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勇者の最愛はこの大陸に見切りを付けました  作者: 因果論
旧大陸編*新章*
31/51

船上の少女は酒杯を掲げる*大海亀邂逅篇*

 *



 ポーン、ポーンと船室の中の紅炎(オランジュ)(・ベル)が上下左右にと跳ね回っている。


『騒がしいの』

「うん、ここまで荒れると流石に釣りどころではないな」


 ドアの隙間から見えた海面に、夕暮れ前の穏やかさは少しも残っていない。雨粒は荒々しい風と共に船体を打ち付け、マストは軋み、帆は既に限界まで膨らんでいる。

 ザブンザブンと常に打ち寄せるのは白波だ。視界は真白と夕焼けの二色。

 まさに嵐の真っ只中である。


『……何だか良い匂いなの。くれなの』

「直球だなぁ」

『寄越せなの』

「はいはい」


 楽し気なやり取りも、傍から見れば独り言。しかしその辛い現実も何のその、極上のつまみを片手に(ブラン・)(リカー)を嗜む。

 これこそ、嵐の夜の醍醐味である。うむ、悪くない。

 揺れる船内、許可を取って作ったハンモックに寝そべってまったりする少女である。


『もぐもぐもぐ……うん、悪くない味なの。そこはかとなくハーブの薫りもして、これはいい馬肉なの』

「総料理長直々に作ってくれたタタキだからね。ふむ、確かにローゼマリーの微かな薫りがするようなしないような……」


 艶やかな馬肉のタタキを、一人と一匹が黙々と頬張る。ハンモックの上とは言えど、気を抜けば床板へと落下しかねない状況でタタキの乗った皿と酒瓶片手に器用にバランスを取る少女。

 一欠けらは元より、一滴も決して零すまいという執念が半ば見え隠れしている。

 波に跳ね上げられ、揺さぶられ、多くが身を寄せ合いながら嵐が止むのを待つ最中だ。それなりに異様ではあったろう。しかし、幸いなことに彼らの様子を気に掛ける素振りは殆どない。というよりも、おそらくそんな余裕自体がないのだろう。

