*挿話 樹海より*
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まるで白糸のように細く、シトシトと降り続く雨が苔生した岩間を伝い落ちている。
見仰ぐ空は青く、ならばこの雨は通り雨であろうと判断した『彼』は再びその鈍色の双眸を閉じた。
――まぁそれも、騒々しい羽音が一つ落ちてくるまでの合間ではあったが。
『主様、主様。お手紙でございます』
「…………あと二日寝かせてくれ」
『ぬーしーさーまぁ!! 打ちますよ? ぐうたらも程々になさいませ!!』
「痛い痛い、お前の羽は地味に痛いんだ。あと、問い掛けに意味があったのか極めて疑問だ」
『お手紙です』
「それは聞いた」
やれやれと三日ぶりに半身を起こし、虚ろな目を瞬かせて起床する。
両翼を羽ばたかせながら木の洞へ止まった『彼』の使い魔――その姿は白くて大きな梟によく似ている――は嘆息しながら、嘴に咥えた羊皮紙を差し出した。
嫌々ながらも指先でそれを受け取った『彼』は、丸めてあったそれを膝の上に広げながら「豆茶をくれ」と一言。
その言葉を受け、ポンッと軽い音がしたかと思った時には既に、白い梟は人の姿に転じている。
年の頃で言えば、十二か三と言ったくらいの幼げな少女だ。髪は真白で、両方の目は黒檀のように黒い。
彼女は「豆茶ですね?」と確認を取りながら、慣れた様子で木の洞から外へと出た。一面苔生した森のその奥。ひっそりと作られた隠れ家は、遠目に見ても一本の大樹としか思えないだろう。
何層もの結界と目晦ましの魔法式。それらが無数に張り巡らされたこの場所はまさに『彼』にとっての隠棲の地そのものだ。
蔓を伝い、下の洞へ移動した彼女は防火の魔法式が施された一角で湯を沸かし、苦みの強い豆茶を淹れる。
最後の一滴まで淹れ終えたところへ角砂糖を2個投入。
十分に溶かしてグルグルとかき混ぜたカップを持ち、再び上へと上がった。
『主様、どうぞ』
「ん、すまん。とりあえずそこへ置いてくれ」
指を指された通り、寝床のすぐ傍らへとカップを置いた。
いつになく考え込む素振りの『彼』へ、彼の使い魔である彼女は首を傾げながら問う。
『お久しぶりのハイナス様よりのお手紙、嬉しくはないのですか?』
「内容が内容なだけに、素直に喜ぶ気持ちにはなれないな。もうあと五年くらいは、と見越していたんだが……思った以上に経過が早い。手を打つにしても、一度あの子の意思を確認しなければ何ともなるまい」
『あの子……つまりルーア様のご意思を確認されるのですか?』
「ルーアは出自が特異なだけに、色々と聡すぎるきらいがある。放っておけばどこまでも一人で抱えむことを躊躇わんよ」
何かに思いを馳せるように、暫し虚空へと視線を泳がせていた『彼』は一際大きな溜息と共に、おもむろに手を伸ばし――程よく冷めた豆茶を啜る。
「もう少し、ここらでのんびりしていたかったが……こうなった以上は潔く諦めよう」
『どの辺が潔いのか、とっても理解に苦しみます』
「まぁ、そう言ってくれるな。……さて。あの子のベースなら海街から樹海まで精々5日、といったところか。それまでにエレメルにも連絡を取っておくか」
『エレメル様にですか?』
ぐるりと一周、首を回して問うてくる己の使い魔へ『彼』は苦笑しながら言った。
「その絵面は若干ホラーだから控えるように、そう前にも言わなかったか?」
『あぅ、失念しておりました。……申し訳ありません』
「まぁ、もともとの性が梟だから仕方ない部分ではある。私の前だけならば良いが、他ではくれぐれも忘れてくれるなよ?」
『承知しております!』
ズルズルと残りのお茶を飲み干して、カップをそこら辺の木の枝に引っ掻けるや否や、猛然と背後の棚を漁り始める『彼』の様子に使い魔である彼女は驚きすらしない。
つまり日常の光景であった。
『主様、ルーア様が来られるということは、やっぱりルヴィ君も一緒ですか?』
