船上の少女は風邪を引く*挿話 とある兄弟の邂逅*
*
「必ず、戻るんだよ?」
それはとても優しい声。
抱きしめてくれる腕の確かさ、髪を柔らかくかき混ぜられた手指の感触まで、鮮明に残っているのに――
その『名』だけ、まるで、思い出すことが叶わない。
幾度、夢に希っても。
他の色を縋っても、もうすべてが遅く――
ならば、せめて、あの子だけでもと。
薄らと、微笑んだのは、誰だったろう。
*
『珍しいこともあるの。私よりもお寝坊さんなの』
「ここ連日の海釣りで、よほどお疲れなのかもしれません。そっとしておいてあげましょう」
『でもお腹が空いたの。起こすの』
「こらこら」
何だかとても、耳慣れた声が二つ。
薄らと瞼を上げた少女は、そのまま覚醒した意識で一人と一羽を認識した。
「……おはよう、二人とも」
起床の挨拶のついでに、大きな欠伸を一つ。
そこでようやく少女は気付く。
経験したことのない体の怠さ。体の節々も鈍く痛む。
……まさかなぁ、と思いつつ額に手を当ててみれば、予感は最悪の形で的中していた。
「……熱いな。それに頭痛もする。これが噂に聞く『風邪』というやつか?」
「ちょっと、失礼」
断りの文句と共に、商人殿の手が額に軽く触れる。
適度にひんやりとして心地が良い。
同時に展開されるのは『検知』と『治癒』の魔法式だ。視界に重なって浮かび上がったそれらは、淡い白と薄水色の精緻な輝きを宿していた。
混じり合った部分から、ほんの少しだけ頭痛が和らぐ感覚を覚える。
『……大丈夫なの?』
「少し怠いが、動けない訳でもない。平気だ」
「……さて、症状は風邪に似てはいますが……。ひとまず手元に在るモノで薬を調合して参ります。私が戻るまでの間、くれぐれも無理はなさらない様に」
「だが……」
「戻るまで、動かない。宜しいですね?」
念押しされた。笑顔の圧力がいつになくあからさまで、勢いに押される形で思わず頷いてしまう。
まるでこのタイミングを図っていたように、ポーンと膝に飛び乗ってくるのは灰色のモコモコだ。
彼女は軽く羽ばたきながら、言う。
『急ぐの』
「ふふ、主人想いの優しい魔獣なのですね」
『さっさと行くの』
「承知しました」
音もなく閉じられた扉の向こう、遠ざかる足音に耳を澄ませること暫し。
バサバサとお腹のあたりで照れ隠しをする灰色のモコモコへ片手を伸ばし、羽毛の流れに沿って撫でると小声で「阿呆なの」と聞こえてきた。
確かに馬鹿は風邪を引かないと聞く。
ならば自分は阿呆なのだろうなと内心で同意し、小さく「そうだな」と呟いた。
コンコン、と丁寧なノックが耳に届いたのは商人殿が去ってから数刻後のこと。
近付いてくる足取りから相手の見当を付けつつ、「どうぞ」と今は少女とモコモコしかいない船室から答えれば、「失礼します」とやはり耳慣れた声がした。
ドアの隙間から顔を覗かせるのは、クイン少年だ。
「お身体の加減が宜しくないと窺ったので、薬膳をお持ちしました。……食べられそうですか?」
「ありがとう、クイン君。わざわざ済まないな」
「いえ、とんでもありません!」
失礼します、と二度目の断りを挟みながらクイン少年が両手に抱えて運んできたのは小さな鍋が二つ。
船室ごとに備え付けの丸テーブルに二つ置けば、丁度良いくらいの大きさだ。
先に置いた鍋の蓋をかぱりと開けると、立ち上る白い湯気。
僅かな薬草の香りと、魚介の風味が届いてくる。
「お気に召して頂けるといいのですが……」
そんなクイン少年の呟きに応えるように、少女のお腹がクウ、と鳴った。
「幸いなことに、食欲は変わりないらしい」
「それは何よりですね。安心しました。宜しければ僕の方で小皿に取り分けましょうか?」
「あぁ、そうしてもらえると助かる」
「承知しました!」
破顔したクイン少年が、続けて置いた鍋。そわそわと気にしているのは膝の上のモコモコだ。
「こちらは魚介たっぷり、冷製スープです」
『待ってました、なの!』
直接声こそ届かなくとも、ここ数日のモコモコの喜怒哀楽を見てきたクイン少年には、彼女の歓喜が伝わったらしい。
「ちょっと待っててくださいね」と言い置く横顔は小動物を前にしたそれだ。