 意図したところではなくとも『嵐』を隠れ蓑にとっておきのつまみと酒を仰ぐあたりに、少女の胆の太さが垣間見える。


「やぁ、いい薫りだ。宜しければ、私も混ぜて頂いても?」

「こんばんは、商人殿。……ん、それはまさか北方の秘酒だろうか?」

「――ふふ、流石。お見事です。これは北の黎脈から滴り落ちた水を使って作られた古の酒、ちまたでは『花氷酒(フローズ)』と呼ばれるものですよ」

「……これはまた。多分、師匠も口を付けたことはない筈だ。まさに秘酒中の秘酒というやつだねぇ」


 くんくん、と。封をしていても微かに漂ってくる花の如き酒精の香。元々酒の飲めないものならば、おそらく嗅いだだけでも酩酊してしまうことだろう。

 俄かに酒宴の態を成し始めた嵐の夜の船室、その片隅で。互いの酒を注ぎ交わし、グラスをカチンと打ち合わせる。


「「船が、無事に旧大陸まで到着できる幸運を願って」」


 声を揃え、一気にグラスを仰いだ。

 度数はいずれも、それなりのもの。しかしながら、双方ともに殆どその顔色に変化はみえない。

 普段からそれなりに酒を嗜んでいることが、言葉を解さずとも窺える光景だ。


「商人殿は、旧大陸に今までも何度か足を運んでいるのかい?」

「ええ、そうですね。仕事柄、数か月に渡って滞在したことも幾度かあります。……お嬢さんは、初めてですか?」

「うーん、記憶にある限りでは『初めて』といって間違いではないだろうなぁ」

「ふふ、実に興味深い返答です。……とはいえ、深くは追及しないでおきましょう」

「うん、そうしてくれると助かるよ」

「全く、貴女は本当に興味深い方だ」


 碧の双眸が、グラス越しに怪しく光る。それは見る者の心をざわり、と揺らすようなものであっただろう。けれども少女は気付いただけで、何も言葉にしては返さない。

 くぅーっと酒器を一息に干し、ザブンザブンと絶え間なく打ち付ける波の音に耳を傾けていた。

 そしてやおら、口角を苦笑に歪める。


「……さて、程々に酔いたい心持であったのに。どうやら先に片付けなければならないことがあるらしい」


 ぽつり、と零した独白。対面する商人の訝し気な視線を気に掛ける素振りもなく、背後に置いていた荷袋からするりと取り出した一刀――それは薄暗い船室の中でも、静謐な『青』の輝きを宿す――を手慣れた様子で腰に括りつける。

 ぽーん、と腰にモコモコを付けたまま床板の上に飛び降りてきた少女は片腕に抱えていた酒瓶をハンモックにグルグルと包んだ。「……さすがにつまみは」と呟いて暫く迷った末、振り返って商人に問うことにしたらしい。


「少しの間、つまみを頼めるかい?」

「……何か、来るのですか」

「んー、流石だね商人殿。……実物は今まで見たことはないが、特徴的な鳴声とこの独特な魔力の気配からして師匠から伝え聞いたことのある『あれ』な気がしてね」


 とりあえず、この船を沈めさせるわけにはいかないから。と。

 少女が補足として付け加えた言葉を聞き、じっと自らも耳を澄ませてから小さく吐息を零す。


「頼まれましょう」

「うん、宜しく頼むよ」


 それだけ言い残し、未だ風雨の冷めやらぬ扉のノブへ手を掛けた少女。その背に向けて、商人は一言だけ添えた。


「くれぐれも、穏便に」

「――心配はいらない。『青』である以上、どちらにしても血を流すことはないからね」


 ひらひらと手を振って、その後は振り返らない。

 一瞬の風雨の緩みを見極め、羽織った外套を深く被り直す。呼吸を静かに整え、扉の隙間から一気に飛び出した。躊躇いなく甲板へと躍り出たものの、その足場は最悪といっていい。加えて、視界も。

 波に洗われる甲板は、暗闇で先まで見通すことすらできない。


「……んー。『灯火』を出せば、真っ先に船長に気付かれるだろうしなぁ」


 究極の選択。出来るなら、隠密に済ませてしまいたい内心と直視せざるを得ない現状とが、葛藤を生む。

 そんな少女の迷いを、天が晴らしたのか。それとも単なる偶然か。

 視界の先、大気を切り裂くように降り注いだ轟音。

 落雷によって海面に照らし出されたモノに――少女は翡翠の双眸を瞠り、感嘆の息を吐く。


「……話に聞いていたよりも、やっぱり実物は大きいな。それにしても見事な甲羅だ」


 陽の下で仰いだわけではない以上、その正確な色彩はほとんど見て取れない。照らし出された輪郭は孤島を思わせるほどに巨大で、長く伸びた首は太古の木の幹を思わせるような堂々とした風格を感じさせる。背を覆う甲羅、その突起一つ一つはまるで小山のようだ。

 少女が視線を走らせた先に、見合うその両眼。宵闇を切り取ったようなそれは怒りを孕み、船を見下ろしていた。


 ――水晶(リーフィア)(・シス)大海亀(トーティ)