「前々から思ってはいたが、お前は何故ルーアの方にだけ敬称を付ける? 何か理由があるのか?」
『……何となくですよ』
「ふむ、極めてイイ笑顔だな。分かった。深くは追及しないでおこう」
おそらく羽を根こそぎ毟りかけられた過去でもあるのだろう、と。そう内心で当たりを付けた『彼』。
手を休めず、そのまま返答した。
「ルヴィは追走に回ったらしい。当初の想定通りだ」
『そうなると、ルーア様はやはりこちらの大陸で決着をつけるおつもりなのですね』
「ふむ……実際そうなるかどうかは現時点で未知数だな。美味い具合に『始原の炎燈』全てを収集出来たとしても、問題は寧ろその後だ。ルヴィが黙って見ている筈がない上、獣性だけのあの子は魔法式を使えない」
『では、発動さえどうにかできれば、後はルーア様ご自身の望まれた通りに?』
「……まぁ、そうなるな。とは言え、発動には膨大な魔力とそれを扱えるだけの技量が必須だぞ? 万一暴発でもすれば、最悪この大陸自体が吹っ飛びかねまいよ」
『吹っ飛ぶ?!』
「理解したか? それだけあの子たちの扱いは難しいということだ」
『……はい』
本能的な畏怖からか、体積が若干膨張して見える使い魔の頭をポンポンと撫でながら『彼』は苦笑した。
「そう怖がる必要もない。ルヴィは兎も角、ルーアは存外良識的な子だ」
『そこは十分承知しております!』
「ならば良し。明日からは準備の為に色々と飛び回ってもらうことになるだろう。今日の内に十分羽を休ませておくように」
『承知しました。……ですが、エレメル様の所以外にも連絡を取られるのですか?』
「やむを得まい」
西日の差し込み始めた木の洞の中、ようやく目当てのものを見つけて立ち上がる『彼』。
嘗て戦友と呼んだモノたちの内、すでに一人は亡くして久しい。
残るは、自分を含めて僅かに四人。開国の傑物五人などと称された黒歴史を引き摺りながら、それでも今日まで生き続けている理由。
それは只ひたすらに、見届けたいからだ。
「ふむ、エレメルとクラディーの足取りは何とか追えるな。リディアラの協力は……端から考えるのも馬鹿馬鹿しい話か」
『クラディー様もこちらの大陸にいらっしゃったのですね……』
「そうらしいな。どうせ彼奴のことだから砂漠あたりをうろうろしているのだろう。好都合だ。おそらくルーアも砂漠を通るだろうし、連絡を取って樹海まで案内させよう」
『嘗てのお仲間に対する発言とは思えませんね……』
クラディー・ヴェルツハイン。言わずと知れた開国の傑物の一人にして吸血種族の始祖である。
その性質は禍々しい逸話を各地に残す吸血種の生みの親とは到底思えぬほど、繊細かつ気弱だ。
しかしその事実は、実のところあまり知られていない。
「……言われてみればそうか。だが、彼奴自身は割合に意志薄弱な面もあるからな。指図を受けると寧ろ嬉しそうにしていたものだが、やはり態度を改めるべきだと思うか?」
『いえ、ご本人がそれで良いなら宜しいかと』
「そうか」
薄らと微笑み、長身ながらも目立つ猫背をぐーっと伸ばした男――モナリス・パク・マザール。
今の『彼』は印象の掴みにくい、どこにでもいそうな青年の姿形をとっている。
『軍神』ハイナスの師に当たる人物にして、年齢不詳。開国の傑物五人の内、一柱に数えられる正真正銘の大魔導士。
殊更、彼が秀でているのが『変化』の魔法式であるとされている。
骨格、体形、色彩、美醜、年齢、種族、基本的には何でもござれ。彼が人間を逸脱しているとされる一番の所以がここにある。
容貌を自由に変化させることが出来る為、時に子供、時に老人、時に青年と様々な姿形でモナリスは各地に出没することが常であり、一目で正体を見破ることが出来る者は限られている為、自ら名乗らない限りは周知されることもない。
例外は嘗ての戦友たちを除けば、弟子筋のハイナス、カルーア、アルヴィンの三名のみ。詰まるところ、彼の本来の容貌を知る者は彼自身をおいて他にいない。
そんな彼について、知られていることはごく僅かだ。