緩んでいる。とっても緩んでいる。
元より動物好きなのだろうなぁ、と容易に想像がつく少年の挙動を観察しながら気付かれない様に苦笑した。
「冷ましながら、召し上がってみてください」
「ありがとう」
小さめの深皿に取り分けられた薬粥をスプーンで掬い、ふーふーと息を吹きかけながら口に運ぶ。
美味い。何と言うか、色々と凝縮したコクを感じる。
ちらりと横目でモコモコの方を窺えば、こちらはこちらで冷製のスープを甲斐甲斐しく運んでもらってご満悦だ。
着実に餌付けされている。
「クイン君、忙しいだろうから途中から代わるよ」
「いえ! まだ昼まで時間はありますし、大丈夫です。兄さんもいますし!」
「……そうか?」
疑念を一言に込めつつも、強制は出来ない。善意で料理を船室まで運んでもらっているから尚更だ。
とは言え、調理場へ戻ったクイン少年が拳骨を落とされている様子がありありと目に浮かぶようだった。
そんな少女の様子にも気付かずに、当の少年は片手に冷製スープを掬いつつ、ここ数日の出来事に思いを馳せるようにして訥々と話していた。
「狭霧の孤島を出て、今日で六日目になります。ルーアさんは連日のように釣りを続けられていましたし、船旅の疲労がここに来て一気に出たんでしょう。あと三日もすれば旧大陸も間近です。今は身体をしっかり休ませることが大切だと思いますよ!」
「ん、それもそうだ。少なくとも今日明日くらいは体力を回復させることに専念するとしよう」
「昼食も軽く召し上がられますか?」
「いや、時間が時間だしな。その代わりと言ってはなんだが、夕食を早めに貰うことは可能かな?」
「はい、大丈夫です。それでは後ほどお持ちしますね!」
少女は鍋の半分ほどでスプーンを置き、改めてお礼を言えばクイン少年は「いえいえ」と小さく手を振って二つの鍋を重ねた。
ではまた、と元気な一声と共に去った背中に手を振りつつ、視線を膝の上へと戻してみれば。
見事に冷製スープを平らげ、嘴の横からモゴモゴと蟹の足を揺らしているモコモコが一羽。
幸せに浸っている模様だ。
「満足かい?」
『何も言うことは無いの!』
「それは何より」
言葉通りに満足げな寝息が響き始めるまで、そう時間は掛からない。
少女は船室の窓から海を眺め、ひっそりと溜息を零す。
その双眸に籠るのは、諦念と微かな憂いにも似た何かだ。
――分かってはいたこと。ただ、ほんの少しだけ早い。
「……この因果を、誰に願えばいいのだろうな」
近頃、夢を見る。
この逃亡劇を決意してからは、数日おきに幾度も。同じ声、同じ夢を。
辛うじて留めていた因果が、ここに来て溢れ始めている兆しだろうと少女は感じている。
そもそも、この世界に変わらずに在り続けられるモノはない。
目を背けようと根源は変わらずに在り続けるように。すべて元を辿れば、あの優しい声に背き、地上の火に触れた罪へと行き着く。
好奇心は猫をも殺すとはよく言ったものだが、当事者になってみれば笑えない。
犯した罪ゆえに、離散した三色。
各大陸に散らばった筈のそれぞれが、いつしか集い、そうして知った記憶の欠落。
記憶と因果は密接に絡まり合うもの。
記憶全てを失えば、枷が外れて因果に飲まれる。
記憶の全てを取り戻しても、嘗て三色をもって統べていられた膨大な魔力に飲まれ、自我を失う。
「どちらを選ぼうが、早晩『因果』に喰われて消滅するのは変わらない、か」
分かっている。
この身一つ、出来ることが限られていることは。
事実、全き獣性をして、因果にその命を捧げた『黒』は既にその命を散らした。
本来の身体を失い、獣性のみになった自分。
その上『紫』の獣性は刃に封じられている。
残されたのは、どうしようもなく歪んでしまった二色の因果のみ。
欠けたこの身で、あとどれほどの事が出来る?
いや、実際のところは問うことすら馬鹿馬鹿しく思える。
何も為せないのだ。まして踏み出せば、次こそ消滅は避けられまい。
二色が消えれば、残りはただ一色。
緋にその身を侵されながらも、その身と獣性が丸々残った全き白だけになる。
果たしてその事実に、自分は耐えられるだろうか?