 嵐の夜に群れをなして海を渡り、大陸間を行き来するとされる幻の種族だ。

 本来であれば滅多に人前にその姿を晒すことはなく、争いも好まない温和な魔獣。それが今回は、どうしたことか船の進路を塞ぎ、威嚇の唸りをあげている。

 それはまるで大地が軋むようで、低く何重にも声を重ねた様な不思議な音色だ。


「――水晶海に棲まいし、太古の大亀よ。この刃を通してその意思を届けてくれ」


 片手で船の縁を掴み、掲げた『青』の刃。

 少女の言葉に応じるかのように波打ち、その静謐の色彩は揺蕩いながら大海亀の双眸へと吸い込まれていく。

 まるで渦を描くようにグルグルと目の中で揺らめいた青。それも暫くしてスルスルと抜け出たかと思えば、少女の掌の中へ刃の形となって戻ってきた。

 指先に『青』が触れた時点から、次第に少女の顔は理解の色に染まっていく。


「ん、なるほど。……これは中々に由々しき事態だな。すぐに船の進路をずらしてもらわないと手遅れになるか」


 嵐の海原に浮かび、未だにこちらを睥睨し続ける大海亀を仰いで再び刃を掲げた少女。

 再び溶け出た色彩は、先ほどよりも僅か。それが頭上の双眸に吸い込まれたかと思うと、ややあって首を高く掲げた大海亀。

 その口から、威嚇とは異なる一音が天に向けて発せられた。


「……ん、ひとまずは待ってもらえるらしいな」


 特に言葉を理解している訳ではないが、とりあえずそのように解釈をした少女。威嚇の音色を止め、じっと沈黙を保ったまま海面に浮かぶ大海亀を背に歩き出す。

 未だに嵐の真っ只中とあって、その足取りは普段のそれとはいかないものの、それでも何とか中央マストを支えにして操舵室の扉の前へと辿り着いた。

 トントン、と軽くノックする。


「失礼、船長殿は其処にいるかい?」


 扉越しでも、操舵室の慌ただしい様子は聞こえていた。それが、声を掛けた時を境に水を売ったような静けさに変わるのも。

 ただしそれも一瞬の事で、扉に走り寄る一組の足音に反射的に距離を取った少女の勘は並外れていた。開け放たれた扉の角に額を直撃するという、最も遅るるべき事態を紙一重で回避する。

 そんな最中、まず目に入って来たのは驚愕と困惑と焦燥を綯い交ぜにしたような少年の蒼白だ。


「な、な……一体君は何を考えている!?」

「説明は後だ。緊急時ということで、とりあえず中へ入れてくれ」

「出来るか!!」

「――入れろ、キーツ。話を聞く」

「ですが! いくら緊急時と言えど、船員以外を操舵室に入れては――」


 それは紛れもない操舵手としての矜持。尚も言いつのろうとした言葉は、しかしこの船における絶対的統括者の一声によって霧散する。


「聞こえなかったのか、キーツ。今は非常時だ。何よりも優先すべき言葉は誰の言葉になる?」

「……船長命令ですか」

「分かり切ったことだ。何度も言わせるな」


 焔の如き双眸すら、揺らぐことなく真正面から見据えるのは鷹の如き鋭利な眼差し。一切の反論を許さないと言外に語るそれへ、キーツは溜息と共に言葉を飲み込むほかなかった。

 沈黙を選択したキーツと、そこに至る状況をどこか呆れた様子で見守っていた残りの操舵手二人、射るような眼差しで場を支配するメルバ――そんな彼ら全員の様子を一通り確認し、びしょ濡れの外套越しに少女は端的に告げる。


「この船の進路その先で今、大海亀が産卵を迎えているらしい。それに伴って大海亀の雄が警告に現れている。彼が言うことを纏めれば、このままの進路を維持するならば船を沈めることも厭わないそうだ」

「……なんでそんなことが分かる」

「――その言葉、報告に一切の偽りがないと誓えるか?」

「――今にも船が沈むかもしれない状況下、愚かな言動をとる必要があるかい?」


 少女の説明に、訝し気なキーツの声が上がるが結果的に黙殺された。状況が状況なだけに、これは仕方がない。

 その一方で発せられた、触れれば切れてしまいそうな船長メルバの怜悧な問い掛け。じっと見返した少女は、今にも凍り付きそうな空気を承知した上で、敢えて笑う。

 問い掛けに問い掛けで返したその目は実際のところ些かも笑っていないが、遠目に見ればそれは微笑に見えるそれだった。

 聡い者ならば、言葉にしなくとも察するところだろう。要するにその内心は『――グダグダ言っている暇があったら、さっさと動けよ船乗り共』といった風な解釈を入れても、あながち間違いではない。

