少女は孤島を散策する*中篇*
*
「凄いな、あれ」
「なかなかの大物ですね」
夕暮れが近づいた岬を下り、曲がりくねった道を通って桟橋へと戻ってきた二人。
その視界にまず飛び込んできたのが、波打ち際に打ち上げられた見上げるほどの巨体だ。付いて出た言葉が冒頭の二行である。
全体に青々とした色彩。滑らかな鱗と、銀色の尾びれ。やや黄色みがかった背びれと、まん丸の目玉が二つ。
何よりも特徴的なその大きさは、桟橋を挟んで向かいに係留されている大いなる双翼号のメインマストと同程度かそれ以上。
見事な巨大魚だ。描写からも分かるように巨鯨ではない。
「あ、お戻りですか?」
まじまじと並んで見上げていたら、巨大魚の陰からひょっこりと顔を覗かせる少年が一人。
料理人見習いのクイン・モス君だった。
頬を紅に染め、にこりと微笑んだ彼は嬉しそうに報告してくる。
「大海亀さんが海原へと戻っていく時、ものすごい潜水をしたんですよ。それで周囲を回遊していた魚が丸ごと浜へ打ち上げられたみたいで。あの時は本当にびっくりしました。一瞬津波が来たかと思うくらいの大きな波が砂浜全部を覆って、波が収まったと思ったら浜に大量の魚が跳ねていたんですから。一番の大物がこの青蛇巨魚です!」
「なるほど。これだけの大物となると、人の手で釣り上げようとして出来るものではありませんね」
「はい! 青蛇巨魚ともなれば通常の市場ではまずお目にかかれない希少種で、売れば小型船舶くらいは余裕で手に入る超高級魚ですから。料理人見習いとしてこれだけ立派な成魚に触れる機会を貰えただけでも、本当に幸せです!」
いやいや、微笑ましそうに相槌を打っている場合じゃないだろう商人よ。
それにクイン少年のテンションの上げ幅がいつも以上に高い気がする。やはり値段と珍しさが関係しているんだろうか。機会があったらさり気なく聞いておきたい。
「どうぞ間近で見てみて下さい。成魚は鱗も透き通って綺麗なんですよ!」
「それなら、お言葉に甘えて」
よし、観察だ。これだけの大きな魚を間近で見れる機会はそうそう無いからな。
少女は波打ち際に歩み寄り、その青々とした鱗をまじまじと見つめる。いや、首の角度からしたら見仰ぐといったほうが正しいかもしれない。
青蛇巨魚ね。それにしても呼び辛いな。何といっても長い。気合入りすぎだろう。
誰が命名したんだろうな、この魚。
内心の疑問から少女が首を傾げる一方で、同じくぱしゃぱしゃと音を立てて波間に並んだクイン少年は興奮冷めやらぬ様子で話を続ける。
「あの大海亀さん、嵐の夜はとっても怖かったですけど、僕が昼間に浅瀬を泳いでいる時は本当に大人しくて。あんまり動かないから逆に心配になってすぐ傍まで近寄ってみたんです。そしたら鯨みたいに潮を吹きかけられましたよ! 悪戯心もあるなんて本当に賢い生き物ですよね。思わず感心してしまいました!」
「悪戯心……。うん。まぁ、そうなるか」
「ふふ、そういえば昼間もう一人潮を吹きかけられていた方を見かけたような気がしましたね」
「見間違いだろう」
商人の意味深な微笑みを背後に、バッサリと言い捨てる。
それにしても『悪戯心』と来たか……。
真っ先に潮を吹きかけられた身としては、とても複雑な心情を呼び起こす解釈だな。
正直なところ、クイン少年に本来の意味を教えること自体は構わない。だが少なくとも商人が隣にいる間は止めておこうと思い直したよ。
何故って?
