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勇者の最愛はこの大陸に見切りを付けました  作者: 因果論
旧大陸編*新章*
38/51

少女は孤島を散策する*後篇・破*

 *



「……あれ、まだ生きていると思うか?」

「それほど猶予がある訳でもないようですが、生きてますね。やはり水糸の守に連なるモノとなれば、それなりに頑丈なのでしょう」


 すん、と一息。鼻を利かせただけで『生きている』と断言する商人殿へ、やや胡乱気な視線を送った少女。

 あらためて視線を下ろし、一見しただけならほぼ即死と当たりを付けられそうな惨状を見直してみる。

 ごつごつとした灰色の岩場。その上に横たわる小柄な肢体と、その背中から四方へ広がる真紅。

 じっと目を凝らせば、ほんの微かではあったが胸の上下が確認できた。

 うん、確かに生きている。


「どうやって下まで降りるのが良いと思う?」

「そうですねぇ……一番常識的な案としてはロープを垂らす、というのが望ましいでしょう。でも生憎と今は持ち合わせがありませんね」


 到着早々、炎狐の案内のままに崖下を覗き込んだと思えば、普段と変わらぬこの調子。改めて言うのも何だが、色々と泰然とし過ぎているように思うよ。

 とはいえ、こうした緊急時に限って言えば頼もしいことこの上ない。


「ロープがないなら、岩場を直接伝うか?」

「……いえ、この高さですから。やはりロープはあった方が良いでしょう」

「となれば、即席で間に合わせるしかないか」

「そうなりますね」


 背後を落ち着きなくウロウロと歩き回る炎狐と、宥めすかして腕を離れた灰色のモコモコ一羽。

 それぞれ色彩の全く異なる双眸に見守られながら、商人殿と手分けして蔓を編む。

 幸いにも土地柄か、木々と藪の合間に幾重にも垂れ下がる蔓葡萄(アーチグレイ)を崖に来るまでの道半ばに見つけていたのが役立った。


「やっぱりこういう場面では、経験がものを言うな」

「ちなみにそれは、具体的にどんな?」

「樹上で野営をする時の命綱だ。これまで何度編まされたか分からない」

「……なるほど樹上ですか。その経験は今回ばかりではなく、貴女の選ぶ道筋によっては今後も役立つ経験になるでしょうね」

「どういう意味だ?」


 黙々と少女が手の中で量産し続ける荒縄(ロープ)は、いつしか周囲の茂みでシューシューと声を潜める蛇たちの全部を結んでも足らないだろうと思わせるほどに長々と、その膝の上でとぐろを巻いている。

 並みの集中力では、到底真似出来まい。

 ヒトならざる怪力に隠れて普段は見えてこない、少女の意外な特技。繊細で迷いのない指先。

 商人は状況が状況であるだけに表情にこそ表さなかったが、内心でひっそりと思った。

 ――こういう落差(ギャップ)にやられる男もけして少なくはないのだろうな、と。


「おーい? 聞こえてるか」

「ふふ、まぁ焦らずに。お楽しみを後に取っておくのも、時には乙なものですから」

「……一体誰の受け売りだ」

「機会があればお話しします」


 にこり、と笑う商人と。

 はぁー、と大きく溜息を零して、やれやれと伸びをしながら立ち上がる少女。

 その両者の間には、この短時間の間で編み上げられた蔓葡萄のロープの山。その二山の端と端を結び、十分に強度を確かめた少女はグルグルと腰に無造作に巻くやいなや。


「じゃあ、一足先に」


 そう言って、たん、と。事もなげに崖から下へと身を躍らせた。

 その迷いの無さはまるで『以前にも同じように』崖を蹴った経験があるかのようで。

 呆れよりも先に、商人はなんだか納得してしまう。

 彼女なら或いはそういうこともあるだろう、と。


「……それにしても、信頼されたものです」


 何も余計なことを言わず、ロープの端をこちら側に無造作に放りだしたまま飛び降りた少女。その向こう見ずというか、まぁ何とも豪儀な姿勢は到底自分にはまねできないもので。