他の魔術師を統べるだけの力を十二分に持ち得るものの、生来の性質が風来坊である為に一つ処に留まることがない(そしてそれは弟子のハイナスにも受け継がれている)こと。
基本スタンスとして女子供には甘いが、同性には全くと言っていいほど関心を持たない。あるいは冷淡。辛口であること等々。
そんな彼が世俗より身を隠すこと、数十年の歳月が流れた今現在。
消息不明、場合によっては既にその生涯を終えているのではないかと実しやかに囁かれる一方で、当の本人は気ままな隠居生活を送っていた。
黎明の大陸、その南端にあたる『虫穴の樹海』。
虫穴と呼ばれる通り、この樹海は魔虫たちの巣窟である。故に、並の人間では踏破は不可能。
そんな辺境の奥の辺境にて、一羽の使い魔との平穏なその日暮らしである。
世辞にも楽しいことばかりではない。事実、血と火炎と悲嘆ばかりの――細切れになった大戦の記憶を緩やかに忘却しながら、精神を保つことだけでも数年を費やした。
本来定められていた筈の寿命など、とうの昔に過ぎている。
ただ、抜け殻のようになりながらも、モナリスは生きると決めていた。
――国を創ろう。今までよりも優しく、出来得る限り平穏で幸せな、種族の差のない、美しい国を。
嘗て、そんな夢見がちな思想の下に、集った五人がいた。
その五人の戦友のうち一人は心を壊して因果に飲まれ、他の四人がどれほど力を尽くしても救うことは叶わず、止むなく残るメンバー全員で討った。
『彼』の死をきっかけに、心を壊したリディアラ。彼女は辛うじて因果に飲まれずに済んだものの、戦友たちとの決別を選び、王国の聖女となった。
クラディーは続く悲劇に耐え切れず、精神を守るために自らに封印の魔法式を掛けて長い眠りについた。
エレメルは沈黙を選び、己が故郷へと帰還した。
ただ一人残ったモナリスは、数年を墓守として過ごすことを決めた。
灰色の墓石を前に何年も、彼は『因果』について考え続けた。
ついぞ答えは出なかったが、後に諸国を巡り、繰り返し起きる戦火の最中に弟子を拾ったり、辺境に籠ったり、名も知らぬ人々と交流したり、焼けた大地に緑を戻したり――嘗て、戦友たちが其々に語った『したいこと』をして回った。
自己満足と分っていても、そうせずにはいられなかったからだ。
「この戦いが終われば、きっとこの大陸は前よりもずっと穏やかな土地になる。そこで自分の子供を育てながら、少しだけ口うるさくて、でも大陸一奇麗な奥さんと貧しくても温かい家族を作る。それが俺の夢」
「都も街も騒がしすぎて落ち着かないの。ですから、どこか静かな土地で愛する人と家族を作って、出来れば同じ歳月を生きて、そうして…………共に死にたい。それが私のささやかな望みですわ」
「ぼ、僕は……きっと叶わないだろうけど、いろんな人と話したり、笑ったり、美味しいものを同じテーブルで囲んだり、それから……友達になれればいいな。うん、きっとそれだけで僕は幸せだよ」
「……この大陸は続く戦火ですっかり焼け焦げてしまいましたから。出来れば、焼き払ってしまった分だけでも緑を戻してあげたいとは思います。まぁ、本音を言えばどちらでも構わないのですけど」
自分が何を言ったのかは、もう覚えてすらいない。
三人が人間、二人がそれぞれ異なる種族で集った小規模パーティだ。毎日誰かしらが小さな喧嘩をしていて、お世辞にも仲が良いとは言えなかった。
リディアラは究極の料理下手、クラディーは大体の場合泣いていて、エレメルはそんなクラディーを愛でていた。
自分と『彼』は、大抵そんな『彼ら』を呆れながら見守る側だったと記憶している。
大層な目標を掲げている割に、その道行はかなり自由気儘。
基本的には弱者の味方を謳いつつも、行く先を決める時は多数決。
それも大まかに暑さや寒さ、美味いものが有る無しでコロコロと変動した。
それでも各地を回っている内に、いつしか『暁の五英雄』などと呼ばれるようになっていった。