やんちゃな子供を微笑ましそうに見つめるような目を傍らにして、平静を装えるほど大人ではないんだ。
クイン少年も商人も、基本的に笑みを浮かべていることが多い点では似通っている。ただし、明らかに種類が異なる。
一方は自然体だが、もう一方は自然を装っている。たったそれだけでもえらい違いだ。
「――さぼるな、クイン! 日が沈むまでに解体できる部分は船倉に運んでおくように言われたばかりだろ!」
と、巨大魚の向こう側からだろうか。副料理人のエージル青年らしき声が響いてきた。
どうやら兄弟一組で青蛇巨魚を捌いていた最中だったらしい。
「もう少し待って、兄さん! 慌ただしくてすみません」
「いや、こちらこそ邪魔をしたようで悪かった。解体作業、頑張ってくれ」
「はい。料理人全員で調理して、皆さんに美味しく召し上がっていただけるように努力します。あ、そうだ! カルーアさん、もしよかったら後で試食に参加していただけませんか? マティ料理長も是非にと言ってました!」
「んー、そうだな。じゃあ今回も参加させてもらうか」
「良かった! じゃあ料理長には僕の方から伝えておきますね。ではまた後で!」
にこりと微笑み、パタパタと手を振りながら巨大魚の向こう側へと戻っていったクイン少年。
基本動作といい、何かと元気な様子といい、小動物を連想させるところは相変わらずだ。
それに加えて「痛っ、もう……少しは加減してよ兄さん!」「うるさい、さっさと手を動かせ」といったやり取りが聞こえてくるあたりに、普段と変わらない仲の良さも伺える。
これぞまさしく平和な情景だ。
「あの二人を見ていると、兄弟という間柄も悪くないと思わされるよ」
「……そうですね。でも世の中は広い。血の繋がった間柄だとは言え、親しみと無縁の関係性もなかには存在します」
「そうか」
「ええ」
水平線に沈んでいく夕陽をじっと見据える商人のまなざしに、ほんの一瞬だけ灯る虚無。
そこに垣間見えるのは、仄暗くて平坦な闇だろうか。
そういえば以前にも同じような双眸の色を覗いたことがあるような。はて、何処でだったか?
限りある記憶を辿ろうとして、無意識が待ったをかける。
けれども、一足遅かった。
耳元を過る、甘い囁き。
頬を掠めた指先の熱。
目の奥に焼き付いて消えることのない、淡いブロンドと緋葵の二色が混じり合う。
――――ルーア、戻ったらご褒美をくれるよね?
半ば反射的にぞぞっ、と背筋が一瞬に凍り付いたのは、あれが旅立っていく前に告げた『一言』を思い出してしまった副反応だ。
思わず棒立ちになったあの時の心境もひっくるめて、非常に暗澹たる気持ちにさせられるな。
とてもじゃないが夕闇に沈む海を見ながら思い出すものではない。やれやれだ。
「さてと、夕ご飯を食べに行くとするかな。商人殿もこのまま食堂へ行くかい?」
「……ご一緒したいのは山々なのですが、実は面倒な先約がありまして。どうぞお先に」
「ん、了解したよ。今日は色々と助かった。有難う」
「お役に立てたようで何よりです。足元も暗いですから、くれぐれも気を付けて」
船にぽつぽつと灯り始める紅炎燈。その柔らかい色彩に照らされた商人の表情は、普段通りのそれに戻っているようにも見える。
だがしかし、伊達に面倒なあれの顔色を読み続けていない。ここはある意味経験の差だ。
ほんの少し過った不安から思わず伸ばした手の先が、ちょうど商人殿の襟元あたりを引っ掛ける。
振り返り、かすかに驚いたように瞬く目。
それを見て、逆に安堵もする。強がりな一面もあったのだと思えば余計にね。
「ちょっと待て。あ、すまん……痛かったか?」
「っ、いえ、平気です。……ですが、あの?」
「……言い忘れだ。図々しいことは承知で一つ頼みがある。明日の先約がなければ商人殿に街巡りに付き合ってほしいんだ。一緒だと色々と助かるし、たぶんボラれずにも済む。頼めるか?」
「私で、良いのですか?」
「もちろん。そう言っている」
「――では、喜んでお供させていただきます」
それは一種の反射といって相違ない。
本能に従った結果、伸ばしていた手を思わず引っ込めた。ついでに危うく灰色のモコモコが海面に落下しかけたけれども何とか持ち直して何事もなかった風を装ったよ。この一連の流れをして、冷や汗ものだ。