 怜悧と微笑。

 見合った末に、最終的に出された結論。


「……進路を変更するにしても、現状の波と風では確約は出来ない」


 確かに。そのいたく真っ当な返答に対して、少女は内心で同意していた。

 それに加えて、この非常識な現状でこれ程に冷静な返答を選択する船長――メルバ・シレーディングの強靭な精神力に対し、感心を超えて呆れてもいた。

 普通は逆だろうが、今は普通の状況でないのでその限りではない。


 ――さて、どうしたらその一番の懸念を解消できるだろう。

 疑問に額を抑えたところで、びしゃりと雨滴やら海水やらがジワジワと染み込んできた。流石に絞りたい。とはいえ、この場でギューギューと絞る勇気は流石にない。その辺りの良識は弁えているのだ。


「このまま放っておけば、船が沈むか。たとえ沈まなくても、遠からず風邪を引きそうだし……やれやれ」

 儘ならないな、と続けるその前に。


『そこを同列で考えるのは、流石にどうかと思うの』


 水蜘蛛のロープの先、同じくびしょ濡れになった灰色のモコモコだったモノが呆れを含ませ、見上げてくる。


「お目覚めかい、眠り姫?」

『ここまで体が冷えたら、安眠できる筈もないの。極めて不快なの』

「うーん、ひとまず給水布で体を拭いておくか?」

『早くしないと、ブルブルするの』

「はいはい、お待ちを」


 徐に外套の裏、二重に縫い合わせたポケットの中に手を突っ込む少女。念の為にと仕舞っておいた二枚の給水布の内、辛うじて水の染み込まなかった方で灰色の体毛をごしごしした。

 濡れ鼠の如くべったりと下へ萎んでいた体も、やがてゴワゴワ程度まで回復する。


『まぁ……許すの。あとは我慢するの』

「ん、ひとまずそう言ってもらえて何より」


 少女の腕の中で、灰色のゴワゴワがくるりと淡黄色の目を回して言う。


『とりあえず、お礼なの』

「……?」

『知恵を貸してあげるの。わたしが起きている間に、さっさと船の縁に戻るの』


 目を丸くしたままの少女へ、次代の女王竜はバサバサと翼を仰いで急かし付けた。これが地味に痛かった為、詳しい内容はさておき、言われた通りに船の縁へ戻ることにした少女。


「ひとまず、もう暫く猶予をもらえるかどうか確認してくるよ」


 操舵室の面々にそう言い残し、再び嵐の只中へ舞い戻る。足場に苦戦しながらも、続く落雷に救われる形で比較的スムーズに船の縁へと辿り着くことに成功した。

 そうして見上げる、大海亀。

 ぐっ、と甲羅から首を伸ばしてすぐ目の前まで来た双眸。よくよく覗けば、それは凪いだ海と同じ色彩をしていた。


『交渉するの。そのまま腕を伸ばしてほしいの』

「頼んだよ、眠り姫」


 言われた通り、少女は灰色のゴワゴワを間近に迫った大海亀の眼前へと伸ばす。

 パチリと物珍し気に瞬きした海色(マリス)と、宵闇の中で煌めく炎の如き色彩を揺らめかせた淡黄色(ミモザ)。直接意思を躱しているようにはとても見えない無言の遣り取りはしばらく続いた。

 時間にして、どれほど過ぎていたかは少女自身まるで分からない。遣り取りが終わったことを知ったのは、再び眼前の双眸が瞬きをした時だ。


『終わったの。これ以上無いくらい、平和的な妥協案なの』

「ん? ちょっと待った。どういう結論に落ち着いたのか説明を願いたい」

『見ていれば分かるの』


 既にウトウトしかけている淡黄色に危機感を覚え、少女がその口許をムニッと横に広げながら尋ねるも、返って来るのは眠たげな返答一つ。

 やがて腕の中で、すぅすぅと健やかな寝息が漏れ聞こえ出す。


「……おいおい」


 思わず少女は素に戻って呟いた。果たしてこの先に何が起こるのか、まるで見通しのつかない状況にむしろ増した形の危機感を抱えて。

 だがしかし、それも長くは続かない。

 ふいに頭上に差していた影が動き始めたのを感じ取り、視線を上げた少女。そうして目にしたものを、きっと生涯忘れることはないだろう。

 雷光を背に、白波の立つ海流へと飛沫を上げて潜る巨大な大海亀の輪郭。ザブンと音を立てて海中へと完全に沈んだ大海亀の目的は、突き上げられるような船の軋みと浮遊感と共に明らかとなる。


