少女は孤島を散策する*後篇・序*
*
乳白色の霧の中、ガサガサと茂みを走り抜けていく影が一つ。
深緑の茂みの中で、それはまるで放たれた炎矢の如き輪郭をしていた。
藪の中の蛇たちが『それ』に喰らい付こうとして無数に弧を描いたが、いずれも『それ』の毛皮に触れた途端に地面をのた打ち回り、バタバタと絶命していく。
――もうすぐ、もうすぐだ。海岸線まであと少し!
緋色の混じった銀の毛並みを逆立て、『それ』は脇目も振らずひたすらに丘を下る。
潮風の方向へと疾走していくその背を、水平線に顔を出したばかりの陽光が照らしていた。
*
「うーん、酢漬けは苦手かい?」
『……魚は生が一番おいしいの。許せるのは焼くまでなの』
「煮魚も美味しいと思うけどな……」
『百歩譲って許すの。でも酢漬けはないの。泣いちゃうの』
爽やかな朝日とともに起床し、腕の中から聞こえてくるお腹の虫に苦笑しながらの朝食時。
テーブルに並べられたメニューを目にした途端、眠り姫は死んだ魚の目になり、悲痛な訴えを上げ始めたのだ。
早い話が、昨日解体された青蛇巨魚と赤カプリスの酢漬けは彼女の好みには合わないらしい。
「やれやれ仕方ないな……少し時間をくれ。クイン君に頼んでみるから」
『約束なの』
「はいはい」
死んだ魚の如き目に見つめられながらの朝食は、さすがに勘弁願いたいところだ。
早々に白旗を掲げ、彼女の要望の為に席を立った。
幸いにもクイン少年を厨房の外に見つけ、速やかな相談に漕ぎ付ける。さすがに一日経っての生食は難しいという返答だったので、焼き魚にしてもらうことで合意。
まぁまぁ機嫌を直したらしい眠り姫を抱えて、テーブルへ帰還した。
「これでいいかな、眠り姫?」
『有難うなの。救われたの』
「それは何より」
それから暫くして、クイン少年がいつもの微笑みと共にテーブルまでやって来た。その手には焼きたての青蛇巨魚の一皿。
リクエストメニューという形で、特別に用意して貰ったものだ。
「我儘を聞いてもらって、済まないな」
「いいえ、とんでもありません! お客様一人一人の要望に耳を傾け、それぞれにとっての最高の一皿を提供することが料理人にとっての喜びですから。さあ、どうぞ。青蛇巨魚のバター焼きです。お口に合うといいんですが……」
ことり、とテーブルに置かれたバター焼きを目にした途端にパッチリと開いた淡黄色。
スンスンと香りを嗅いで、一言。
『素敵なの』
早く早くと言わんばかりの上目遣いに、やれやれと苦笑しながら切り分けて口に運ぶと黙々と平らげていく。
斜め上からその様子を見ているクイン少年は、大変嬉しそうだ。
「可愛いなぁ……」
思わず零れ出たらしい呟きを耳にして、少女は速やかに訂正する。
後々のことを考えれば、現実とは何たるかをその都度教えていくのが先達の役割というものだ。
「甘い。外見だけで判断すると、後で痛い目に合うのは自分だぞ?」
『煩いの。早く次を寄越せなの』
「はいはい」
『うーん。柔らかな白身と芳醇なバターのまろやかさが堪らない一品なの』
モコモコの声は周囲に伝わらない為、代弁をするのが自分の役目といって過言でない。
クイン少年に合間合間でモコモコからの感想を教えると「光栄です!」と顔を輝かせて一礼していた。
呆れるほどの純粋さだ。この先どれほど苦労するかを考えただけでも、つい遠くを見つめてしまう。
兄のエージル青年の今後の数年間が目に見えるようだ。南無。
『満腹なの』
一皿分のバター焼き全てを切り分けて、その全てを腹に収めた眠り姫。
空腹が満たされるなり、もう腕の中ですうすうと寝息を立て始めている。現金だな。
「ご馳走様。朝から助かったよ」
「いいえ。お役に立てて光栄です! カルーアさん、今日は街のほうへ散策に行かれますか?」
「んー、そうだな。折角だから一通りは歩いてみようと思っているよ」
そう言って頷けば、待っていましたと言わんばかりに身を乗り出してくるクイン少年。