それでも距離を取ろうとした判断は正しかったと断言できる。
何故って? 向けられた声色、表情、いずれも心臓に悪いことこの上無かったからだよ。
少しの間をあけて、花開くような艶笑を向けられた壮絶な心境たるや。内心では「自覚しろ…!」と両の手で往復ビンタを繰り出したいところだ。
耐えた自分を手放しに褒めたい。
いやはや、語彙の少なさが嘆かれる。想定外の破壊力だ。何だあれ。たぶん自分じゃなかったら男女関係なく即堕ちの笑みだったぞ。
もし意識していないのであれば、今一度その危険性を説いておく必要も出てきたな。
やはり美形は厄介だ。単体は勿論、その周囲に及ぼす影響についても考えなければならないから単純な話、疲労度も二倍になる。
「……それだけだ。引き留めて悪かったな」
「いえ。お陰で今夜は嬉しくて眠れないかもしれません」
ならば良かった。とりあえず普段の調子を取り戻してくれればもう何も言わないさ。
でも、この精神的疲労はちょっと堪えるな。久しく味わっていなかったから、余分にそう思えるのか。……いや、深くは考えないでおこう。そうしよう。
兎にも角にも役目は果たした。あとはご飯だ。そして睡眠。全てはそれからだ。
ひらひらと手を振って別れ、少女は船の食堂スペースへと足早に向かう。
久々に野山を歩いたから、空腹なのである。
――その一方。
少女を桟橋で見送った商人の横顔には、見るものを陶然とさせそうな妖しさが漂っていた。
気を抜けば緩んでしまう口元を、覆う手の平は薄闇の中でも仄白く。
ゆるゆると瞼を閉じ、秘めやかに呟いた声には隠し切れない甘さが含まれている。
「……まったく、貴女は困ったひとだ」
潮風に舞い上がる艶やかな漆黒の髪。触れれば切れてしまいそうな碧の双眸。すべてが調和した、人ならざる美貌。
満ちた月が照らし出す、欠けるところのないその有様。
出会った当初に『些か人間味に欠けるほど端麗である』と内心で称していたそれが、ある意味でとても的を射ていたことを少女はまだ知る由もない。
船上にいる誰一人として、未だ掴ませずにいる『飢え』の色。
それを惜しげもなく曝け出し、ふぅーと零した吐息の中には尖った牙がわずかに覗く。
「ここまで我慢していることを逆に感謝して頂きたいくらいですが……まぁ、良いでしょう」
薄っすらと笑い、血の香を求めてふわりと歩みだした先には月明りも届かない宵の闇。
響く波音を背に、その姿は漆黒へと消えた。
*
「――ん、ちゃんと血抜きがされていて美味しいな。これ」
「有難うございます! 街の人から交渉して買い付けてきた孤島原産の蒼毛山羊の内臓を取り除いて、数種類のハーブと色物野菜を詰め込んで煮立ててみました。お口にあったようで、嬉しいです!」
「乗り出しすぎだ、馬鹿。お嬢さんをビビらせてどうする……」
「あ、すみません……! でも、嬉しくて。えへへ」
「えへへじゃない、この馬鹿!」
「痛い! もう、兄さんはいつになったら加減してくれるのさ!」
「お前が学ぶまでだ」
料理人兄弟のペースは夕食時を過ぎても衰えるどころか増す一方だ。
二人のじゃれ合いを傍らにしている為かな、殆ど人気のなくなった食堂でも不思議と賑やかに感じられる。
うん、仲の良いことは善きことだ。
苦笑しながらスプーンで掬った煮汁を口に含み、仄かな野菜の甘みと山羊肉の独特な旨み、ハーブの爽やかさを堪能した。美味い。
「今日のデザートだ。長時間付合わせて、申し訳ない」
斜め後方から現れた大柄な料理長――マティ・カミルレの左手の上からは柔らかな花の色彩が覗いていた。
そのまま音も立てずにテーブルに乗せられた最後の一皿。
白磁に金の縁取りの上、円を描くように飾られているのは菫の花びらだ。中央には薄桃色のスフレが可愛らしく鎮座している。
「では、頂くよ」
「忌憚のない意見を期待している」
「……料理長。そこで無駄なプレッシャーを掛けるのは逆効果だと思いますけどね」
「そうなのか?」
後方で繰り広げられる総料理長と副料理長のやり取りを余所に、添えられたスプーンをスフレに差し込んで一口。