 だからこそ、魅かれてやまない。

 久方ぶりに胸が疼く。見届けなければ絶対に後悔すると、己が胸の内が叫ぶのだ。


 一時たりとも目を離せば、その間に『彼女』はまだ見ぬその先、大陸の果てまでも行ってしまうだろう。


「そんな勿体ないことは、仮にも商人の端くれとして看過できるものではありませんから」


 その口許は、いつしか自然に綻んでいた。



 *



「あ、掴んでいてくれと言い置くの忘れたな」

『呆れるの。でも、どうやらあれは貴女よりも冷静なの』


 ふわり、と迷うことなく元の位置――少女の腕の中――へと追いついてきた灰色のモコモコに少女は少しだけ瞬いた。

 そして次の瞬間には、困った様子で苦笑を返す。


「上で待っていても良かったのに」

『冗談でも笑えないの』

「割りとシャイだもんなぁ」

『煩いの。さっさと治療を始めるの』


 はいはい、と言葉を返して歩み寄った先には辛うじて命を繋いでいる少年が一人。

 何がどうしてこうなったものか。やれやれ、と溜息混じりに膝を付き、体表をざっと見る。

 深い裂傷は三か所。その他にも内臓を損傷しているであろうことはすぐに分かる。


「どうですか?」

「思ったよりも、ぎりぎりだな。正直、本職を連れてきて良かった」


 上からの商人の問いに対し、少女は正直なところを伝えた。

 危なげもなく即席の縄を伝い、すぐ傍に降り立った商人は嬉しそうに笑って言う。


「そう言っていただけて、良かった」


 崖の半ば、奇跡的に谷底まで堕ちずに済んだ幸運はどれほどのものだろうか。

 しかしながら、治療の場として最良とは呼べない岩場である。少女と商人は顔を見合わせ、無言の内に頷き合った。

 止むを得ない。動かせば、恐らく体力が先に尽きる。


『……仕方ないの。今回は貸しなの』


 そんな二人の顔色を密かに窺っていたらしい一羽。その呟きが耳朶を揺らすと同時に、ボフン。と。

 何やらとても気の抜ける音と共に膨張したのは灰色のモコモコだった。

 双翼を広げ、崖の半ばを吹き荒ぶ風から彼らを覆うようにして鎮座するその姿はまるで――


「雛鳥を守る親鳥のようだな」

『気が変わらない内に、さっさと治療に励むの』


 いつになく頼もしげな淡黄色に無言で頷き返し、再び目の前の血塗れの少年に向き合う少女。

 今まで見たことがないほど研ぎ澄まされた商人の集中力を切らさぬよう、補助に回った。

 はっきり言って、その方が目の前の少年を救える確率が上がるからだ。


 そう言い切るのにも、訳がある。


 商人殿の治癒術師としての技術は想定のそれを上回った。

 医療解析の速度も然ることながら、一切の無駄を感じさせぬ手腕と、精緻な魔力操作。

 岩場に着くや否や、血塗れの身体のそこかしこに浮かび上がった治癒の魔法式。その発動速度と正確さ。

 正直、これには舌を巻いた。

 こう言っては何だが、生半なことではほぼ驚かない自分が驚いて目を丸くしたほどだ。

 ここまで腕の良い治癒術師はそうそういない。

 今までに知る魔術師の中でも、殊医療術だけに絞って言えば、おそらくダントツだろう。師匠は勿論、もしかしたらモナリスのお爺様すら凌ぐかもしれない。


 本当に人間なんだろうか、この人。