その頬は薔薇色に染まり、見ようによっては恋する乙女が如き興奮度合い。これには流石にちょっと引く。
「でしたら、是非お薦めしておきたいお店が一軒あるんです!」
「……お薦めの店?」
「はい! 僕の遠縁が、この孤島近海のみでしか獲れない群青蟹の専門店を出しているんです。とても美味しいと評判なので、カルーアさんにも是非足を運んで頂きたくて!」
「そうか。なら案内役に頼んで、お昼にでも行ってみるかな」
「そう言って貰えて嬉しいです。お店は『翠璧』という看板で探してもらえればすぐ見つかると思いますから。楽しんできてくださいね! ではまた後ほど!」
晴れ晴れとした笑顔を残し、厨房へ戻っていったクイン少年。
やや遅れて料理人兄弟の「すぐ戻って来いといったよな!」「痛いよ兄さん」の声が交互に聞こえてきた。
うん、今朝もいつも通りだ。
食後の黄穀茶を一口飲んで、一息ついたところに背後からコツコツと近づく靴音。
振り返る前に響くのは、すでに耳慣れた涼やかな声だ。
「――おはようございます」
「おはよう、商人殿。昨日はちゃんと眠れたかい?」
「はい。久々に熟睡できたので、今朝はとても心地よい目覚めでしたよ」
「それは良かった」
さらっと同じテーブルに着くなり、後光でも背負っているんではなかろうかと疑うほどの微笑みを向けられた。
これには正直辟易する。目を潰す気か、商売人よ。
無言かつ目力で「ほどほどにしろよ」と醸し出せば、くすりと笑って朝食のサラダを食べ始める。やれやれだ。
「船旅は苦手なのか?」
「……いいえ? どうしてですか」
「久々に熟睡できたと言っただろう。船の揺れが駄目なのかと思ってな」
「なるほど……そうですね。揺れは平気です。ただ食べ物が変わると体が慣れるまでに少し時間がかかるタイプでして。長期の船旅には向かないかもしれないですね」
「魚介嫌いか」
「まぁ、そんなところです」
丁寧な所作ながら、早いペースで食べ進める商人を横目にこれは切り出しにくくなったぞと溜息を一つ。
蟹も魚介だよな? ふむ、どうしたものか。
「ところで今日はどの辺りをご案内しましょうか? 希望があれば幾つでも仰って下さい」
「んー、そうだなぁ。島の特産は一通り押さえておきたいな。あと両替商がいればそろそろ貨幣を交換しておきたい」
旧大陸に着いてから貨幣交換をすると、万一後方から追う者がいた際、足取りを掴まれ易くなるからな。
未だに確信にこそ至っていないが、備えあれば憂いなしというだろう。
「分かりました。ちなみに食べたい物などはありますか?」
「そのことなんだが……さっき、クイン君から蟹を薦められてな」
「ふむ、蟹ですか……。そう言えば群青蟹が名物でしたね。この辺りで有名なのは『赤尾根』か『翠壁』でしょうか……」
「クイン君の遠縁が『翠壁』という店を開いているらしい」
「では、お昼はそこに行って群青蟹を食べましょう」
「いいのか? 苦手なんじゃ……」
「ふふ、それを気にして言い出しにくそうにしていたのですか? 貴女は可愛らしい人だ」
「揶揄わないでくれ」
心底嫌そうに少女が眉を寄せて睨むが、どこ吹く風といった商人は最後に残ったパンを一口で納めて席を立った。
食堂の窓から見る限り、浜にはまだ少し薄靄が残っている。早めの時間帯というのもあるだろうが、やはり狭霧と呼ばれるだけあって年間を通して島は霧に包まれることが多い。
「さて、店が開くまでにはもう少し時間もありますね。宜しければ海辺の散策でも一緒にいかがです?」
「……はぁ。わかった、付き合おう」
「夕刻には船を沖に出すそうですから、今日のお昼が勝負所になると思いますよ」
「夕刻か……。一体誰に聞いたんだ?」
「船長殿から」
曰く、昨晩船に戻ってきた時に聞いておいたのだと笑って言う。全くもって卒がない。
「なるほどな。……じゃあ、腹ごなしも兼ねて少し海岸線を歩くか」