当時、その二つ名を知った自分は、まず外套をより深く被れるものに買い替えた。何故? そんなことは言うまでもない。
昔から、ずっとずっと人の視線が嫌いだった。正直、敵意も好意も全て同じに見える。
そんな内心を吐露したのは、後にも先にも彼ら――『戦友』だけだ。
個性があり過ぎる上に、それぞれがそれなりに強大な力の持ち主で構成された名もなきパーティであったが、それを繋ぎ止めていたのは一人の青年。
何と言うか、正直な話、変わり者だった。
メンバーの中では最弱ながら、その意思の強さは誰をも圧倒した。事実、彼が「やる」と言ったことは必ず果たされて来たのだ。
幾度反対しようと、最後は全員が折れる羽目になる一連の過程。
運命の女神に愛されていると言っても過言ではないほど、彼の周りには様々な厄介事が付いて回った。
今になって思えば、あれは一種の呪いにも近い『因果』だ。
止むを得ず対処するたびに、なし崩し的に高まる一方の名声と幾多の勘違い。
その結果、彼を除くメンバー全員からの深い溜息を聞くのが恒例行事となり果てた。
当人は「何で俺がリーダーなの?」と週末になる度に首を傾げていたが、どう大目に見ても凡人ではない『彼』をリーダーに据えることに反対する者などいなかった。
そんな彼は、メンバー全員の様子を遠目に見守りながら「よしよし、今日も元気だな」と真顔で頷いているような奇特な人物であり、時の王家の血筋を引いているとは思えないほど良く言えば大らかで、まるで太陽のように快活に笑う青年だった。
特技は釣り。水辺に差し掛かる度に幾日も滞在する為、あの頃の食事は大抵が魚メインだった。王族の癖に料理が妙に上手く、そのことでよくリディアラと言い合う姿が見られた。
偶にリディアラが意地を張って夕食の準備をすると、翌朝は食べた全員が腹を下した。もはや毒だった。
そんな時ですら、落ち込むリディアラの頭を撫でて慰める度量があった。
武芸は程々。基本的な性格は温厚で、相貌は大目に見ても中の上と言った風情の優男。
表層は楽観的に見せながら、いつも内面に悲壮を押し込めているような面倒臭い人間味もあり。
幾度も理想主義者と罵られ、時に血を流し、守った者に刃を向けられながら、それでも俺は夢を捨てないと言い切るだけの純粋な強さがあった。
そして、
最期の時には、「ごめんな」と言って泣きながらメンバー全員の頭を撫でるような馬鹿だった。
誰よりも大陸を平和にすることを願いながら、その為に自らの命を絶った。
狂いながら、それでも自分が消えることを選択した。
あの時のことを思い返す度に、思う。
この世界では、善いモノから順に死んでいくのだろうなぁ、と。
どれほど記憶が摩耗しようと、失われずに残る声と想いが最後の最後でいつだって繋ぎ止めてくる。
例え、もう二度と全員揃って会うことが出来ないと分かっていてもだ。
てん、てん、てんと雨季の波紋が森全体を揺らす光景を見仰ぎながらモナリスは小さく呟く。
「……二度目は無いぞ、くそったれ因果め」
――今までも、十分すぎるほど奪われ続けてきた。もう、大切なものを失うのはまっぴらだ。許容など出来る筈がない。
その重い腰を上げ、久方ぶりに顔を合わせることになるであろう養い子のことを思う。
無意識が面差しを『彼』と被らせる度、首を振って否定する。
お願いだからあれと同じ最期を迎えてくれるなと、気付けば幾度となく呟いているのだから笑えない。
『主様は身内にはとことん甘いですよね』
「自覚はしている。悪いのか?」
『いいえ、素敵なことだと思います』
「そうか」
モナリスは暮れゆく樹海を横目に、淡く笑う。
生き永らえることそのものが億劫な在り方を少しだけ脇に置き、一人の少女の為に長い眠りに終止符を打った嘗ての一つ柱。
時に、五英雄の一人として生き。
時に、喪った仲間のために墓守として過ごすことを決意し。
長い歳月の中で、『因果』を呪い続けた一人の男。
「頼むから、生き急いでくれるなよ」
祈る様に、呟いた。




