つ叩いて言った。
「フラウには敵わないな」
「何年この業界でご飯を食べてきたと思ってるの? ね、少しくらいは情報も届いてるわよね?」
ずい、とカウンター越しに身を乗り出してくる少女へ「まぁ、ひとまず落ち着け」と言い差しながらドクトルはその巨体に見合わぬ敏捷な動作で、背後に詰め込まれた無数の依頼書の束へと向き直る。
おもむろにゴソゴソと引き出して来たのは、その内の二束だ。
「……実は今回、色々とイレギュラーなことがあったらしくてな。あの船長に限って珍しいことに追加で三名、乗船を認めたらしい」
「え、あの堅物メルバ・シレーディングが?」
「そうだ、あの堅物がその信念を曲げてまで乗船を認めた。こいつは中々きな臭い。悪いことは言わない、フラウ。今回に限ってはあの船から手を引いた方が良いぞ」
「……それはドクさんの勘?」
「そうだ、俺の長年の勘が言ってる。間違いなく面倒事だとな」
カウンターに両手を置き、いつになく神妙な面持ちを崩さないドクトルを見上げる形で蒼髪の少女は息を呑む。
達成困難だと言われた依頼を前に、今までにも言葉を濁されたり遠回しにもう少し実力を付けてから挑戦するようにと諭されたことはある。それこそ、数えきれないほど。
でも、こんなにはっきりと言われたことは無かったのだ。
まるで警告のようなドクトルの言葉に、思わず声を詰まらせていた少女は背後の緑柱石の呼鈴が一つ鳴ったのに、暫く反応できなかった。
「何か、取込み中?」
その欠伸混じりの声は、彼女の良く知った人物のものだ。
それが耳に届くと同時に、ようやく蒼髪の少女は待ち人が来たことを知って振り返る。
「……今日も寝坊よ、ヨハン」
「そう?」
「目覚まし時計を五つもセットして、どうしてこの時間まで起きられないの?」
「それは、毎朝一つは寝ぼけて破壊してしまうから」
「相変わらず悲惨ね」
「フラウと組んでからというもの毎月、時計代がかさんで困ってる」
ふわー、と大口を開けて涙混じりの目を拭いつつ、ひょろりと背ばかりが高い青年がそう言うのに、ドクトルとフラウティーナは呆れ切った視線を向けた。
この街で一二を争う剣技の腕を持ちながら、やる気を見せたことは皆無とすら囁かれるヨハン・ウルド・ディザイア。
優良、良、可、修練中の四つのランクの中ではフラウティーナと同じく優良案内人の位置にいるものの、彼自身は自ら依頼に名乗りを上げることはなくランクアップを果たした異例中の異例である。
その二つ名は『眠りの怪物』。基本姿勢はなるがまま。穏やかな気性の持ち主だが、一たび尾を踏めば相棒であるフラウティーナですら無傷で取り押さえることは困難と言える。
また昼夜構わず戦闘中以外はボーっと思考を漂わせているばかりなので、その落差を初めて見る者には驚愕と畏怖を与えて止まなかったりもする。
要するに、取扱注意の四文字が似合うのだ。
「自力で起きられればそれで済む話でしょ。ぐちぐち言わないで頂戴」
「今までは横の誰かが起こしてくれてた」
「……相棒の家へ行く度、濡れ場に居合わせることになる私の気持ちを考えてから言いなさい」
「以外に純情だね」
「おい、その辺にしとけヨハン。一般的な観点から言えばフラウの意見が正しい。公私を分けて付き合うのが案内人としてのマナーだ。いいな?」
ググッ、と身を乗り出して言い含めるドクトルの顔をしばし眺め、微かに首を傾げたヨハン。
「そんなもの?」と呟きながらもようやく頷いて話を打ち切る。
結果、場の空気がようやく少しだけ緩んだ。
「それで? 今回の呼び出しは何?」
「聞いてるでしょ、例の三本マストの大型帆船。顧客探しには持って来いだと思うの。どう?」
フラウティーナの問い掛けに対し、首を傾げたままヨハンはぽつりと言った。
「……たぶん聞いてない。まぁ、でもいいよ。いつもの通り狩りは任せる」
「……狩りって言わないで」
「ははは、違いない。まさに顧客探しは狩りそのものだな!」
ここぞとばかりに茶々を入れたドクトルに向けられるのは、蒼髪の少女のひと睨み。
「怖い怖い」と零しつつ、店主はそそくさと日課の豆茶を淹れるべくカウンターの奥へと姿を消した。
「さてと、善は急げね。早速港へ情報を仕入れに行きましょう?」
「構わないけど、途中で屋台によってもいい? 朝食がまだ済んでない」
「……はぁ、良いわよそれ位。いつものことだもの」