 そんな疑惑がムクムクと湧き上がる今時分。とはいえ、優先順位を履き違えてはいけない。


「どうだ?」

「……正直、もう少し早く到着できていればと思わざるを得ません」


 これほどの商人殿の医療術を以てしても、引き戻すのにあと僅か足らないのだ。

 これが天命か、と思わず見上げた先に不安げにこちらを見下ろす炎狐の双眸と見合う。その滲むような色彩に、両者の縁がどのようなものかが言葉を介さずとも伝わってくる。

 ……出来るものなら、やはり救いたいな。

 広がる血だまりに膝を付いたまま、少女は確かにそう思った。


 弱まっていく、呼吸。

 血色が薄れ、指先から少しずつ零れ落ちていく、命の温度。

 少年の身体に浮かぶ魔法式が少しずつその明りを弱めていく様は、まるで蛍火のようで。


 少女は静かに瞑目し、きりきりと歯を食いしばる。

 ここまで来たら、たとえ気休めであってもあるだけのモノは出しておこう。

 最後の最後に、何が命を繋ぐのか。それはまさに神のみぞ知ることで、抗う側はただ足掻くのみだ。

 携帯していた血止めの薬草を傍らに並べ、他に何か役立ちそうなものは……と、上着のポケットを探る指にコツン、と触れた固いモノ。

 指先で引っ張り出してみれば、小さな携帯用の硝子瓶だった。

 中にほんの数滴だけ残る、紫色の液体。一般には『女神(ルイゼ・)恩寵(ラリア)』と呼ばれる蘇生薬の一種だったりもする。


「……これもまた、天命の内に入るのか?」


 げに恐るべきは、ポツリと少女が零した囁きを、零さずに拾い上げる商人の聴力であろう。


「……全く。貴女には驚かされてばかりですよ」

「あとは任せた、治癒術師殿」


 かつて、その霊験をして『竜の涙』以上に多くの血を流してきたであろう霊薬の一つ。

 それを事もなげにポケットから探り当てたかと思えば「手当たり次第に詰め込んできたもんなぁ……」という意味深な呟きを挟み、ほいと手渡す少女。

 その迷いのなさに、商人はあえて溜息を隠さない。


「さすがの私も、このレベルの霊薬を治療に用いた経験はありません」

「記念すべき第一号だな」


 いよいよ切迫してきた命の弱まりを前に、商人は震えを辛うじて抑え、瓶から霊薬を掬い取る。

 透き通った薄紫の二滴が、あらかじめ展開されていた魔法式を介して少年の身体に吸い込まれた刹那。


 ドクン、と波紋を広げた魔法式に発動者自身――商人の双眸が見開かれる。

 傍らでそれを見守っていた少女の目を通しても、その効能は速やかに発現されたようだった。

 駆け巡る紫の軌跡によって、弱まっていた鼓動が見る見るうちに力強さを増していく。

 裂傷は内側から整復されていき、真白だった肌の血色が赤みを帯び、僅かに上下していたばかりだった胸が大きく息を吸い、吐き出される。

 その効能をして、まさに蘇生薬の名に違わぬ効き目であった。


「……呆れるほどの効能ですね」

「まぁ、これはあれだ。……ほら、備えあれば患いなしというだろう?」


 深い溜息と共に顔を覆ってしまった商人殿の表情は見えない。見えないが、何となく伝わるものはあった。

 少女が密かに冷や汗を伝わせるそのすぐ横で、シューとまたもや気の抜ける音が響いたかと思えば片方の肩に乗る重みが一つ。


『細かいことはともかく、助かったの?』

「……多分ね」