「もしかしたらまだ、昨日打ち上げられた魚が残っているかもしれませんね」
「いや、もうあらかた海鳥が食った後だろう。一晩過ぎれば殆ど残っていないさ」
海鳥の食欲をなめたら酷い目に合うのは、以前にも海街を訪ねている経験から体感済みだ。
特に海猫とクルルの相性は最悪で、食べ物の恨みは恐ろしいということをしみじみと感じさせられた。正直あまりいい思い出とは呼べない。
「……おや。海街に住んでいた経験が?」
「住んではいない。ちょっと立ち寄っただけだ」
これ以上の詮索は無しだと無言の内に伝えれば、にこりと笑って口元に人差し指を添えて見せる。
うん、往復ビンタしたいな。
この矢鱈と慣れている感が怪しさを倍増させているところを、果たして本人は自覚しているだろうか。
半眼のまま食堂を後にして、背後にゆったりといた足音を聞きながら甲板へ出る。
「――とは言え、ここまで靄があると迷って戻れなくはならないか?」
「あと数時間も経てば自然と薄れていくと思いますよ。心配なら目印を付けて歩きましょうか?」
「いや、いいよ。消すのも面倒だ」
「ふふ、では行きましょう」
順番に船を下りて、桟橋を並んで歩く。足元でざあざあと寄せて返す波が透き通って綺麗だ。
砂浜は見渡す限り一面の靄で、少し肌寒いくらいに感じる。
やや灰色がかった砂を踏みしめながら、ひとまず太陽の方角に向かって歩いていくことにした。
「大丈夫ですか? 思ったより少し気温が低かったようです。宜しければ上着をどうぞ」
「これくらいは平気だ。それにしても景観を楽しむどころではないな、これだと」
「そうですね。でも薄日が差して少しずつ靄が薄らいでいく様は幻想的で美しいと、この辺りでは密かな評判のようですよ」
「なるほど。恋人同士で来る分には確かにロマンチックなのかもしれない」
「おや、つれないお言葉ですね」
「冗談もほどほどに留めないと、いつか刺されるよ。商人殿?」
「はは、これは中々手厳しい」
楽しそうだなぁ、と半ば他人事のように観察する分には苦笑で済む。
時折存在する、境界線をどこに引くべきか迷うタイプ。まさに商人はその代表例だ。
柔らかな外見で相手の油断を誘い、機知に溢れた手腕で気づかせずに糸で絡め捕る。商売人なんてまさに天職だろう。
隣り合う分には沢山の利を望めるが、対峙したら最後。引き際は細心の注意を払う必要がある。
果たして自分にそれが見極められるだろうか?
目下の課題はそれに尽きる。
「――あぁ、ほら。やはり綺麗ですよ。気温が上がって少しずつ靄が薄れていく……」
「靄が切れると、海の青さが一層わかるようになるな」
「水晶海も海域によって色調に差があると聞きます。余裕があれば見比べてみるのも面白いかもしれません」
「そうだな、色々と比較してみるのも悪くない」
「色々、の部分に何を想定されているのかが一番興味深いですね」
「……商人殿、今日はいつになく生き生きとして見えるが昨晩何か良いことでもあったのか?」
「ふふ、お返しという流れですね。貴女と会話をするのは本当に楽しい」
「あなたの感性も相当変わってるな」
くるりと身を反転させ、サクサクと砂を踏みながら少女は砂浜を横断した。
水際を離れ、霧の薄れ始めた孤島の全景に目を凝らしてみる。すると微かに昨日見てきた夕花蔓の深紅が見えた。
意識こそしていなかったが、いつの間にか船から離れて半周ほど歩いていたらしい。
「そろそろ戻るか?」
「ええ、そうですね。戻る頃には店も開き始めているでしょうし、散策には丁度良い頃合いだと思います」
朝日に煌く海面と緋色に輝く太陽を背にしても尚、それら全てを引き立て役にしてしまえる商人の存在感がやや恐ろしくもある今日この頃。
本当に人間なんだろうか、この人。失礼は承知で今一度確認しておこうか地味に迷うな。
実年齢は相当上だろう。間違いない。見た目通りということはまずあるまい。
根拠?