――分からない。今は、まだ。
「――貴女がそうして憂う姿は、まるで一枚の絵画のようですね」
蜜を絡めたように甘やかで、耳当たりの良い美声。
その声の主は一切の気配を排し、しなやかな所作で傍らに立っていた。
「美化が過ぎる」
「ふふ、気分を害してしまいましたか? まぁ、気分直しに薬湯をどうぞ」
「……んー、初めて見る色だな」
「オリジナルの配合ですから。効果のほどは保証いたします」
毒々しいといって過言でない、真紅。
まるで血だな。そんな一言を辛うじて口の中で留め、差し出されたカップを一息に飲み干す。
「…………美味しくはない」
「薬湯ですから」
ふわり、と微笑したままカップを受け取る商人の端麗そのものといった顔を見上げ、色々と言葉を選んだ末に少女は短く問う。
「商人殿は、そもそも旧大陸へ何をしに行くつもりでいる?」
「里帰りですよ」
まさかの答えに、暫し絶句する。正直、商売の一環だとでもはぐらかされると思っていた。
そんな少女の心情を読み取ってか、流れるような動作でハンモックから垂れる瑪瑙色の一房を指先で掬い上げた商人は、それをそのまま口元に寄せて蠱惑的な笑みを向けて告げる。
「私の正体にお気付きでしょう? それであれば、もうはぐらかす必要もありませんので」
「……まぁな」
溜息代わりに呟きながら、少女は無言で髪を引っ張ったが、当の商人はどこ吹く風だ。
無言の攻防はしばらく続いたが、とうとう根負けした少女は好きにしろといった風情で黙認した。
極端な話。
髪の一房くらい、どうされようが構わないと。
「貴女の持つ色彩の中で、この髪色が最も美しいと一番初めにお会いした瞬間から思っていました」
「そうか」
「約束の期日まで、あと三日ほどになりましたが。……いかがでしょう。決心はつかれましたか?」
「一応な」
「それは嬉しいお答えです」
端的に返せば、深まる笑み。
やれやれ、どこかで見たような目の色だ。
「では、明日の晩にお迎えに上がります。それでも宜しいですか?」
さらりと流れた純黑の髪が、濡れた唇に掛かって異様な妖しさを増した。
これは一種の『魅了』に近いな、と少女は密かに確信を深める。
『面倒事は全力で避ける』が信条と言って過言でない少女であるが、約束は約束。
元より破る気はなかったが、今日になって選択を翻したのにはそれなりに大きな意味合いもあった。
「……んー、うん。そうだな、構わない。……刻九つを過ぎたら甲板へ来てくれ。昨日までは逆の答えを用意していたんだが、こうなった以上悪いとは思うが利用させてもらうぞ?」
「利用、とは?」
「詳しいところは明日の晩に話させてくれ。こちらも色々と整理してから話をしたいからな」
「貴女には敵いませんね。……承知しました。では明日に」
膝を着き、優雅に一礼した商人はカップをもって船室を出て行った。
その背を見送り、相も変わらず膝の上でくーくーと寝息を立てる眠り姫を抱え直した少女。
大きく深呼吸を一つ。
「あと三日、か」
自らの呟きに重ねるようにして、翡翠の双眸は鮮やかさを増した。
籠る意思に、揺らぎはない。
己の辿るであろう因果を知りながらも、踏み出した一歩。
その歩みを止めれば、その微かな望みさえ途絶えることを知ってしまったが故に。
因果は、巡る。
動き出した歯車は、もう戻ることはない。
その歯が欠け落ち、動が静に変わるまで、あとは只ひたすらに回り続けるだけだ。
*
「あー、見っけ」
やっと追いついたね、と口の中だけで呟いたそれは波音にかき消されて誰の耳にも届かない。
満ちた月を仰ぐ、夜陰の海上。
その視界に映るのは、一隻の黒い小型船舶。
ふわりと笑みを刻んだ口許で、一つの命令を己が足元へと落とした。
「あれを沈めて、シーラ」
『……承知』
まるで幼子が欲しいモノをねだるように、純粋な声。そこには僅かの躊躇いも、罪悪の感情も感じ取れない。
声に応え、スルスルと伸びあがるのは七つの首。
海面を滑るように進むその魔獣の名を、人々は恐れを以ってこう呼んだ。
――大海蛇、と。
首は銘々に鎌首をもたげ、反動を付けるようにして襲い掛かってゆく。
紅の眼光は宵闇に輝き、鋭い牙が下される先はあまりに脆く、小さな船体だ。
一撃で、沈むかとも思われた。