「……眠り姫、君の言いたいことは十分すぎるくらいに伝わったよ」


 確かにこれは、見ればわかる。

 一旦海へと潜った大海亀は、船の真下へ甲羅の位置を調整したのだろう。そのまま浮上し、船は甲羅の突起と突起に挟まれた形で見事に安定した。

 船底への被害については、あまり考えたくないところだ。

 何はともあれ、この甲羅の主によって『今すぐ』船が海中に沈む未来は脱せた。うん、そこまで悪くない。きっとこれから巻き返せるさ。

 当然、最善とは言えないだろうが。

 背後からの冷気に近い感覚に、振り返るまでもない気まずさ。今や胸中の大半を占めているそれ。

 向けられている視線の意味は、この時点で痛いほど認識している。

 ある程度察しの良い人間であれば、既にこの先の展開までも予想出来得るところだろう。

 発せられる第一声は恐らく――


「……修理費、要相談でいいですか?」

「うん、相談。……出来たら分割でお願いしたいところだな……」


 甲板の上、状況は既に隠すところなく伝わっているらしい現状。眩暈を覚える少女が一人。

 恐らくこのままでは破産するであろう未来に思いを馳せつつ、諦念に満ちた声でそう答えたところで。


「――お待ちください操舵手殿。それにつきまして、私たち一同より提案があります。先にそちらを聞いて頂けますか?」


 物理的な要因によって波が納まって尚も、風雨の吹き込む甲板の上。

 船室の扉を開けて、姿を見せたのは商人殿を先頭に、船酔いを辛うじて堪えた強靭な精神力と体力を持ち合わせる乗客たち。

 それぞれが手にした紅炎(オランジュ)(・ベル)が、暗がりの甲板を照らし出す。其処だけが星が瞬くように明るかった。

 船員を前にしても、ずらりと立ち並んだ彼らは一様に強い眼差しを崩さない。


「今回の騒動によって船が受けた損害と、それに伴う修繕費用はこの船に乗り合わせた乗客全員一人一人から支払いをさせて頂きます。これは寄付金という形になると思いますが、同時に感謝の気持ちでもある。船自体は傷を負ったと言えど、私たち全員の命はこうして守られたのですから」