博識に過ぎるし、落ち着き方が老獪といっていいレベルだからだよ。
気付けば近くにいるんだ猫みたいに。少なくとも素人の動きじゃない。
見上げれば、訳知り顔で微笑まれる。ここだと丁度逆光だ。
どの角度から見ても死角のない端麗さだが、正直見惚れるような甘々とした感性は持ち合わせていない。明らかに向ける人間を間違えている。
兎にも角にも、ここは耐性が限界突破している数少ない利点を最大限に生かさせてもらおう。
自分の平穏が一番。その他は次点。これぞ変わることのない原則だ。
昨晩のような不意打ちでも起きない限り、問題にはなるまい。
――内心でそう頷き、ほんの僅かだけ肩の力を抜いた刹那。
『来るの』
不意に、パチリと音を立てて開いた淡黄色。
それに気を取られて周囲の変化に意識が全く追いついていなかったところを、突然抱き寄せられた腕の感触と頬を掠めた銀色の影。
思った以上に広い商人殿の腕の中で、暫く事態が呑み込めずに瞬いた少女もややあって把握に至ったらしい。
「……どうやら助けられたようだ。手を煩わせて済まない」
「いえ。こちらこそ咄嗟のことで声を掛ける間もなく。申し訳ありません」
もぞもぞと腕の中で移動し、丁度見上げられる位置に出たところで礼を言う。
砂の上、覆いかぶさるようにして片手を付いた商人の顔にはいつもの柔和さが欠けていた。
その体勢のまま少女が視線を波打ち際に向けたところで、今まで見たことのない奇妙な獣が視界に入る。
「初めて見る獣だ」
「……炎狐です。旧大陸にしかいる筈のない上位種魔獣ですが、縄張りを犯すのは例外として直接害を及ぼしたという話はこれまで聞いたことがありません」
陽光を浴びて輝く白銀の毛並みに、所々入り混じる緋色。
波打ち際に立ち、向かい合うそれは一見しただけでも美しい獣。とは言え、今まで見てきた魔獣と大きく異なる点が一つ。それは桁違いに魔力が高いことだ。
おそらくそれ相応の知能を兼ね備えていると判断し、改めてその双眸を観察する。
深い藍色の色彩には、獣には似つかわしくない必死さがあった。
「眠り姫、会話は可能かい?」
『……仕方ないの。やってみるの』
「うん、任せるよ」
『やれやれなの』
商人に頷き、腕の中から抜け出た少女。
ある程度の距離を取りながら、ゆっくりと炎狐に歩み寄る。
『ここでいいの』
羽を広げたモコモコの指示する位置で止まると、淡黄色と藍色が丁度向かい合った。
そこに音は無く、周囲に響くのはただ波の音と砂の擦れ合う音のみ。
少女が二匹の様子に目を配る一方で、後方に立つ商人は少女を含めた全体の様子を見守っているようだ。
『……思ったより厄介な事情なの。どうやら助けを求めに来たらしいの』
「厄介な事情?」
『大怪我をした子供がいるらしいの』
「人手が必要ということか?」
『魔力の担い手が必要だと言ってるの。魔力を感知して助けを求めに来たらしいの』
「なるほど」
どうやら観光はお預けらしい。
モコモコを片手に抱え、振り返った先の商人へ端的に事情を伝えることにした少女。
黙って耳を傾けていた商人であったが、聞き終えたところで「事情は分かりました」と一度頷く。
「じゃあ後のことは頼む」と言いかけた少女に、微笑む商人。
ここで思いがけず、とんでもないことを言い出した。
「では、私も同行します」
「いや。折角の申し出だが、今回の件は……」
「お伝えしていませんでしたが、私は治癒術師の免許を持っています。お役に立てると思いますが?」
さすがに言葉を失った少女を、さあ参りましょうと抱え上げるや否や、さっさと炎狐の背中に跨る動作に一切の迷いはない。
我に返った少女が炎狐に制止の声をかける前には、すでに事態は走り出していた。
文字通り風のような速さで砂浜を駆け上り、緩やかな坂へと一足飛びに伸び上がる炎狐。
音で例えれば、トン、フワッ、ボスンといった感じで曲芸並みの運動能力を惜しげもなく披露してみせるのだから堪らない。
並の人間なら、この時点で気絶しているだろう。それほどの速さと衝撃だ。とは言え、それはあくまで『一般的な想定』の範囲内の話。
その背に掴まり、色々と諦めた様子の少女と対照的に楽しげな様子を隠さない商人もとい治癒術師の両名である。
「治癒術師が商売人に転向した例なんて、生まれて初めて聞いたんだが……」
「ふふ、無理もありません。珍しい例であることは間違いありませんから」
「よく港を通過できたな? よほどの事情がない限り、魔術師や治癒術師の出入りは制限を受けると聞くが」
「商売人の優劣は『人脈』の多さで決まります。取れる選択肢が広がるだけ、色々と遣りようはあるという事ですね」
「要するに伝手か」
「そうなります」
気絶するどころか、合間合間に会話を交わせるだけの余裕すら覗かせている二人である。
藍色の双眸は彼らを背に乗せながら、自らの心に希望の明かりが灯るのを感じていた。
――これらの力を借りれるならば、きっとカイルも助けられる!
美しい毛を靡かせて、必死に走る炎狐――リーゼは心の中でそう思い、より己を奮い立たせて走り続けるのだった。
こうして歯車は、旧大陸に足を踏み入れる以前にグルグルと、少しの容赦もなく回り始めた。
それはさながら――――
錆びついていた筈の歯車が、回り始めるその先触れの如く。