 そう、この場において大切なのは命が一つ助かったというその一点に集約されるべきなのだ。

 細かいことはさて置き、少女はやや強引に思考を切り替える。

 未だに崖の上からこちらを見下ろしていた炎狐に向かい、出来るだけ大きく手を振って無事を伝えた。


「おーい。もう大丈夫だよー!」

『!!!』


 うんうん、言葉を介さずとも何となく伝わったな。

 そんな少女の内心を読んだ訳ではないのだろうが、このタイミングで思いがけない光景を目にする事となる。


 ――それは幾らか、唐突に始まった。

 炎狐が煌々と輝き始め、その輪郭を曖昧にしたと思った時には既に変化を終えている。

 なるほど、上位種魔獣と呼ばれるわけだと少女は心の底から納得した。

 はらはらと藍色の双眸から零れる涙が頬を伝い、腰まであろうかというほど長い緋色混じりの白銀の髪は陽光を浴びて眩しいほど。

 全体に妖艶な雰囲気を纏う、長身の美女がそこにいた。


「驚いた、向こうの魔獣は人の形を取れるんだな」

「炎狐は上位種魔獣の中でも、殊更『変化』に優れた種族だと聞いています」


 少女が感心しながら呟く横で、いつの間にやら復調したらしい商人が解説を交えている。

 灰色のモコモコは少女の腕の中、薄らと開いた淡黄色の眼をどこか呆れた様子で『それ』に向けていた。


 彼女が船に乗った時点から気付いていて、あえて言葉にこそしていないこと。加えて、する必要もないと思っていること。

 それは偏に、その基本姿勢に触れていなければこそ、口にしないだけのことだったりもする。

 己が身に災いさえ及ばなければ、後はどうでも構わない。

 現女王竜(母竜)をして、次代の女王竜(娘竜)は歴代の内でも特に簡潔な性格をしていると言わしめた。悪く言えば冷淡、良く言えば明朗。

 そんな彼女ですらも、どの口がそれを言うのかと思うほどに歪んだ有様。

 当人がどこまで隠しきれていると自負しているのか分からない、紛れもない血の香り。


 ……いつも思うけど、この子の周りには碌なのが集まらないの。


 自分のことは棚に上げ、そんな独白を内心で呟いた次代の女王竜。

 疲れた体を休めるべく、小柄ながらも暖かなその懐へもぞもぞと頭を埋めてスヤスヤと眠り始めた。

 その姿は図らずも、先ほど少女が口にした言葉を真逆にしたようなものであったことを眠りについた彼女だけが知らない。


「ふふ。いつも思いますが、まるで雛鳥を抱く母鳥のようですね」

「……半ば押し付けられたような役回りなんだけどな」


 商人が微笑ましそうなものを見る目で言った言葉に、少女はやや半眼になって答える。

 あと何十年抱え続ければ良いものか、未だに怖くて当人……いや当竜に聞けずにいる現状を踏まえれば、なかなか難儀な旅路だったりもするのだ。

 飛竜。一応、あちらの大陸においては上位種魔獣に相当する古の生物なんだよなぁ……。

 仮に成獣したとして、どれくらいの大きさに育つのか……。やれやれ……。


「母竜はあのサイズだったからなぁ……」

「飛竜の成獣ですか?」

「正直、魔圧はそれなりのレベルに達してた。だから、こっちも船に乗って暇になった時に試しに計ってみたんだよな……」

「母竜の半分程度でしたか?」

「底が見えなかった」

「……は?」