 ――恩には恩を返すべきでしょう。

 そう最後に付け加えた商人殿の笑顔は、冷え切った甲板により一層の冷気を加えるようなものだった。もはや保冷庫の中にいる心地だ。

 風邪は避けられまい。

 半ば諦めた心地の少女は、その冷気の只中で小さくクシャミを零していた。



 *



 その後、ひとまず騒ぎの落ち着いた甲板の上。夜のとばりがやがて覆う朝の光に少しずつ薄れ始める頃。

 大海亀の背に跨るような形で、進路はやや北東寄りに『大いなる双翼』号は航海を再開した。

 余った布をかき集め、少女が灰色のゴワゴワがモコモコに戻るまでごしごしとその体毛を拭いている一方で。

 少女の湿った髪を丁寧に拭いて梳る、器用な手捌き。

 まるで当然の如く背後を陣取り、黙々と少女の世話をする商人の姿があった。彼は途中、思い出したように笑み零す。


「ふふ、思ったよりも穏便な手段に纏めてくれたので助かりました」

「それにしても、よくもまぁ……いつの間にこれだけの乗客に寄付を募る算段を?」


 少なくとも、大海亀が船を持ち上げてからでは到底間に合うまい。全くもって無理な相談だ。

 破産を免れて素直に祝いたい内心と、一方に渦巻く純粋な疑問。横目でじっとその顔を見上げる少女に対し、肝心の商人は小さく喉を鳴らして笑った。


「これでも、商売人の端くれです。先を見通して、あらかじめ手を打っておくのは性分なのですよ」

「……商売人というのも、中々に怖いな。下手な貴族連中を敵に回すより君たちを敵に回す方が遥かに恐ろしいような気がしてきた」

「ええ、どうせならば味方につけた方が何かとお得です」


 微笑んでそう言う商人に、どこか不思議なものを見る眼を隠さない少女。

 ふと、言い差す。


「どうしてあれ程に、怒っていたんだ?」

「……さて。怒っていたように見えましたか?」

「んー、全くもって目が笑っていなかったからな。……まぁ、深くは聞かないさ。酒杯を交わした時に商人殿が退いてくれたように、俺もそれに倣おう」

「――貴女という人は、本当に興味深い」


 朝陽を浴びて、微笑む商人と苦笑混じりに伸びをする少女。

 大海亀の背中で迎えた朝は、想像していたよりも遥かに穏やかな空気に包まれていると言っていい。


「……ところで商人殿、頼んでおいたつまみは?」

「ふふ、ご心配には及びません。――さぁ、どうぞ」


 ことりことり、と音を立てて甲板に並べられていく複数の音。預けておいた皿も勿論含まれてはいたものの、何やら色々と予想外に過ぎた。

 広げられた即席のつまみ類に目を丸くした少女。とりあえず率直に問うことから始める。


「……つまみが増えているように見えるが?」

「ええ、増やしましたから。いずれにしろ大海亀の背に乗っていては、今日一日釣りはお預けになるでしょう? 祝杯を兼ねて、ご馳走させてください」

「いや、生憎と朝から酒を飲む趣味は無くてだな……」

「おや、それは大変残念なお話ですね……実はまだとっておきのストックがあるのですが」


 いつの間にやら両手に握られていたのは、二本の酒瓶。其々に刻印された『銘柄』にさしもの少女も唖然として、暫くの間は何も言葉にならない。

 具体的に話し始めると収拾がつかなくなる恐れがあるほどに、其々が曰く付きの『酒』。いずれも師匠が見たら喜びのあまりに発狂しそうな予感すらある。

 通常のルートではまずもってお目に掛かることすら夢のまた夢。そんな秘酒がごとり、ごとりと無造作に置かれた場合の心境は何とも言い表しようがない。

 少女は駄目元で質問を重ねることにした。


「……ちょっと待った。昨夜の『花氷酒』もそうだけど。何がどうして商人殿は、秘酒中の秘酒を常に手元に揃えている? ついでに宝飾店を営んでいると言っていたあれは、嘘かい?」

「詳しい入手ルートについては明かせませんが、昔から何かと『酒』に好かれる質でして。……まぁ、これも何かしらの縁といって間違いではないでしょう。何が嘘で何が真か。それは追々お話していければと思っています」


 ――さぁ、どうしますか?

 まるでそう問われているように、澄み切った黄金色の酒杯が目の前に置かれた。

 少女は空を仰ぎ、束の間迷う。けれどもそう長くはなかった。


「頂くよ」

「ふふ、グラスをどうぞ」


 嵐の只中で――まぁ基本的には自分の目的が主体とは言えど――働きづくめだったのは確かだ。

 少しくらいご褒美があっても、きっと罰は当たらないだろう。うん。

 ――ただ、一つ加えるとしたら師匠には決してばれないようにしないとなぁ。再会する機会があるかすらも現時点では未定だが、もし知られれば絶対に僻まれる。拗ねたあの人はとっても面倒臭いのだ。


「むー、快晴の下で飲む檸檬麦酒(パナシェ)。こいつはなかなか美味いなぁ……」


 黄金色の酒を掲げ、時折鼻歌を交えつつ、少女は商人と共に真昼の酒宴に興じる。本日は海釣りも休業だ。

 嵐は静まり、穏やかな潮風に帆を膨らませる『大いなる双翼』号。

 大海亀の背に乗って迎える、六度目の朝である。


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