しかし一番早く船底へ食らい付こうとした首は、一つの軌跡が走ると同時に天高く切り飛ばされ、空を舞う。
噴き上がる鮮血の合間から、息をつく間もなく銀色の閃きが飛び、途切れることなく首を狩り落とす。
いとも容易く切り飛ばされたそれらは、瞬く間に海面を赤く染め上げ――
そして順次、切り口から再び新たな首を生やした。
「げっ! あ、あれさ……大海蛇じゃない? しかも再生能力を残した原種……」
「煩いよ、蛆虫。口を利く暇があるなら結界を張り直したらどう?」
「……うわぁ、寝起きで機嫌が最底辺とか」
「序にお前の首も狩る?」
「……」
寝静まっていたかのように思われた船舶から響くのは、一組の声。
一方は疲れ切った様子で結界の貼り直しに掛かる栗毛の魔術師。そしてもう一方は――
不機嫌この上ない様子で、刃に付いた鮮血を振り落とす美貌の青年だ。
ブロンドは月明かりの下で淡く輝き、緋葵の双眸は眇められている。
その身一つ、まさに天上の美を体現しているとすら称される今代の勇者――アルヴィン・フォーゲルクロウ。
嘗てよりもずっと美しく整ったその面差しを目にして、大海蛇の背中から再生した首の一つへと軽々と跳躍し、抑えきれない笑声を響かせる一人の少年。
彼の髪はまるで一度も鋏を入れたことが無いように長く、腰を超えて伸びた艶やかな黒紫。無造作に編まれたそれが、まるで獣の尻尾のように背中で揺れている。
葵色の目は輝きを灯しながらも、その奥には隠し切れない歪みが渦巻き、直視することさえ躊躇われるような仄暗い薄闇の色が覗いていた。
少年は軽く片手を上げ、何の気負いもないと言わんばかりに第一声をこう放つ。
「久しぶりだね、兄さま。とても会いたかったよ」
微笑んだ面差しは、色彩は違えど非常に似通っていた。
周囲を惹きつけてやまない傾城の美貌。
同じ血を引いていることの、何よりの証。
微かに見開かれた緋葵を確認し、その微笑みは一層深まった。まるで魂を無理やり詰め込まれた人形が、ヒトの笑みを真似たならそうなるであろうと思われるような、造り物の笑みだ。
それは喜びも、慈しみも――人間らしい暖かな感情全てを――すでに喰われて残っていない少年が浮かべられる唯一と言っていい表情だった。
朱金の月を背に、宵の海上で再会を果たした嘗ての『兄』と『弟』。
未だ沈黙を選ぶ兄を見下ろし、一言の警告もなく襲撃を仕掛けた弟は、見る者によっては背筋を凍らせそうな酷く無邪気な顔で首を傾げてみせる。
「兄さま、もしかして僕のことを忘れてしまった?」
笑顔のままで問う口調は、どこまでも朗らかだ。
一方眇めた目で『弟』を見上げたままの『兄』はここに来てようやく、声を発した。
「お前は、誰だ」
「……わー、ひどいなぁ、本当に忘れてしまったの? こんな薄情な兄を持った僕はこの世界で何番目くらいに不幸かな?」
大海蛇の頭部に座り、クスクスと笑み零す少年へ酷く冷めた眼差しを向けたアルヴィンは下げていた刃を緩慢な動作で掲げ、
「弟は、とうの昔に死んだ」
端的に、そう言い放った。
首を傾げたままその言葉を受けた少年は笑声を止め、静かな声で呟く。
「死んだ? ううん、兄さまが僕を一度殺したんだ」
「……」
「そんな怖い顔しないで兄さま。もちろん分かっているよ? 兄さまも好きで僕を殺した訳じゃない。母さまの命を守ろうとして、天秤に掛けただけだよね?」
「……黙れ」
「ふふ。相変わらず兄さまは我儘だなぁ。これまでずっと容認し続けてきてあげたのは僕なのに。……いい加減、僕だって自由になりたかったんだよ? それなのに、いつまでたっても兄さまは僕を迎えに来てくれない。だから僕はもう兄さまに期待するのを止めて、一人でこの世界に戻って来た。ねぇ、僕が兄さまに黙る義理はないと思わない?」
「これ以上口を利くようなら、喉笛を掻き切る」
「怖い怖い。昔の兄さまはもう少し心が広かったと思ったけどなぁ……。ま、いいか」
変わらないものなんて、この世界には一つもないよね。
そう呟いた少年はくるりと身を翻して帆先へと飛び移り、さながら猫のような柔軟性でひらりひらりと刃を交わしつつ、曲芸じみた動きを披露した。
「ちょっ、ルヴィ?! 仮にも弟だと言ってるけど、本当に殺す気?!」
「煩い、蛆虫。庇う気ならお前ごと切るけど?」