「幼獣特有のものなのか、それともこれが特別なのか分からないけどな。要するに計りきれなかった」


 少女が溜息混じりにそう告げると、気のせいか商人の足が半歩くらい後方に修正された気がした。

 まぁ、たぶん気のせいだろう。

 この頃は特に疲れ目だ。向こうの大陸に着いたら一度、市場を回って目に良さそうな品を物色してみるのも良いかもしれない。

 ――やれやれ、こんなことなら蜂蜜ヶ(ハニー・ロップ)で眼精疲労に効くお茶を買い占めておくべきだったな。



 *



 太陽はちょうど、真上から少し西へ傾いたくらい。

 お昼ご飯には少し遅すぎるかもしれないが、午後のお茶代わりに蟹を食べに行こうと言ったら商人は苦笑しながらも賛同してくれた。

 心が広くて助かるよ。


「さてと、そんなこんなで蟹を食べに行くんだが……君たちも来るかい?」

「蟹、ですか?」

「命を救ってもらっておいてなんだけどさ、周りから変人って言われたこと無い?」


 こてん、と美女の姿をとった炎狐――名はリーゼと言うらしい――が首を傾げるのとほぼ同時。

 彼女の後方で半身を起こした少年は、淡緑の混じった氷色の髪を片手でかき上げながら忌憚のない意見を発してくる。

 目を覚ました時にようやく確認できた目の色は、鮮やかな金と翠。やや吊り目がちで、いわゆる猫目というやつだなぁ、と少女は内心で呟いたものだが。

 パッと見た感じの印象よりか、どうやらこの少年は気が強いらしかった。

 少し視線をずらせば、わたわたと慌てた様子の美女もとい炎狐のリーゼの表情が確認できる。


「カイル! このヒトたちは命の恩人! 失礼な口をきくの、駄目!」

「……それは聞いた。でも、なんの打算もなくヒトが命を助けると思ったら大間違いだろ。別に今更この身をどう利用されようとかまわないけど、リーゼを巻き込むなら話は別だ」

「カイル!!」


 一層、蒼褪めるリーゼと敵意の眼差しを隠さない『水糸の守』の血族にして、その末に当たるであろう少年カイル。

 交互に眺め、さてどうしたものかと視線を彷徨わせれば楽し気な様子を隠さない商人の視線と見合う。

 それは如実に『どうするのですか?』と言っていた。

 まるで他人事である。

 そんなものは、寧ろこちらが聞きたい。


「……あー、うん。何となく飲み込めた。じゃあ、ひとまずここでお別れという流れで双方問題ないね?」


 射貫く様な目を前にして、そこまで親睦を深めたいとは思わないのは至って当然。となれば、一応形式として誘いはしたものの『もういいかな?』という意味合いを込めて問う。

 何やら商人殿のいる方向から押し殺したような笑声が漏れ聞こえてくる気がするけど、一体どういう事なんだろうね。

 それに加えて、問いを向けた当人――カイル少年の目がより疑わし気に細められているのが非常に気になる。

 どうやらこの言葉選びは間違ったらしい。


「ま、待って! お礼しないと駄目! カイル!」

「……あんた、一体どういうつもりだ」


 もはや涙目のリーゼには申し訳ないと思わないでもないが、この場はもう離れるのが最善だろう。

 ダイレクトに刺さる敵意と疑念が地味に痛くて仕方ない。


「じゃあ、そういうことで」

「待て!!」


 待てと言われようと、待たないよ。何故って?