カウンターから立ち上がり、少女は軽く髪を背に流して溜息を一つ。
いつもの通りに見仰ぐ先の鈍色の双眸には、一欠けらのやる気も見えない。そのことに、ほんの少しだけ安堵を覚えるのも長く付き合ってこそ。
「西通り沿いから港に出るわ。それでいい?」
「うん」
緑柱石の呼鈴が再び、軽やかな音を響かせる。
この街でも限られた優良案内人の二人組は『竜の庭』を後にして、未だに雨の降り頻る港へと向かって歩きはじめた。
*
紺碧の空に、鳴き交わす海鳥たちの声。
甲板の上に仰向けになりながら、二日ぶりの日光浴に興じていた少女は薄らと瞼を上げて呟く。
「……珍しく勘が外れたなぁ」
『生きてたらそういう事もあるの』
「そんなものか」
『そんなものなの』
ポンポンと上下に跳ねる灰色のモコモコを抱え直し、ふわーっ、と大きな欠伸をする少女。
ごろりと横に転がろうとして、二本の障害物に阻まれた。
少女の背後――有体に言えば背中越しに抱きしめているも同然――から、定位置の如く回る両腕の持ち主は上機嫌に鼻歌など混じらせている。
じっと横目に見上げれば、例の艶笑。
潮風に靡くのは、今日も眩しいばかりの艶やかな純黒である。
「共に朝を迎えられたことを、とても幸せに思います」
「誤解を招く様な言い回しは止めてもらいたい」
「ふふ、でも事実ですから」
「質が悪いな」
『同感なの』
眠り姫の同意を受け、よしよしと羽を撫でるとご機嫌そうに身震いしてウトウトと微睡み始めた。
最近、少しだけ重くなった気がするんだよなー。
数日でも成長はしているんだなぁ。
「よく言われます」
ほのぼのとした空気を尻目に、向けられる爽やかな笑顔。
少女は内心でげんなりする。
誤解の無いように今一度、重ねて言っておこうか。
男女の交情じみたものは一切起こっていない。一切だ。大事なことだから繰り返したぞ。
「……まぁ、血中の魔力を薄めてもらったおかげで大分熱も引いたらしい。ひとまず感謝するよ」
「今後ともどうぞ御贔屓に」
「ここでその文句で返してくるのか……? いや、まぁ構わないが。それはそうと、今回の分で釣り合いは取れたか?」
「予てよりのお約束通り『血』を代償にお支払いいただきましたから、過不足なく。問題はありませんよ」
問題がない。それはそれでいいことだ。
うんうんと表面上は頷きつつも、少女の表情はいま一つ晴れない。
それは何故か?
地味に気になることが一つあるからだ。
時が経つごとに、さり気なく拘束されたままのこの体勢に浮かんぶのは懸念の二文字。
当初こそ視線のみで訴えてはみたものの、今回に限っては人一倍優れた勘を有し、空気も読めるはずの商人殿はニコニコと笑みを深めるばかりで埒が明かなかった。
仕方なし、と声に出して解放を求めた結果は下の通りである。
「体調も問題ない。そろそろ拘束を解いてもらってもいいか?」
「焦らずとも、まだ船員が起き出すには間もあります。ご安心を」
「……」
すっぽりと全身を包まれる感覚は、こう言っては何だがむず痒いものがある。
これが好き合う男女云々といった想定であれば、さぞや心拍上昇の止まらないドキドキの心象風景だろう。甘酸っぱいことこの上ないな。
だがしかし、今回はもちろんこれには当てはまらない。
状況を何となくでも当てはめるとしたら……そう、あれだ。大きめのネコ科動物にじゃれ付かれて引き際が分からなくなった感覚に近いかもしれない。
「おーい。……無視か」
「ふふ、聞いていますよ」
「商人殿、一つ聞いても?」
「何なりと」
「仮にも吸血種族でありながら、人の体温が恋しい時もあるのか?」
「誰でも良いというものではありませんが」
「……そうか」
あんまり深く掘り下げない方が良い気がする。
そんな心境からか、少女は自ら問いながらその答えに微妙な表情を隠し切れていない。
「船旅もあと僅かとなりましたが、海街に着いたら先ずはどちらへ?」
「炎燈のある方角を目指す」
モゾモゾと身体を捩りつつ、少女は端的に答える。
まるでそこに籠る感情を、読み取られたくないと言うかのように。
翡翠は、既に彼方を見据えていた。
そこに霞むようにして、玄関口にあたる旧大陸の西端が映り込んでいる。
竜樹を土台に発展を遂げ、無数に張り巡らされた運河からなる大陸有数の交易地。
――黒磯の海街だ。