「……えー」
「……ちっ、幻術も混じらせてるな。羽虫が」
「仮にも弟を羽虫呼ばわり?!」
合間合間に魔術師――カルディアの声を挟みつつ、それでも太刀筋に迷いは見えない。
つまり躊躇なく殺しにかかっている。
密かに船倉の陰から攻防を見守る二人――ヒルトとユギたちの意見もこの点では一致していた。
「夜半の襲撃とは、なかなか躊躇いのないお子様だよねぇー」
「兄弟と言うだけあって、確かに顔貌は似通っているようだ」
「うんうん。色味に違いはあるけど、気持ち悪いくらいそっくり。納得だねぇ」
「……あの弟、只者じゃないな。お前ですら傷だらけになる太刀筋を全部交わしているぞ」
「素人の動きじゃないね」
「この馬鹿、目を輝かせてる場合か……」
大海蛇の頭部が空を舞ったあたりから、身を潜めて状況を窺っていたヒルトとユギの二人。
次第に激しさを増す『兄弟喧嘩(仮)』を横目に、ヒルトは「退屈だなー」とぼやきながら寝そべり、ユギは例の如く頭を抱えていた。
彼らが会話を継続している合間も、兄弟喧嘩(仮)の勢いは一時も弱まることなく続いている。
焼け爛れた大海蛇の首は四つ。修復した首が三つ。
船体には、少なくない数の傷。
互いに怪我こそ無いものの、肉の焦げついたような臭いが辺り一面に漂っていた。
「あー、楽しい。久々に外に出て、軽く王都も破壊して、ほんの少しだけスッキリしたけど、やっぱり兄さまに遊んでもらうのが一番楽しいな。ね、兄さま?」
「煩い。黙れ。消えろ」
「わー、想像はしてたけどひどい言い草。良いのかなぁ?」
とん、と船のマストを蹴って船上から再び大海蛇の頭部へと舞い戻る少年。
束の間止んだ、銀の軌跡。
まるでそれを図っていたように、にこりと笑って言う。
「ね、兄さま? 王都の偉い人から聞いたんだけど、今兄さまはある人を追いかけてる最中なんだって?」
答えの代わりに、翻った刃。
軌跡は今までで一番鋭く、容赦なく少年の白い頬を抉った。
けれども当の本人は、滴る赤を気にした素振りもなく、笑みを深めていく。
それが初めて造り物ではなく本物だと、その場にいる誰もが分かったのは――
「分かりやすくなったね、兄さま? それとも僕が成長したのかな? まぁ、どっちでも良いか。大事なのは今、兄さまの大切にしているものは何かって事だもの」
理屈ではない。
それは、ありとあらゆる感情を削ぎ落とした後に残る上澄みのような艶笑。
嬉しくて嬉しくて堪らないと言わんばかりの、純真な悪意。
「なら、決まり」と小さく零した声に、緋葵の双眸が訝し気に向けられた刹那。
その宣言は、真っ向から地雷を踏み抜いた。
「兄さまが追っている大切なヒトを僕が殺すか奪うかしたら、兄さまはきっと絶望してくれるよね?」
言い終りを待たずに、視界を染める白。
耳をつんざく様な、轟音と熱。
一気に放散された真白の焔が瞬く間に海を干し、空白の後には、まるで境界線を引かれたような信じがたい光景が眼前に展開されていた。
三重に結界を張り巡らせていたカルディアは、茫然と、熱量によって抉られた海を見る。
ヒトならざる幼馴染の異常性を十分すぎるほど知って尚、思わずついて出た言葉はまさに素だ。
「……おいおい、何だこれ」
視線を横に滑らせれば、四方に浮かび上がる白き焔に照らされるようにして立つアルヴィンの横顔が見えた。
その表情に、思わず続く言葉を飲み込んで沈黙を選んだのは賢明だっただろう。
何か一言でも余分に呟いていたら、まず間違いなく、その憤怒に巻き込まれて死んでいた。
推測よりも確信に近い思いを抱きながら、カルディアは同時にもう一つの戦慄すべき事実にも気付いている。
普通に考えれば、爆死。けれども未だに収まらない殺意。
つまり、残された答えは一つ。
――あの『弟』を名乗る少年は、ルヴィの攻撃を躱して生き延びたということだ。
夜が朝へと移り変わる、淡いの刻。
これから先のことを思うと、頭痛は留まるところを知らない。
ルヴィだけでも手に余るだろうに、もう一人の追走者を抱えるなんてどこまで運に見放されているんだろう彼女は。
栗毛の魔術師はもう何度目になるかも分からない同情と憐憫を幼馴染である少女に傾けつつ、明けた空を仰ぎ、溜息を零した。