 こちらは少なくない魔力を消費している分、誤魔化せない空腹を速やかに蟹で補う必要があるのだ。

 未だに笑声を堪えているらしい商人を後方に、スルスルと縄を伝って崖の上に出る。


「あんた、明らかに聞こえているだろう!?」


 崖下から響く声にひらひらと手を振ってから、少女は同じく崖を上がってきた商人に手を貸して歩き始める。


「無視か!?」


 違うよ、少年。これは正しくは戦略撤退と言うんだよ。

 お互いの平穏の為に、時にはスルースキルを必要とされる昨今。冷たい? いやいや、世の中は時として荒波に例えられるぐらいだ。普通普通。


「……ふふ、いつになく淡々とした対応ではありませんか?」

「争い事は元より好まない。それに今は空腹を満たすのが最優先だからな」

「承知しました。ここからだとそうですね……北東の方角へ藪を抜けていけば最短距離かと」


「――店までは俺たちが連れていくから、話を聞いてくれ!!」


 頭上から降ってきた声と、すぐ目の前に着地した一人と一頭。

 なるほど流石の跳躍力だと少女は改めて炎狐を見上げ、一つだけ溜息を落とした。


「……少しは冷静になったらしいね? いいよ、提案に乗ろう。商人殿もそれでいいかい?」

「貴女の思うままに」


 くすくすと笑み零す商人はさておき、少女がこの時点で一番気に掛けていたこと。

 それは獣の姿に戻りながらも、安堵の涙を零すリーゼだった。これほどに表情豊かな魔獣も珍しい。


「じゃあ、リーゼ。背中に乗せてもらっても良いかな?」

『!!!』

「ちょっ、リーゼ。少し落ち着け。そんなに身体を前のめりにされたら俺が落ちる!」

「じゃあ、遠慮なく」

「では、私も失礼して」


 少年の背中から拳一個分空けて、少女は炎狐の背中に身を躍らせる。

 続いて商人が尻尾ぎりぎりに乗り、どうやら満員御礼状態だった。


「……今更だけど、重くないかこれ?」

「いや、多分大丈夫だ」


 少女が呟き、それに対してカイル少年が答えると同時にふわりと鳩尾に掛かる圧。

 思いっきり身を沈めた炎狐(リーゼ)は、蒼白になった少年の絶叫と共に見事な跳躍をみせ、森を一呼吸で飛び越えていた。

 うん。空が青い。


「リーゼェェエエエ!? 張り切るのも大概にしろよお前!!」

『!!』


 上空で冷静さを取り戻したらしいリーゼ。

 二、三度下降を繰り返して勢いを殺してから街を見下ろせる平原へと着地した彼女は、頭を抱えたカイル少年から無数の小言を貰って悄然とうなだれていた。

 一方の少女と商人。

 そろそろ空腹が限界を超えつつあった少女は無言でリーゼの背中を降り、蟹を目指して丘を降る。それに続く商人と共にお目当ての群青蟹(ラピス・クラウ)の専門店――『翠璧(セルタン)』の入り口のベルを鳴らした。


 それから数刻の後、目の覚めるような美女――勿論これはリーゼの変化形だ――を連れた氷色の髪の少年が同じベルを鳴らして入店し「何でいつも無視するんだ?!」と叫びながらテーブルへ突撃をかまして来たのは言うまでもない。


「やぁ、遅かったね。そろそろ群青蟹も良い色に茹で上がるところだよ。食べるかい?」

「食べるよ?!」


 半ば自棄になった面持ちで、差し出された蟹を頬張るカイル少年だった。というか君、改めて見ると見事に血塗れだな。遠目に見ると赤く染めた服に見えなくもないが、近づいてまじまじ見られたらアウトだ。通報されるぞ?

 すぐ横には未だに悄然とした様子のリーゼがしょんぼりとしたまま座っていて、彼女にも蟹を勧めると遠慮しながらもカプリと一口。そこから先は黙々と頬張っていた。

 まぁ、何と言うか似た者同士である。


「当初の予定とは少し違ったが……まぁ、これはこれで楽しいな」

「夕刻まではもう少し時間がありますから、市場の屋台を巡りがてら信頼のおける両替商を訪ねてみましょうか?」

「こちらから誘っておきながら、不可抗力とは言えグダグダになってしまって申し訳なかった」

「いえいえ。意図せず貴女に医療術を売り込む機会を得ることも出来ましたし、こちらとしては何も過不足はありませんよ?」

「……強かだね。さすがは商売人だ」

「お褒めに預かり、光栄です」


 蟹を食べ進める時ですら、この上なくスマートに見えるその所作に一抹の嫉妬すら覚える。同じ料理を食べている気がしないな。

 溜息と共に群青の殻を皿に置き、二つ目のハサミに取り掛かる少女。

 その真向かいで優雅に蟹味噌を掬い始める商人は、ひっそりと今後の計画に向けて思考を傾け始めていた。

 そんな彼らの横で黙々と蟹を頬張る少年一人と炎狐が一頭。

 混迷を極めつつも、それなりに平和な情景であった。

 ちなみに、この時には起き出せなかった灰色のモコモコが、後々恨みがましく少女に『四倍』を請求するのは当然の帰結である。

 その際に少女が用意しておいた『土産物』でご機嫌を宥めたのはまた別の話――。


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