少女は無言で悶絶していた。
いや、美味しいんだ。美味しいのだけれども……。
「……甘い」
やや涙目の少女に、今回もダメだったかと肩を落とす総料理長の苦悩。
実はこれまでにも三回、試食会と称した『甘味嫌いでも美味しく食べられる製菓作り検討会』に参加している。しかし結果は全戦全敗。
度重なる罪悪感から、その苦悩に満ちた背中を直視できない少女はテーブルの前で縮こまっていた。
その両脇には、励ますように総料理長の左肩を叩く副料理長のエージル青年と「また頑張りましょう!」と拳を握るクイン少年の姿が。
これも半ば習慣化しつつある。
「……うん。なんというか、その……申し訳ない料理長」
「……構わない。生涯をかけて食べる人の喜ぶ姿の為に試行錯誤してこそ、料理人足りえる」
「料理長、涙を流しながら言っても重いだけだと思いますけど」
「兄さん、空気読んでね」
ちなみに残った部分は兄弟たちで美味しく頂く。これも含めた一連の試食会である。
総料理長の苦労はけして無駄にはならない。
「うーん、ここまで自然な甘みに拘ってもカルーアさんの舌を誤魔化せないんだ……」
「今回は今までにない会心の出来だと豪語していただけに、料理長の再起までは長引きそうだな……」
「明日の朝食のメニュー、僕らで考えておこうよ兄さん」
「あぁ、そうだな」
銘々の感想を両脇にしながら同じテーブルで食後のハーブティーを飲む気まずさたるや、中々のものだ。
自分でもどうしてここまで甘味に弱いのか、正直謎だ。最近では割と頭を悩ませてもいる。
「どうしたら甘味を克服できるだろう……?」
テーブルに頬杖を付いて疑問を投げかける少女に、兄弟たちは目配せをし合った。
「うーん。特に女性は製菓が好きな方が多いですし、その悩みは珍しいのかもしれないです。でも、無理をしてまで食べる必要はないと思いますよ! ね、兄さん?」
「クイン、さっき空気を読めと言ったのはお前じゃなかったか?」
「うん、そうだけど? ……あ! 料理長、違うんです。この試食会自体を否定したわけじゃなくて!」
「少し寝る。誰も起こさないでくれ。頼む」
「「総料理長……」」
見送る兄弟たちの背中に、事態の悪化を悟った少女。
飲み終えたカップをテーブルに置き、ひとまずこの場からの撤退を図る。
「――ご馳走様。今回も役に立てなくて、申し訳なかったな」
「……カルーアさん。あの、今は総料理長もどん底に沈んでますけど、明日にはいつも通り立ち直って新しいレシピを考え始めていると思います。今までもそうだったので、今回も同じく気になさらないでくださいね!」
「愚弟の言うとおりだ。毎回あの背中を見せることになって心苦しいが、暇ならもう少し付き合ってやってくれると有り難い」
この兄弟たちと話をしていると、自然と和やかな心持ちになってくる。
互いに思い遣りの心があり、その根本には素直さがあるからだ。こういう性質を持つ者は、実際のところそう多くない。
他者の為に労を厭わずに懸命に働き、必要な場面においては支え合う。清々しい事この上ないな。
そんな二人を料理人として雇い入れている船は本当に幸運だ。
乗り合わせた乗客にとっても、たぶん同じことが言えるだろう。
「二人とも今日はお疲れ様。美味しかったよ。料理長にも、目が覚めたら宜しく伝えてくれ」
「はい必ず伝えます! お休みなさい、カルーアさん」
「良い夜を」
ひらひらと手を振って別れ、食堂を背にして歩き出した少女。
等間隔に釣り下げられた紅炎燈の数を数えつつ甲板へ出たところで、立ち止まって大きく深呼吸をする。
その視界には夜の海と何一つ遮るもののない満天の星空。
船の縁に寄りかかってそれらを見渡した後、ついでに腕の中へ視線を向ける。
「……珍しく起きなかったな」
『……呼んだの?』
「ん、なんだ起きていたのかい?」
『美味しそうな匂いには気付いていたの。でも今日は眠気が勝ったの』
「そんな恨めしそうな目を向けられてもなぁ……」
『明日のご飯は三倍を要求するの』
「そこは二倍じゃないのか……」
夜風に波立つ海面を見詰めながら、一人と一匹がぽつぽつと語り合う。
狭霧の孤島の夜は、そうして静かに更けていく。




